31.居場所
晃を見送ってのち、その場所の近くに少し開けたところを見つけ、一人から二人で使うサイズのテントを張り、その周囲に最低でも同時に四人が結界を張るために囲み、テントの中に万結花に入ってもらって、残りはその周辺で野宿することになった。
本当は、霊能者ではない雅人にもテントに避難してほしかったのだが、雅人がそれを拒んだ。
『自分の身は自分で何とかするから』と。
もっとも、晃が本気で乗り込んでいったなら、向こうはそれを迎え撃つのに精いっぱいで、こちらには注意は向かないだろうという思いもあった。
交代で、地面に敷かれたレジャーシートの上で、エマージェンシーシートに包まりながら仮眠を取り、晃を待ち続けていた。妖であるアカネや笹丸は、揃って寝ずの番を引き受けていた。
誰も、帰ろうなどと言い出さなかった。
中でも万結花は、テントの中でほとんど一睡もせず、ひたすら祈り続けていた。
「どうか、晃さんが無事に帰ってきますように……」
万結花だけではない。誰もが、晃が帰ってくることを祈っていた。
それは、東の空が、わずかに明るさを帯びてきたころだった。
すぐそこを漂っていた瘴気が、急速に消えていくのだ。
瘴気が消える。それが意味することは、瘴気を生み出す元凶が消えたということ。
起きていた者は、誰もが思わず顔を見合わせ、次の瞬間、仮眠を取っていた者を叩き起こした。
誰もが、自分の目を疑った。まさか、瘴気が晴れるとは。
そして、ひとつの可能性を脳裏に思い浮かべていた。
“晃が禍神に勝ったとしたら?”
可能性としては極めて低いが、万に一つという言葉もある。可能性は、ゼロではない。
本来のトレッキングコースからは少し外れていることもあって、まず人などこないだろう。
誰もが後始末を放り出し、その場をあとにしてさらに奥へ向かって慎重に進み始めた。
ヘッドランプや懐中電灯で前方を照らしながら、朧げに浮かぶ獣道をたどる。
焦る気持ちを抑えながら、歩みを進めることしばし、前方に人影を捕らえた。
慌てて灯りを集中させたとき、そこに浮かび上がった姿に、誰もが息を飲み、立ち尽くす。
そこには、晃が立っていた。着ていた服を、血で赤黒く染めた姿で。
服の前面は、ほぼ血に染まっていた。それだけではなく、あちこち穴が開き、破れ、鋭い刃物で切り裂かれたようになっていた。
とても、平然と立っていられるはずなどない姿だったのだ。
誰もが言葉をなくしていたが、やがて一番場慣れしているのだろう結城が口を開く。
「……君は、早見くんだろう? その姿はいったい……。歩けるのか? 痛みはないのか?」
晃は、冷静な表情で答える。
「……歩けますよ。ここまで、歩いてきましたから。……疑問に思われても不思議じゃないと、自分でもわかってますが……」
その時、法引が真顔でこう言った。
「……早見さん、今のあなたには、遼さんの気配が感じられません。何があったのですか? 遼さんは、あなたの“人”としての命を支えている存在のはず。それが感じられないとは……あなたは本当に早見さんなのですか?」
それを聞いて、誰もがぎょっとした。晃と遼は、同化していて切り離すことなど出来ないはず。それでは、目の前の人物はいったい……?
しかし晃は、苦笑を浮かべただけだった。
「……やはり、和尚さんには見破られてしまいますか」
そう言うと、晃もまた真顔になって告げた。
「……はっきり言います。みなさんの知る“早見晃”は死にました。ここにいるのは、その記憶を受け継いだ、ただの妖です」
それを聞いて驚愕のあまり言葉を失う六人と二体を前に、晃はさらに続ける。
「今見えているこの姿は、人に紛れるための仮初の姿。これから僕の、本当の姿をお見せします……」
次の瞬間だった。今まで普通の人間に見えていたのが、いきなり存在感が膨れ上がる。
髪の毛一本一本にぬめるような青い光がまとわりついて揺らめき、朱く光る眼は、右眼の瞳孔が猫目を思わせる長楕円に、左眼は瞳孔が完全に縦に裂け、どこか爬虫類のそれを彷彿とさせた。
上唇の両端から下向きに突き出す牙は、顎のラインに迫るほど長く、左手の爪は優に三十センチを超え、右手の爪さえも十センチを超えていた。
誰もが気圧されて一歩下がりたくなるほどの、“視た”だけで強大な力を有するとわかる妖が、そこにいた。
顔立ちそのものは、晃のままではあるが、受ける印象は空恐ろしささえ感じる圧倒的なものだ。
これが、今の晃の本性だった。
そして、それだけではなかった。
晃の背後から、うぞうぞと気配が集まり、数を増やしていく。
それらはすべて、妖だった。
にわかには、到底数えることも出来ないほどの妖が、その姿を朧げに現してきていたのだ。そして、何かを言い始めた。
始めは言葉を聞き取れなかった。しかしそれは次第にはっきり聞き取れるようになり、ついには大合唱のようになった。
『……妖魔王サマ、バンザイ……』
『……【神喰ライノ妖魔王】サマ、バンザイ……!』
背後の妖たちが、誰のことを称えてこう唄っているのか、誰も皆わかった。
目の前の晃を、そう呼び、称えているのだ。
“神喰らいの妖魔王”
それが、今の晃なのか。
「……晃くん……答えて。あなたは本当に、“妖魔王”と呼ばれる存在なの?」
声が震えないように必死に抑えつけながら、和海が問いかける。
