19.過去からの亡霊
翌日の夕刻、晃がまだ大学にいる間に、和海からメールが送られてきた。今日は、例の資料館に直行してほしいという。
“もう一度連絡を入れて、見学時間を早めてもらったの。わたしと所長で先に行っているから、大学から直行してね。というわけで、現地集合だからよろしく”
ガラケーに送られてきたメールを見て、晃は苦笑した。やはり一刻も早く様子を確認したかったのだろう。
(中に入った途端、ひっくり返るんじゃないか、あの二人……)
(“視た”だけで、うわっと思うほどの妖気だったからね。一応、昨夜それとなく示唆しておいたから、まったく心の準備もせずに入っていくことはないと思うけど)
(まあな。向かう途中で、『何とかしてくれー』みたいな緊急連絡が来ないことを祈る)
(いくらなんでも、そんな連絡来ないだろう。僕の移動手段が、公共交通機関しかないことくらい、わかってるはずだもの)
(護り石があるだろう。あれを通して干渉が出来ることは、あの二人は知ってるはずだぜ。お前自身が『霊視した』ってバラしてるんだからな)
それは、確かにそのとおりで、護り石を通して能力を行使した結果、あのビルに行き着いたのは事実だ。
だが、如何に晃であっても、“本気”にならなければ、つまり、遼の力を呼び込まなくては、“視る”ことは出来ても、“干渉する”までは出来ない。晃の能力は、遠隔地に干渉する力が極端に弱いのだ。しかし、あの二人はそこまではわからない。
(“本気”になった状態で、街は歩けない。気配からして、生きている人間のものとは違ってしまうんだ。ちょっと勘の働く人なら、すぐさま何かに気がついて不審に思うだろう。まして霊感のある人なら、僕を見ただけで恐怖を感じるに違いない。そういう眼で見られるのは、さすがにつらい……)
(そうだよなあ。とにかく、大急ぎで資料館に行くしかないだろうな。早いとこ合流すれば、三人力を合わせることが出来る。そうすれば、余程のことが起こらない限り、お前が“本気”になる必要はなくなる)
晃は急いで帰り支度をすると、早足で大学をあとにした。ちょうどやってきたバスに乗り、十分余りで駅につくと、そそくさと改札を抜ける。
ホームで快速電車を待つ数分の間が、妙に長く感じた。
やってきた電車に乗って、三十分ほどで乗り換えのターミナル駅に到着する。ここで地下鉄に乗り換え、十数分で問題のビルの最寄駅にたどり着いた。
さらに、最寄の出口の階段を登って地上に出たところで、ジャケットの胸ポケットに入れたガラケーが振動し始めた。急いで引っ張り出すと、着信を確認する。結城からの電話だった。
胸騒ぎがして、ビルに向かって歩き出しながら、電話に出る。いつもは、連絡してくるのは和海のはずだ。結城が直接連絡してくるのは珍しい。それだけに、嫌な予感がする。
「所長、どうしたんですか。僕は今、地下鉄を降りて、そちらに向かって歩いている途中ですが」
「おお、そうか。もうすぐ来るんだな。助かった。実は、小田切くんが……」
「え、小田切さんが、どうかしたんですか?」
「取り憑かれた。案内役の林田さんも腰抜かしてるし、早く来てくれ」
「わかりました。もう、見えてきています。あと、一、二分ですから」
電話を切りながら、護り石に意識を合わせる。和海のほうの石は本人の近くにはない。すぐ傍にいる結城が身につけた護り石の力で、かろうじてすべての意識を乗っ取られてはいない状態だったが、体を動かすことも出来ないでいるのがわかった。背筋に悪寒が走る。
(さては持ってくるのを忘れたな。しかし仮にも霊能者だ、そんなにあっさりと取り憑かれるものか?)
