22.アカネと万結花
朝、目覚めたときに、傍らにいたアカネによって、昨夜の出来事が伝えられ、万結花は胸が痛くなった。
万結花は直感していた。晃がまた、少し壊れただろうと。
自分で自分を追い詰め、自ら進んで死地に赴こうとしているような気がしてならない。
“行っちゃダメ。行かないで、晃さん……!”
今は朝のはずなのに、いまだ夜のような気がする。
かすかに震える手が、傍らの時計の上部を軽く叩く。
『ただいま午前六時十七分です』
時計が、朝の時刻を告げる。
ああ、朝だ。
間違いなく朝なのだ。
それなのに、どうしてこんなに暗い気持ちになるのだろうか。
(あるじ様、ゆらゆらしてる。まだ、こっちだけど、いつ向こうに行くか、わからない……)
アカネも、どこか不安げだった。
アカネとて、あるじである晃が不安定になっては、落ち着かないに違いない。
それでも、いつまでも寝ているわけにもいかない。
上体を起こすと、上掛けの布団をそっとめくり、体の向きをずらしてベッドに腰かける体勢になった。
両足を床に着いて、立ち上がる。
一旦ベッドのほうに向き直ると、手探りでベッドを大体整え、ひとまず着替えることにした。
部屋の中は、どこに何があるか、すべて頭の中に入っている。
パジャマから、外に出ても大丈夫なワンマイルウェアに着替えると、ざっと髪をとかしてゆっくり部屋の外に出た。
洗面所で歯を磨いて顔を洗い、身支度を整えると、もう一度部屋に戻る。
再びベッドの上に座ると、大きく溜め息を吐いた。
朝のルーティンとなっていることを終えても、気持ちは塞いだままだ。
晃が、自分から離れていく。自分を護るために。
そこまでしなくてもいいのに。何度そう思っただろう。
晃のことを考え、何も手につかない状態になっていたところで、舞花がドアの外から声をかけてきた。
「お姉ちゃん、朝ごはんだよ」
それを聞き、万結花は立ち上がってドアを開ける。
「おはよう、お姉ちゃん」
「おはよう、まいちゃん」
いつものように挨拶を交わしたのだが、急に舞花の声の調子が変わった。
「……お姉ちゃん、どうしたの? なんだか、顔色が悪いよ」
そんなに顔に出てしまっていたのだろうか。
「お姉ちゃん、大丈夫? 朝ごはん、食べられる?」
舞花の声が、心配をにじませたものになる。
「……食べられるわよ。でも……そうね、ちょっと考え事をしてて、悪い方に考えが寄っていっちゃったのかも……」
「……あんまり、余計なこと考えない方がいいよ、お姉ちゃん」
そう言うと、舞花が万結花の手を取って、そっと部屋から連れ出した。
万結花が部屋の外へ出たところで、舞花がドアを閉めたようで、ドアの閉まる音が聞こえた。
そうして、いつも朝食を食べているダイニングキッチンに着くと、いつもの席に案内してくれた舞花に礼を言い、椅子に座った。
味噌汁の匂いがする。少し香ばしい匂いは、魚の照り焼きだろうか。
自分も時々料理を作るが、とても母にはかなわない。
いつか、誰かに料理を作ってあげられる日が来るだろうか。
……誰かって、誰?
そう考えたとき、晃のことを想った。
晃さんに、食べてほしい。ふと、そう思った。
でも彼は、そんなことがあっさり実現出来るような、状態ではなくなっている。
その時、兄の気配が近づいてきた。
「万結花、どうした?」
軽い感じで声をかけてきた雅人だったが、不意に耳元でやっと聞き取れる程度の声が聞こえた。
「……早見のことか?」
万結花がうなずくと、さらに一言続いた。
「……朝飯食い終わったら、おれが部屋に行く」
晃のことを相談出来るのは、自分と同じく代償のことまで知っている兄の雅人しかいない。
兄の言葉にひとまず心を落ち着け、万結花は朝食を食べることに専念した。
「いただきます」
休みの朝食らしく、家族みんなの声がする。
父と母が、軽口を言い合う。舞花が賑やかに笑い、雅人が家族に突っ込む。
いつもの雰囲気だ。
だけど……
自分は、晃のことを考え、いつもの輪の中に入り切れないでいる。
食べることに専念している割に、どうにも味がよくわからない。きっとおいしいのだろうと頭ではわかっているものの、それがちゃんと感じられない。
それでも何とか、万結花は食事を終えた。
「ごちそうさまでした」
自分の分の食器をまとめると、それを流しに持っていったところで、俊之がそれを受け取る。休みの日には、父が食器洗いを引き受けるのが、いつものこと。
食器を父に渡し、万結花自身は部屋に戻る。
そして、ほどなくして、部屋のドアがノックされた。
「万結花、居るか?」
兄の声だった。
「兄さん、入って」
万結花がドアを開けると、そっと雅人が入ってくる。
「……早見のことで、何かあったんだろう? 何があったんだ」
さっそく尋ねてくる雅人に、万結花は朝方のアカネとの会話の内容を話した。
「……そうか」
そう答えたきり、雅人が押し黙る。
しばらく黙っていたが、やがて雅人は口を開いた。
「……あいつ、ほんとにヤバくなっていそうだな……。『いつ“向こう”に行くかわからない』か……」
雅人の声は、どことなく暗い。
「……なあ、万結花。アカネに、伝えてくれよ。『万一の時は、知らせてくれ』って。あいつを一人で行かせるわけにいかない……」
雅人の声が、固い。
その瞬間、万結花は悟った。兄もまた、覚悟を決めたのだと。
「……おれは、あいつと約束したんだ。『お前が、どんな姿になろうと、おれはお前の隣に立つ』と。だから、おれはその約束を守る……」
淡々とそう言った雅人は今、どれだけの思いを抱えているだろう。
そして万結花も思った。自分も、兄と一緒に隣に立ち続けたいと。
「……兄さん、もしもの時は、あたしも一緒に行く。晃さんを止めたいし、止められなかったら、最後まで見届けたいから」
万結花のその言葉に、雅人はしばらく沈黙していたが、やがて言った。
「……危険があるぞ。お前は、狙われているんだからな」
「わかってる。でも……晃さんをひとりぼっちで行かせたくないの……」
「そうだな……」
雅人が、うなずいた気配がした。
「ただし、その時行動するのはおれとお前だけだ。他の家族には、黙っているんだぞ」
「当たり前でしょう。だって、代償のことは、あたしと兄さんしか知らないんだもの」
余りにも重すぎることであるため、他の家族に伝えていない晃の代償。
だからこそ、自分たちは行動するのだ。
万結花は、自分の傍らに近寄ってきたアカネに、静かに声をかけた。
「アカネ、聞いていたでしょう。晃さんが行動を起こしたら、知らせてほしいの。その時は、絶対に躊躇わないで」
万結花の言葉に、アカネがはっきりうなずくのが雅人には“視えた”。万結花もまた、気配でそれを感じ取った。
(わたい、必ず知らせる。あるじ様、一人で行かせたくないから……)