11.危急
大学から帰って、晃は自室に入って一息ついた。
しばらく部屋でぼうっとしてから、おもむろに片づけを始める。
いつまで、こうして偽りの暮らしを続けていくのだろう。
どうせ、もうすぐ消えるつもりだというのに、何をしているのだろう、自分は。
こうして日常を引きずっているのは、あの日万結花から言われたせいなのだと思う。
『初めて会った時の、暖かい気配は、何一つ変わらない』
彼女は、確かにそういった。
目が不自由だからこそ、万結花は見た目に惑わされることはない。万結花から言わせると、何一つ変わっていないということなのか。
自分を滅する気持ちが、あれから揺らいでしまって収まらない。
それから万結花は、『大好き。だから、あたしの側にいて。ずっと見守っていて』と真剣に訴えてきた。
ああ、揺れてしまう。
心が震えている。自分も彼女が好きだと。ともに生きたいのだと、心が訴えている。
許されることじゃないのに。
(……晃。素直に認めろ。自分でもわかってるはずだ。万結花さんが好きで、共に生きたいと思っているんだと。そうだろう?)
(……僕には、そんな資格なんてないんだ。人を喰い殺して、血に汚れたこんな化け物が、そもそもこの世にいる資格すらない。存在そのものが、許されないんだ……)
(……お前は……。万結花さんだって言ってたじゃないか。『許すとか許さないとかは、神様が決めること。そして、神様は晃さんの存在をちゃんと認めている。晃さんの身に、不都合なことは何一つ起こっていないでしょう?』って。)
実際、晃の身に、不都合なことは起こっていない。神々を怒らせたなら、それ相応の報いがあってしかるべきだが、それがないのだ。
(……きっと、神様がまだ気づいていないだけだ。気づかれたらその時には……)
(そんなことはない! お前は、ちゃんと[ここに居ていい]んだ……)
遼の言葉が、さらに心を揺らす。
それでも、自分がこのままのうのうと生きていていいとは、到底思えなかった。
許されない。許されない。
万結花さんとともに生きることは、許されない。
万結花の顔が、真剣に訴えるその顔が、いまだに脳裏に焼き付いている。
愛おしいと思う気持ちと、これ以上近づいてはいけないという気持ちが、ぐちゃぐちゃに入り混じる。
どうして、諦め切れないんだろう。
どうして、忘れられないんだろう。
そして、どうして忘れてくれないのだろう……!
ふと考え始めたら、もう止められない。
自分で自分の考えにがんじがらめになって、身動き出来なくなった。
どれほどそうしていただろうか、気が付いた時には辺りは薄暗くなり始めていた。
自分はいったい、何時間ここでじっとしていたのだろうか。
ほとんど身じろぎもしていなかったのだろう、少しずつ動かさないと、体が動かないほど筋肉が凝り固まっていた。
何とか動き出し、立ち上がると、部屋にある時計で時間を確認する。
午後七時半を回っていた。
おかしなことに、空腹も感じない。
それでも、何か食べないと、体が持たないということはわかった。
のろのろと動いてゆっくり階段を降りると、ダイニングキッチンへと足を運ぶ。
それでも、何か作る気持ちにもなれない。
明かりもつけずに、ストックしてあったグラノーラをボウルに一食分出すと、冷蔵庫から牛乳パックを取り出し、それにかけた。
牛乳パックを冷蔵庫にしまい、スプーンを出すと、グラノーラを食べた。
明かりがなくてほぼ真っ暗なままだが、晃にとっては問題ない。
しかし、自分の好きな味のグラノーラのはずなのに、何故だかあまり味を感じない。
味覚がおかしくなっているのか、心理的なものなのか、晃には判断がつかなかった。
それでも、食べれば腹は満たされる。
食べ終えて、ボウルやスプーンをシンクで洗っていると、急に事務所につながるドアが開いた。
