17.手をこまねく
晃の姿がドアの向こうに消えると、結城も和海も溜め息を吐いた。
先程の晃の“微笑み”が、まだ目の奥に残っている。
感情を感じさせない、気持ちを読み取るのも難しい、アルカイックスマイル。
あんなもの見せられて、はいそうですかと納得することなど出来ない。
「……所長、晃くんがだんだん人間離れしてきているような気がするのは、気のせいですかね……」
「……私もそう感じるんだ。君の気のせいじゃない」
キリがいいから帰したが、気分的には落ち着かない。
もちろん、晃は二階の自室に戻っただけで、様子を見ようと思えば見に行けるのだが、勝手に覗きに行くのは躊躇われるというか、プライバシーの侵害行為だろう。
迂闊なことは出来ない。
しかし、目が離せないと感じるのは、絶対に気のせいではない。
近々、何かをやらかすのではないか。
そんな予感がする。
やらかすとしたら、何をいつやるのか。
何をやるのかと言えば、禍神の元に向かうことだろう。
ならば、それをやるのはいつなのか。
今すぐ動くとは思えないが、そう遠くない将来に、実行に移すのではないか。
そうなった時、自分たちはそれを止められるだろうか。
いや、止めなければならない。止めなければ、晃は二度と再び、自分たちの前に姿を現すことはないだろう。
そう考えると、背筋にぞっとするものが走る。
「……所長、わたし、晃くんがいなくなってしまったらって考えると、怖くて仕方ないです……」
和海が、自分で自分の手をぎゅっと握った。
「……そうだな。想像もしたくないな……」
結城も、唇を噛んで目を伏せる。
このまま手をこまねいていたら、それは実際に起こりうる。
そう考えたら、多少無理をしても晃のプライベートにある程度踏み込んで、止めなければならない。
今の晃は、かつての晃ではないということは、わかってはいた。
だが、それを見たくないという本能的なものが働いて、見ないようにしていたきらいがあった。
しかし、もうそんなことは言っていられなくなった。
そんなことをして、晃を止められなかったら、それこそ一生ものの後悔を背負うことになるだろう。
結城は、ひとまず自分の仕事をキリのいいところで終え、一応帰り支度を始める。和海も、それに続いた。
帰り支度が終わったところで、どちらからともなく顔を見合わせ、同時に口を開きかけて止め、互いに目線で譲り合い、最後は結城のほうが折れて話を始めた。
「ちょっと、早見くんの様子を見に行かないか。それと、本当はいけないことだが、盗聴器を仕掛けることも考えてはいる。まあ、最後の手段だが……」
「……そうですね。盗聴器云々はさすがに最後の手段だろうとは思いますけど……」
「とは言え、なあ……」
結城が、言葉を濁す。
怪訝な顔で結城を見る和海に対し、結城は溜め息を吐きながらつぶやくように続けた。
「……なんとなくなんだが、盗聴器を仕掛けても、バレそうな気がしてな……」
それを聞いた和海も、なんだか納得した。
二人とも、最近の晃に関して、気づいたことがあった。
以前より、ある意味勘が鋭くなったのだ。というか、気配に敏感になったというべきか。
それこそ、後ろに目があるかのごとく、背後にいる人に対しても、その存在に当たり前に気づいたり、動きを追いかけるように首を傾げたりしていたのだ。
もしかしたら、自分たちが部屋に入ったら、その時の気配の残滓に気づいて、盗聴器や隠しカメラなどに気づくかもしれない。
そう思えるのだ。
もし、そういうものをひそかに仕掛けて、気づかれた場合、信頼関係が崩壊する可能性がある。
それを考えると、得策ではないという気がしてならない。
だからこその“最後の手段”ではあるのだが、抜かずの“伝家の宝刀”になりそうな気がする。
「……晃くんの“勘”が鋭くなったのって、やっぱり妖に近づいたせいですかねえ……」
おずおずと口を開いた和海に、結城が重々しくうなずく。
「……そんな気がするな……」
もしそうなら、本当の意味で取り返しのつかない事態になる一歩手前になりつつあるということだ。
もし本当に、部屋に入ったときに盗聴器や隠しカメラに気づくだけの力を晃が持ちつつあるのなら、下手な手出しなど出来ないだろう。