(不意を突かれたのかも知れない。小田切さんは、元々受動能力のほうが強い人だ。別なものに意識がいっているときに不意打ちされたら、それを撥ね返せる保証はない。所長は、余程波長が合っている霊体でない限り、取り憑かれる可能性は低いんだけど、小田切さんはそうじゃないからね)
早足でビルのエレベーターの前にやってくると、ボタンを押してエレベーターを呼び、四階のボタンを押して“閉”ボタンでドアをと閉じると、エレベーターが動き出す。
エレベーターのドアが開き、四階のフロアに一歩足を踏み入れた途端、護り石を通して感じたのと同じ悪寒が走る。『戦前・戦中の資料館』と書かれたドアが半開きになっていて、中から女性のものらしい唸り声が聞こえた。
急いで中に踏み込むと、入ってすぐのエントランスになっているところで、和海がうずくまり、傍らに顔色を失った結城が彼女の肩を支えるようにして片膝をついていた。その向こうでは、スーツ姿の林田老人が茫然自失の表情で座り込んでいる。
あたりを照らす蛍光灯は、オフィスなどにも使われる普通の棒状のものなのだが、何故か暗くなったり明るさが戻ったりをゆっくり繰り返している。それは、寿命切れの明滅とは明らかに違っていた。
うずくまる和海の背中に、真っ黒な人影がへばりついているのが“視え”た。幾体かの霊が圧縮されているようで、何本もの腕が、和海の体にしがみつき、取りすがっている。結城はもちろんそれがわかっているのだが、霊の執着のほうが強すぎて、祓うことが出来ないようだ。
晃は素早く和海に近づくと、彼女の額に右手を押し当てて念を込めながら、“左腕”で背後にへばりつく真っ黒な人影の首のあたりを摑み、ゆっくりと息を吐きながら引き剥がしに掛かった。
黒い人影は激しく抵抗したが、内からは晃が込める念の力で追い出され、外からは力づくで引き剥がされ、和海の体から離れていく。
(嫌だよ。家へ帰るんだ。帰るんだよ)
(熱かったんだよ。まだ生きていたかったんだよ)
(まだ死ねないんだ。乳飲み子を残してなんか、死ねない)
さまざまな思念が、同時に晃の中に流れ込んでくる。刹那、周囲すべてが業火に包まれ、なすすべもなく炎の中で倒れていく人々の姿が、目の前にありありと“視え”た。恐ろしい勢いで燃え盛る炎の音の奥に、重低音のエンジンの音が聞こえる。次々と、何かが風を切る鋭い音、直後に響く爆発音。そのたびに、新たな火柱が吹き上がる。
空襲……焼夷弾の炸裂……肉の焦げる異臭……断末魔の叫び声
すべては、教科書でしか知らないはずの、戦争の記憶。
正視出来ないほどの惨状が、眼前に現れる。目を閉じても、それはより一層はっきりと現れるだけだ。晃は歯を食いしばり、右の掌に感じる和海の額の感触でかろうじて正気を保ちながら、あえて地獄絵図を見続け、霊たちの思いを受け止め、それでも和海を救うために“左腕”に力を込める。
「離れよっ!」
喉の奥から絞り出すような声で、晃が叫んだ瞬間、黒い人影は和海の体から離れた。そこで晃が“左腕”の力をわざと抜くと、それは音もなくエントランスを抜けた展示室のほうに姿を消した。途端に、蛍光灯の明滅は止まり、和海は力なく床に突っ伏す。慌てて結城が抱き起こすと、和海はそれを制して自ら半身を起こした。
「……小田切さん、大丈夫ですか」
肩で息をしながら、晃が和海に声をかける。
「……晃くん。ごめんなさい、取り憑かれた……」
言いながら、和海はうつむいて両手で顔を覆い、大きく息を吐いた。そうしてから、両手をはずして晃や結城の顔を見上げる。
「……昨日、晃くんには、言われてたのよね。『あの家にあったものより強烈なものが大量にあるはず』だって。それなのに、あちこちから嫌な気配はあったのに、取り憑かれてしまって。うっかりして、護符の護り石を、身につけてくるのを忘れたの……」
そう言って、和海はまた目を伏せ、唇を噛んだ。
「しかし、早見くんがちょうど近くまで来ていてくれたのは、運がよかった。だが……今のでだいぶ力を使ったな。顔色がよくないぞ。休んだほうがいいんじゃないのか」
結城が、晃の顔を覗き込む。晃は、かぶりを振った。
「いえ……今の僕が顔色が悪いとしたら、それは、とんでもないものを“視た”からですよ。そうひどくは消耗していません」
とんでもないものとは、と結城が問いかけようとしたところで、林田老人が先に声をかけてきた。どうやら、我に返ったらしい。
「……一体全体、今のはなんだったのですか。“取り憑かれた”と言っていたが、まさか、資料館に置いてあるものが……」
結城が振り返り、静かにうなずいた。
「そのまさかですよ。あの資料館に置かれているものに、死者の念がこもったものがありましてね」
結城の言葉に、林田は愕然とした表情を浮かべる。晃もまた、その美しい顔を苦痛に耐えるかのように歪めながら言った。
「僕が視た“とんでもないもの”とは、空襲の光景です。頭上から焼夷弾が降り注ぎ、火の海となった世界で、次々人々が炎に飲み込まれていくという恐ろしい光景でした。今でも身震いするほどです。小田切さんに取り憑いていたのも、間違いなく空襲の犠牲者でしょう。空恐ろしいまでの、生への執着を感じました。だからこそ、生前やり残したことをやりたくて、小田切さんに憑依したようです」
しかし、と林田が首をひねる。
「そういうものが見えたということは、あんたたちは“そういう人”なのか?」
それには、三人が同時にうなずいた。