30.妖
前回ほどではありませんが、ショッキングに感じるシーンがあります。
ご注意ください。
その直後、荒々しいまでの力が、晃の中に流れ込む。
ほとんど感覚がなくなってきていた体に、熱いまでの力の奔流が渦巻いた。
見えなくなっていた目が、視力を取り戻す。しびれていた体に感覚が戻り、力が入るようになる。
何故だかわからない。しかし、間違いなく痛みも何も消え、体が軽く感じる。
『お、おのれ……化け物が!!』
焦りと怒りの混ざった禍神の声がする。攻撃の気配がする。
晃は咄嗟に手首を離し、体を回転させてその場を逃れると、素早く立ち上がった。
その晃の眼に、先程まで晃が倒れていた場所に、刀を突き立ている禍神の姿が見えた。
禍神は刀を引き抜くと、怒りの表情を浮かべて晃のほうを睨んだが、その顔にかすかな驚愕の色が見える。
『……ついに、まことの化け物になりおおせおったか』
晃の体を、熱いと感じるほどの力が激しく駆け巡っていた。今なら、禍神と何とか戦えるかもしれない。
『化け物めが! 失せるのじゃ!!』
禍神が太刀を構え、その刃で空を切る。
それは見えない刃となって、晃の元に飛んできた。晃は気配を感じて左手を一閃させる。
間違いなく手ごたえがあり、見えない刃を形作っていた力が、晃の中に流れ込む。
今度は、こちらからだ。
晃は一気に間合いを詰めた。
禍神が、太刀を振り下ろす。晃の左手がそれを受け止めるなり、相手の手首から先が太刀ごと跳ね飛びかけ、そのまま消え去った。
禍神は今度こそ、愕然とした表情になった。
『馬鹿な!? この化け物!!』
禍神の顔が、苦痛に歪む。
「うるさい!」
晃が突進すると、禍神はそれをかわした。
余裕を持ってかわしたという感じではなく、必死に逃げたとしか見えなかった。
消え失せた右手は復活せず、どうやら左手では太刀を呼び出すことは出来ないらしい。
逃げ回る禍神に業を煮やした晃は、<念動>で宙を飛び、一気に間合いを詰め、肉薄した。
晃はそのまま組み付くと、左手の爪を突き立て、右手も相手の体をがっちりと掴んだ。
禍神の力が流れ込む。しかも、左手だけではなく、右手側からも。
逃れようと暴れる禍神だったが、その力は急速に落ちていく。
自分の目の前にいるのは、曲がりなりにも“神”と呼ばれた存在だったはずだった。
しかし、今眼前に見えているのは、現れた時の圧倒的な存在感を失い、人の姿をした少し力を持った妖程度にしか見えなかった。
晃を見る禍神の顔に、今度は恐怖の色が混じる。
『この……化け物!!』
吐き捨てるように叫んだ禍神に、晃もまた怒鳴り返した。
「お前のような存在を滅するためならば、いくらでも化け物になってやる!!」
それは本気だった。
今までも、自分が化け物だとは思っていたが、禍神の力を喰らって自分の力が増したと感じた今は、きっと正真正銘化け物と化したのだろう。
わかっていたことだ。穢れを溜め続ければ、自分は化け物になるとわかっていた。
きっと、先程がそうだったのだ。
ならば、思う存分“化け物”としてやってやる。
禍神の力は見る見る弱まっていく。それでも、相手は逃れるために暴れ続けている。
絶対に逃さない。
口元の違和感がひどく、やたらにむずむずする。晃はほとんど本能のままに、禍神の首筋に喰らいついた。
今までとは比べ物にならないほどの力が、晃の中に一気に流れ込んでくる。
目の前の禍神の存在が、急速に薄れていく。
『……馬鹿な……。儂は……神の……力を……取り戻して……』
そう言いかけ、禍神の姿が消えていく。それと同時に、禍神が持っていた膨大な記憶が晃の中に流れ込んできた。
神々の中でもその力を恐れられ、敬われていた存在だった。
遠くは【マガツヒ】とも呼ばれ、災厄を司るとも、逆に災厄から逃れる力も持つともされた神の力を受け継ぐもの。
そのままであれば、同じような出自を持つ神と同じように、厄よけの守護神として祀られているはずだった。
だが、彼は力を望んだ。
自らが、人を支配し、周辺の神を支配する野望を持ち、そのように振る舞った。
その結果が、周辺の神々による“封印”だった。
そして封印が解かれ、力を取り戻すために“生贄”をむさぼった。
生贄を手にかける、とても正視出来ない光景が、一瞬と言えど脳裏に浮かぶ。
動揺した途端、相手の記憶の奔流に飲まれそうになる。長年の記憶は膨大で、晃自身の意識が押し流されかけた。
このまま押し流されれば、下手をすると相手に意識を乗っ取られるか、あるいは正気を失うか。
その時、この場では聞こえるはずのない声が聞こえた気がした。
“……晃さん……”
はっと我に返る。この記憶は、自分に喰われつつある記憶なのだ。逆に喰われてどうする!
自分自身を叱咤し、記憶の奔流を死に物狂いで押さえつけ、歯を食いしばって力として飲み込んでいく。頭の中に火花が散るようだった。全身から脂汗が噴き出したが、それでも何とか自分の意識を保ち続ける。
ふと気が付くと、壊れた祠の傍らに立ち尽くしていた。
まだ真っ暗な辺りを見回すと、周辺の景色は間違いなく“異界の入り口”だったあの祠だった。ただ、濃厚に漂っていた瘴気は、影も形もない。
……終わったのだ、すべて……
晃は、自分の手を“視た”。
左手の爪は、三十センチ余りにも伸び、一つ一つが細身の小太刀を思わせた。右手の爪も、十センチを軽く超えていた。
口元の違和感もひどく、舌で触って確かめると、その牙は明らかに上唇の両端から大きく突き出しているとわかった。
他は、自分では見えないのでよくわからない。ただ、時折ぬめるような青い光が視界の端をよぎるような気がするのは、本当に気のせいだろうか。
それでもはっきりと自覚したことは、自分は本当の意味で人ではない存在になったということだった。
戦っていた時は忘れていたが、自分で自分を滅するために、敵陣に乗り込んだのではなかったか。
……まさか自分が生き残ってしまうとは、思わなかった。
自分はこれから、どうすればいい?
本当の意味で化け物になり果てた自分は、本当にこれからどうすれば……
呆然自失となる晃に、遼が語りかけてくる。
(……晃、帰ろう。お前には、待っていてくれる人たちがいるはずだろ?)
(……本当に待っていてくれると思う? 仮に待っていたとしても、それは人間だった僕を待っているだけで、化け物を待っているわけじゃない……)
(そんなことはない! あの場でみんな言ってじゃないか! 『帰って来てくれ』と。もうすでに半分異形だったお前を、受け入れてた人たちだぞ。拒むものか!)
(……だけど……)
遼を受け入れて後、心の奥底にずっと消えずに残っていた思いが、再び首をもたげてくる。
異形の存在を、本当の意味で受け入れてくれる人など、本当にいるのか?
いつぞや自分のことを話した時には、まだかろうじて半分は人間の範疇に入る存在だった。だが、今は違う。
自分は化け物なのだ。妖なのだ。今の自分がどういう状態なのか、自分でもよくわからないが、人ではないことだけはわかる。
そう思うと、もうどこにも自分の場所などないように思える。
どうすればいい? こんなことなら、いっそ正気を失ってしまっていればよかったのかもしれない。そうすれば、ただの妖として、退治してもらえたかもしれないのだ。
晃はその場に立ち尽くしたまま、一歩も動けないでいた。