「晃くん、明かりもつけずに何やってるの?」
驚きを含んだ和海の声がする。
別に後ろめたいことをしていたわけではないが、何だかしまったという気持ちになった。
出来れば、誰にも見つからずに後片付けまで終えて、部屋に戻りたかった。
今の自分は、自分であって自分でない気がするから。
「晃くん、洗い物してるみたいだけど、夕飯食べたの?」
「……ええ。食べ終わりました。今日は少し調子が悪いので、このまま部屋に戻ります」
晃がそう答えると、和海は心配そうにさらに言葉をかけてきた。
「大丈夫なの? 風邪でも引いたの?」
そういう調子の悪さではない。だが、言葉にすることも出来ない。
「寝ていれば、大丈夫だと思います。もう片付け終わりますから、終わったら部屋に戻ります」
そう言って、晃は洗い物を終えたところで、水切り籠にボウルやスプーンを入れてふたを閉め、まだドアのところにいる和海に背を向け、先程入ってきた事務所へのドアとは別のドアから廊下に出て、階段を上り、部屋に戻った。
明日の授業に使うものをバッグに入れ、いらないものを取り出し、バッグのファスナーを閉めると、いつもバッグを置いている場所に置いた。
今日はこれ以上、何をする気にもなれない。
パジャマに着替えると、そのままベッドに潜り込んだ。
眼を閉じても、脳裏にいろいろな光景がとりとめもなく浮かんでくる。
特に、何度も浮かぶのは万結花の顔だった。
笑っている顔、恥じらうように目を伏せる顔、怒ったような顔、そして……涙を流す顔……
泣かないで、と思ってしまう。でも、自分は彼女に本当の意味で寄り添うことは出来ない。こんな、穢れた存在は……
それでも、こんなに胸が苦しいのは、自分が未練がましく思いを断ち切れないからだ。
自分こそ、忘れなければいけないのに……
こんなことを考えていたら、いつまで経っても眠れない。
忘れるんだ。眠ってしまえば、目覚めたときには、きっと朝になっている。
そう思いながらも、頭の中を様々な思いが浮かんでは消えていく。
このままでは、とても眠れそうもない。
本当は、わかってはいた。いくらベッドに入ろうと、まだ眠気が差す時間ではないことを。
ただ、本当に何をするにも億劫な気持ちになって、横になっただけだ。
今更だがシャワーでも浴びてこようか。
そう思って半身を起こしたその時、悪寒のような感覚がざっと背筋に走る。
嫌な予感がする。
今度は誰だ。
誰に災いが降りかかるのだ?
瞬間、晃は本性を現して幽体離脱していた。全身の感覚が張りつめる。
ここじゃない。直感的にそう思った。
ならば、どこだ?
その時、緊急事態を告げるアカネの叫び声が聞こえた。
(あるじ様! 結界、破れそう!!)
やはり、川本家か!
その直後、晃は川本家へと向かって飛んだ。
幽体のままで飛べば、川本家まで三十秒とはかからない。
たちまちのうちに、川本家の上空までやってくると、そこには数十体の妖が、結界を破ろうとしているさまが“視え”た。
結界を、破らせるわけにいかない。
晃は一気に接近すると、その左手の長く伸びた爪を振り上げ、背後から一体を喰らい尽くした。
他の妖が、晃の存在に気づく。三分の一は逃げ腰となり、残りは迎え撃つ態勢を取った。
迎え撃とうとした中でも、周囲のモノたちより一回り大きい、見上げるような身長の妖がいた。
頭が異様に大きく、体と頭の大きさがほとんど変わらない姿をした“入道”で、黒々とした錫杖を持ち、人の頭蓋骨で出来た首飾りを付け、乱杭歯を剥き出しにして、晃を睨んでいる。
しかし晃は、無表情のまま相手を見つめていた。
晃が感情を現さないのが不満なのか、入道が吼えた。
錫杖を振りかざし、一体で突出してくる入道に、晃は冷徹なほどに落ち着いて左腕を振りかぶる。