20.虎穴に入らずんば虎子を得ず
「しかし……信じられん。わしは、長年に渡ってここでの遺物の収集、管理をしてきたが、今まで一度もおかしなものを見たこともなければ、夢にさえ見たことがない。それは一体、どうしたわけなんだ」
困惑する林田に、晃が告げる。
「あなたには、類稀なほど霊格の高い守護霊がついているのです。その力によって、あなたは長年にわたって護られてきた。南方戦線から生還出来たのも、その守護霊の力添えがあってのことでしょう。その守護霊に護られている限り、この資料館の中にこもっている霊たちは、あなたに手出しは出来ません。ただ、ここを見学に来る人に影響が出る可能性があるので、一度きちんと供養し、霊たちを鎮めたほうがいいでしょう」
言い終わると、先程見せ付けられた空襲の有様が脳裏をよぎり、晃は一瞬吐き気を催した。嗅いだことがあるはずもない人肉の焼け焦げる臭いが、鼻をついたのだ。
「おい、大丈夫か。本当に顔色が悪いぞ」
「……すみません、さっき“視て”しまった光景が、トラウマになりそうで……」
結城が、心配そうに晃の顔を覗き込む。和海も立ち上がって、晃の額に浮かぶ汗を、ハンカチで拭いた。
「ごめんなさい。本当だったら、わたしが被らなきゃならない被害を、代わりに受けたようなものね。晃くんのほうが敏感に“視える”から、わたしがおぼろげに“視た”ものが、はっきり“視えて”しまったんだわ」
和海もまた、取り憑かれている間、激しく燃える炎や真っ黒な人影などが、脳裏に浮かんだという。いつぞやも“視た”空襲の犠牲者だと直感したが、自分で祓うことが出来ないほど憑かれてしまい、展示室からエントランスまで我知らず出てしまったところで、必死に耐えていたという。
「晃くんが近くまで来ているから、と言われて、何とかそれまで頑張ろうと思ったの。実際、助けてくれたけど……また負担をかけてしまったわね……」
和海は、肩を落として目を伏せる。
「もういい。これ以降、気をつければいいことだ。調べ終わるまでの間、なんとして持ちこたえなさい。私から言えるのはそれだけだ」
結城が優しく諭すように言うと、和海はうなずいた。
その様子を見ながら、晃は脳裏に焼きついた悪夢のような空襲の光景と戦っていた。
(こいつはさすがにきついぞ。俺だって、こんな凄まじいもんは見たことがない)
(遼さんだって、生まれたのは戦後だもんね。……なるほど、体験者がなかなかそれを話す気にならないのが何故か、体得出来た気がする)
(まったくだ。俺の親はギリ戦中生まれだが……子供過ぎて覚えてない世代だっただろうなあ……。なんだか怖い思いをしたって記憶ぐらいはあるだろうが)
(これ、本当にトラウマになるかも知れない……)
林田も含めた四人は、しばし押し黙ったままエントランスに立ち尽くした。もう一度展示室に入るのが、どうしてもためらわれる。
停滞した事態を動かしたのは、ほかならぬ晃だった。自ら率先して、展示室へ向かって足を踏み出したのだ。
「ここで顔を突き合わせていても、仕方ありません。行きましょう」
結城や和海は慌てた。
「おい、本当に大丈夫なのか。まだ顔色が青いぞ。無理はするな」
「そうよ、少し休んだほうが……」
しかし、晃は静かに微笑んで見せる。
「……困難は、自分の力で乗り越えなければ、いつまで経っても乗り越えられません。僕だって、さっき見せ付けられたものは、正直に言って恐怖以外の何ものでもないものでした。今でも、鼻先で肉の焦げる臭いがする気がするくらいです。でも、逃げていたら、一生涯その光景がまぶたの奥に焼きついて、離れなくなる。それを見せたものと対峙して、乗り越えなければ、先へは進めなくなります。これからも、そういうものを“視せる”ものたちに出会うはずなんですから」
微笑んでいる表情とは裏腹に、晃の目は少しも笑っていない。
「……それが、この仕事を選んだものの宿命。仮にこの仕事をやめたとしても、僕の能力が消え去ることがない限り、宿命は残ります。ならば、あえて正面からぶつかりたいんです」
それを聞き、結城も和海も真顔でうなずいた。
「わかった。行こう」
「行きましょう」
三人が展示室のほうに歩き始めると、その背中に林田が声をかけてくる。
「……あなたがた、今までのやり取りを聞いていると、研究者じゃなくて『霊媒師』か何かのようですな。違いますか」
三人は一旦足を止め、結城が代表して答える。