「……そうですよ。今の僕は、人だった頃の肉体を依り代にしているだけで、すでに実体のある存在ではありません……」
「……それでも! ……それでも、最初にわたしたちのところに現れた時、あなた人間のふりをしていたわけでしょう? それは、どうして?」
和海の声は、抑えきれずに震えていたが、どうしても聞きたいという思いに満ちていた。
晃は、微苦笑のような表情を浮かべた後、ぽつりと言った。
「……出来ることなら……人に紛れていたかった……。すぐに……見破られてしまいましたが……」
それを聞き、皆思った。
晃はまだ、『人として生きたい』と思っているのだと。実際、最初に現れた時、晃は人と見分けがつかない状態だった。ならば……
その時だった。
「晃さん、帰ってきてくれて、ありがとう。あたし、決めました」
不意に、決意を秘めた顔で、万結花が一歩前に出る。
「あたし、はっきり感じるんです。どれほど、圧倒的な気配に変わってしまっても、晃さんは“暖かい”んです。それは、初めて会った時から、全然変わってません。だからあたし、晃さんを信じられる。それにあたし、わかるんです。今の晃さんなら、受け止められるって」
そう言うと、万結花は一つ深呼吸した。
「あたしは“贄の巫女”として、晃さん、あなたを選びます!」
その瞬間、万結花の体から霊力が膨れ上がり、あふれ出したかと思うと、渦巻く奔流となって晃に向かい、その体に吸い込まれるように消えていく。
誰もがそれを、声もなく見つめていた。
しばし続いたそれは、やがてゆっくりと消え去り、終わった。
晃は、明らかに呆然と立ち尽くしていた。まさか、万結花が自分を選ぶとは思っていなかったのだ。
そして、晃を含めたこの場の誰もが、じわじわと現実に気づいていく。
晃が、万結花の霊力を受け止めることが出来るだけの存在となっていたことに、やっと気が付いたのだ。
そして今ここで、万結花が宣言したことで、万結花の霊力が晃に受け渡されたのだと。
晃自身もまた、気が付いた。晃の体には、万結花から受け渡された清涼なまでの力が、隅々までめぐっていると感じる。それは、今までになかったことだ。
“贄の巫女”が仕えるのは、『神』か『神に準ずる存在』。今の自分は、その『神に準ずる存在』なのだと。
万結花が、白杖を手に、ゆっくりと近づいてくる。足元が悪い中、慎重に、しかし確実に、自分に向かって。
幾度となく、自分は励まし、支えてくれた人。曲がりなりにも自分が帰ってこれたのは、万結花が居てくれたから。
晃の胸に、彼女への愛しさが膨れ上がり、頭が真っ白に塗りつぶされた。
気づいたときには、晃は万結花の身体を固く抱きしめていた。今まで、どれだけそうしたくても出来なかったことだ。
万結花もまた、晃の体を抱きしめ返してくれた。彼女のぬくもりを感じることが出来る。
もう、二人の間に、隔てるものはなくなっていた。
万結花が、顔を上げて晃の顔を見上げる。見えてはいないはずだが、気配でわかるのかもしれない。
晃は、抑えきれない衝動のままに、唇を重ねた。
もちろん、わずかな時間触れ合っただけの、ささやかな口づけ。それでも、今の二人には充分だった。
今の自分なら、万結花を本当の意味で愛することが出来る。それだけで、心が満ち足りていく。
その時、不意に咳払いが辺りに聞こえた。
はっと我に返ってそちらを見ると、複雑な表情をした雅人が、睨むともいえないような目つきで、こちらを見ていた。
「……一応、他にも人、いるんだがなあ……」
慌てて離れる二人に、結城が苦笑する。
「……無粋だとはわかってはいたんだが……。こっちが気まずいというか、気恥ずかしいというか……」
確かに、我に返ってしまえば、これだけ周囲に人がいて、何をしているんだと言われても仕方がない。
ハグまでは許されただろうが、見つめ合っての口づけは、場の勢いとはいえやり過ぎたかもしれない。
「……でもあたし、嬉しかったの、晃さん……」
やっと聞き取れるほどの声で、万結花が告げる。そういった彼女は、耳も頬もすっかり赤くなっている。晃もまた、妙に顔が熱く感じていた。
周囲にいる人たちの表情が、まともに見られない。
先程までの、どこか緊張感に満ちた空気が、完全に吹き飛んでいた。
拍手の様な音が聞こえるのはきっと、妖たちが祝福してくれているのだろう。
ああ、自分にも、こんな感情が残っていた。
今まで、どこか不安だった。人に紛れることなど、出来るのだろうかと。
でも、今ならきっと出来ると思えた。
(……な、帰ってきて、よかったろ?)
優しく話かけてくる遼の気持ちが、嬉しい。
(……そうだね。信じて、帰ってきて、よかった。考えてみれば、妖魔王の本性を現した時だって、誰一人逃げたりしなかった。受け止めようとしてくれた。そういうことだったんだ……)
アカネが、嬉しそうに晃の肩の上に駆けあがってくる。それを見る笹丸の顔は、どこか呆れたような、どこか安堵したような、そんな表情だった。
結城や和海は微笑ましいものを見るような顔で、法引と昭憲親子は少し苦笑しているような、昭憲には少しうらやましいという感情も感じられて。
雅人は中でも一番生温かい笑みで、実の妹と晃を交互に見ている。
やはり自分は、ここに居ていいのだ。姿を消さなくていいのだ。
晃はもう一度、自分を見出してくれた万結花を、そっと抱きしめた。