今の晃は、怒らせれば人に対しても<念動>を使って危害を加えかねない存在となっている。
いつぞや、自分が巻き込まれたあの事件に関して、こんなことを言っていたのだ。
自分は、捕らえられそうになった時、逃げられたのだ、と。
『あの時、相手の片眼や片腕、片脚でも潰していれば、僕はあんな目に遭わなかったし、あいつらだって僕に喰い殺されないで済んだ』
あれを聞いたときには、本当に背筋が震えた。
あの時、自分たちの知っている晃は、居なくなってしまったのだと感じた。
その感覚は、今も続いている。
今の晃もきっと、同じような状況に陥ったら、躊躇うことなく相手を攻撃し、火の粉を振り払うだろう。
自分たちとの信頼が失われたら、その力を自分たちに向けるのも、晃は躊躇わないに違いない。
晃にとって“守るべき存在”だからこそ、その身を盾にしても守ろうとしてくれている。
そうじゃなかったら、今の晃ならあっさりと切り捨てるだろう。
そう思うからこそ、踏み切れないのだ。
「……所長、部屋に盗聴器を仕掛けるんじゃなくて、入り口のドアが映る位置に隠しカメラを仕掛ける、じゃ駄目なんですかね?」
和海の問いかけに、結城は唸った。
「何とも言えんな。部屋の出入りを監視するくらいなら、ギリギリセーフかもしれんが……」
気づかれたとしても、そこなら傷は少ないとは思う。
ただこれも、闇をも見通す晃の眼を誤魔化すのは、かなり大変だと思われる。
昼でも光が入りにくい天井の隅の暗がりなら、普通は気づかれる可能性は低いのだが、晃なら目で見て異変に気づくかもしれない。
まだこうなる前だったが、晃が『遊園地のお化け屋敷は楽しめない』とぼやいていたことがあった。
いわば煌々と明かりがついた通路を進んでいくようなもので、仕掛けのカラクリや、脅かし役が潜んでいる場所の見当が簡単についてしまうので、ちっとも面白くないと言っていたのだ。
全く驚かないことはないらしいが、それはいきなり“ワッ!”と驚かされるのと同じようなもので、怖さとは違うのだと言っていた。ただ、びっくりするだけなのだと。
当時からそうだった晃が、隠しカメラに気づかないということがあるだろうか。
「……やっぱり気が付きますかねえ……」
「天井板を外して、その裏側にでもくっつけ、板に空けた小さい穴を通して撮影する、などという盗撮まがいの撮り方なら、誤魔化せる可能性はあるが……」
カメラ自体は誤魔化せても、作業するためにそこに長居をしていたら、その気配の残滓に気づいて不審に思う可能性はあった。
元から人外だったものが、より妖に近づいてしまったせいで、さらにそういうものに気が付くようになってしまった。
それを考えると……
結城も和海も一瞬考えこんだが、そのうちどちらからともなく“今現在の晃の様子を見にいく”という選択を取ることになった。
二人して一旦荷物を自分のデスクに置くと、事務所を出て二階へと上がった。
晃の部屋はもちろん知っているので、まっすぐそこへ行くと、ドアをノックする。
「……早見くん、私たちはこれから帰るが、大丈夫かな?」
ドアの外から声をかけてみる。
すると、ドアが開いて晃が顔を出した。
「所長、わざわざ顔を出してくれたんですね。特に問題はありません。大丈夫ですよ」
穏やかな口調でそう告げる晃だが、その表情はやはりアルカイックスマイルのままだった。
「……晃くん、もし、何かあったら……それこそ霊的な何かが起こった時でも、ちゃんと知らせてね。あなたなら、対処出来るだろうけど、それとこれとは別問題だから」
和海がそう言うと、晃は静かにうなずく。
「わかりました。そうします」
晃の顔色自体は悪くはないが、そのアルカイックスマイルがどこか不安を掻き立てる。
それでも、ここは晃に任せて、自分たちはこのまま帰宅したほうがいい。
二人はさらに、晃と互いを案じる言葉を二言三言交わした後、踵を返した。
背後から、ドアの閉まる音がする。
今はまだ、危ういバランスが保たれているようだが、何かのきっかけでそれが崩れるかもしれない。
そうなった時、何が起こるのか。
到底見当がつかなかった。ただ一つ言えるのは、『晃が姿を消す可能性が高い』ということだけだった。