「ご察しのとおりです。完全に霊媒というわけではありませんが、死者が何を求めているかを知ることが出来るものです。そして、死者たちが現世に生きる人々に対して何かを強く働きかけたことによって起こる不可思議な事件の真相を究明し、それが二度と起こらないようにするのが、我々の仕事です。今も、ある人からの依頼を受けて、やはり霊絡みと思われる事件を調べています。その原因となった者たちが、どうやらここの資料室にあるものと繋がりがあるということに気づき、調査にやってきたのです。これ以上のことは、依頼人との間に守秘義務がありますので、申し上げられませんが」
その言葉に、林田はすべてが腑に落ちたという表情になった。
「……わかりました。やはり、わしではどこか至らないところがあって、霊たちが鎮まってくれなかったのでしょうな。どうぞ、お調べください。わしもそう遠くない日に、ここにいる人たちと同じところに行くでしょう。そのとき、謝ってきますから」
林田が、深々と頭を下げる。三人も無言で頭を下げ、そして展示室に入っていった。
展示室の中は、さまざまな物品や写真を引き伸ばしたパネルなどが飾られていた。中には、ひどく焼け焦げた瓦や、原形をとどめないほど融けて歪んだガラスの文鎮といった、空襲のあとから見つけ出されたと思われるものがガラスケースの中に置いてある。
「……いろいろ感じますね。僕には、こういった品物の持ち主たちの叫び声が聞こえるんです。小田切さんに取り憑いていた霊を除霊したとき、その霊たちが叫んでいたのと、同じ叫び声が。誰も皆、想いは同じでしょうからね……」
ガラスケースの中の品物を見ながら、晃が溜め息をついた。
実際、そこかしこから、悲鳴のような、呻き声のような声が聞こえてくる。晃はしばらく、その声を聞くとはなしに聞いていたが、不意に耳をすませた。
「……聞こえる。小さな女の子の声。泣いている。……あの子の声だっ」
晃がいきなり、ある一点を見つめた。そこは、何も飾られていないただのパーテーション代わりのパネルに見えた。だが、晃はそこに歩み寄ると、いきなりパネルをずらした。
その向こうから現れたものを見て、結城も和海も息を飲んだ。そこには、ひときわ雑然とした展示されていない物品などが、壁との間に無造作に置かれていた。
そして、壁に立てかけられていたモノクロの写真パネルには、防空頭巾を被った少女が写っていた。それは間違いなく、結城を父と呼んだあの女の子だった。
「……ここにいたんだね、渡部花子ちゃん。いつもは、この写真の中にいたんだね……」
晃は、ゆっくりと写真パネルに歩み寄る。そのとき、和海が異変を察知した。
「晃くん、行ってはだめ。あたりが歪み始めてるわっ!」
結城もまた、あたりから湧き出した妖気ともなんともつかぬものが、この展示室自体の空間を歪め始めていることに気づいた。
晃のあとを追おうとした和海を、結城が腕を摑んで止める。
「行ってはいかん。君まで巻き込まれる!」
二人の見ている目の前で、写真パネルの真ん前の空間が大きく歪み、まるで黒い穴がぽっかりと開いたようになる。
二人よりずっと能力の高い晃が、異変に気づいていないはずはなかった。だが、逃げようとする様子が見えない。と、黒い穴の中から、小さな子供の手が伸びてきて、晃の右手を摑み、一気に引っ張りこんでいく。
二人が息を飲んだ瞬間、晃は振り返り、二人に向かってはっきりこう言ったあと、穴の中に姿を消した。
「行ってきます!」
晃の姿が見えなくなった途端、空間の穴は消えた。周囲の歪みはまだ残っているが、今いる場所から動かなければ、歪み自体の危険はないだろうと感じられる。
「……晃くん、もしかして、わざと引き込まれたのかしら……」
「そうかも知れん。『行ってきます』と、間違いなく言った……」
二人は、困惑したまま顔を見合わせた。
形としては、晃が『神隠し』された状態なのだが、二人の気持ちとしては、自分たちが現世に取り残されたような気がしていた。
どうすればいいのか、見当もつかない。ただ立ち尽くしたまま、晃が消えたあたりを茫然と見つめることしか出来なかった。
「大体、何故こんな中途半端な展示の仕方をしているんだ。壁との間にあった、この品物は一体なんなんだ。こんなところにあるから、さっきは気づかなかったじゃないか!!」
気持ちの持って行き場のない結城が、吐き棄てるようにつぶやいた。
「それに、まだわからないことだらけよ。被害者の持田さんと、写真の女の子は、どこで出会ったのよ? 仮にここに来てたとしても、これじゃ気がつかないじゃないの!」
和海もまた、苛立ちを隠せないままに写真パネルを睨みつける。
あたりは、異様なまでに静まり返っていた。