15.幼な子
その日の夕食時、普段は帰宅時間が遅くてなかなか食卓を囲むことがなかった父の正男が、珍しく早めに帰ってきた。
だが、それは家族団欒というには程遠い、どこかぎこちないものだった。食卓には、正男の好きなマグロの山かけに小柱のかき揚げ、ネギぬたの小鉢などが並んでいるが、正男は仏頂面をして食卓に座っている。
正男は、帰宅早々智子の訴えを聞かされ続けていた。いや、正確には、帰宅する前からだろう。今日の帰宅が早かったのも、その辺が原因のようだ。
昨夜無断外泊をした息子のことを、どうやら電話で訴え続けていたようなのだ。
「お父さんからも、言って下さいよ。連絡もせずに、一晩帰ってこなかったんですよ。昨夜は本当に、捜索願だそうかと思ったんですから」
正男は黙ったまま、妻の訴えを聞いている。
「それに、昨夜どこで何をしていたのか、何も言わないんですよ。どうせ、例のおかしな探偵事務所の関係する何かだと思うんですけど、一言も言わないんです。あたしがどれだけ心配したか……」
正男の傍らで、ひとり興奮状態になりながら、昨夜自分がどれだけ心配したかを話し続ける智子の姿を醒めた目で見ながら、晃は黙々と夕飯を食べていた。智子の愚痴とも繰言ともつかない言葉を聞き流しながら、能動型義手に付け替えた左腕で茶碗を動かないように押さえ、食事を続ける。先端が無骨な金属製のフックを組み合わせたようなものであるのが目立ってしまうが、ハーネスで肩甲骨の動きを捉え、それに接続したケーブルで先端にまで伝えることによって、物を摑めるように工夫された義手だ。
「何とか言ってくださいよっ。あたしがどれだけ心配したかなんて、あの子全然わかってないんですからっ」
智子が、ひときわ大きな声を上げたとき、初めて正男が口を開いた。
「落ち着け。晃だってもう二十歳だ。未成年じゃないんだぞ。一晩帰らなかったくらいで、大騒ぎをするんじゃない」
智子をそう諌めたあと、今度は晃のほうを向いた。
「晃。母さんが神経質だということは、わかっているだろう。どこで何をしているか、いちいち言う必要はないが、連絡ぐらいはしなさい」
「……はい」
晃はふて腐れるでもなく、むしろ淡々と返事をした。父である正男とは、目を合わせもしていない。
晃はひとりでさっさと食べ終わり、ご馳走様でしたと口に出して言うと、席を立つ。すると、先程まで散々文句を言っていた智子が、すかさず近寄って手を出すと、食器を片付け始める。
「母さん、何度も言ってるけど、この義手をつけていれば、軽いものを摑んで持ち上げたりするくらいのことは、出来るんだ。自分の食器の洗い物くらい、自分でやるってば」
晃がそう言っても、今度は智子がそれを無視して食器を流しに運んでしまった。そのまま洗い物を始めた智子の姿を見ながら、晃はしばらく眉間にしわを寄せていたが、諦めてダイニングを出、自分の部屋へと戻った。
部屋の時計で時刻を確認すると、午後七時半を回ったところだ。晃はビーズクッションを部屋の真ん中に引っ張り出すと、その上に仰向けに寝転がった。
(お前さんの両親も、悪い人じゃないんだが……)
(確かに悪い人じゃないさ。体のこともあって、人一倍僕の将来のことを気遣ってるし、だから司法試験を受けるための勉強をしたいと言ったときも、諸手を挙げて賛成して、大学に受かったときも大喜びしてくれた。でも……僕が本当は、両親のことを信じきってないことに気づいてもいない。僕が本当は、『この人たちとは、永遠に分かり合えない』と思っていることも……)
(普通親っていうもんは、自分の子供のことは、自分が一番よくわかっていると思いがちなんだよな。その点俺の親は、子供は子供、親は親って、どこかでほっぽりだしてくれたから、俺は自由気ままに暮らした。今となっては、逆にもうちょっと親孝行しておけばよかったと後悔してるけどな)
(だから僕は、遼さんがうらやましいんだ。そういう人が親だったら、どれだけよかったか……)
(晃、これはどうしようもないことなんだ。境遇を取り替えるなんて真似が出来るわけがない。それは、お前自身が一番よくわかっているはずだぜ)
遼の声が優しく諭すような口調に変わる。
(お前の能力を理解しないからといって、両親を怨むな。俺の両親のことがよく見えるのも、“他人の家の芝生は青い”ってだけだ。俺の記憶が辿れるお前なら、俺がガキの頃どういう暮らしをしていたか、わかるだろう)
(わかるよ。なんだかんだで、すぐ喧嘩ばっかりしてた、騒々しい家だったって。でも、僕がうらやましかったのは、たとえ喧嘩はしても、それが本音をぶつけ合う喧嘩で、陰湿なものじゃない。お互いがわかりあうための喧嘩だったってことだ。僕は、そんな喧嘩さえしたことがない……)
そのとき、晃の脳裏に鮮明にある光景が映った。帰り支度をしている、結城と和海の姿だ。その直後、晃は全身総毛立つ様な気配を感じた。事務所の二人も、何かを感じたらしく、手が止まって顔つきが変わっている。
晃は、事態を察して遼の力を呼び込んだ。冷たい炎の迸りを感じながら、晃はこれ以降邪魔が入らないようにするため、素早く視線を動かしてベッドを見つめる。するとベッドが五センチばかり宙に浮くと、そのままドアの前まで滑るように移動し、再び床の上に降り、静止した。外から入るには押し開けなければならないドアの前にベッドが置かれては、外からはまず開けることは出来ない。
そうしておいたあとで、晃は全神経を事務所の二人に向けた。
はっきりと、二人の緊張が伝わってくる。二人の意識は、明らかに窓のほうに向かっていた。窓の向こうから、また何かの気配が近づきつつあった。
晃は、カーテンの引かれた窓の向こうに、あの女の子の姿を“視た”。女の子の、家族を慕う思いは純粋だったが、その後ろにいる空襲の犠牲者たちは、ただ空虚の中にいた。そして、その彼らの無念の思いを啜る陰気の塊……
(そうか、あの陰気の塊が元凶だったのか。はじめは誰かの負の感情の落し種として生まれたものが、逆に周囲を巻き込み始めたんだ)
(あの娘も、利用されてるだけだと見た。早く現実を理解させて、成仏させてやらなきゃな。来るぞ、晃)
(わかってる)
晃は、二人が持つ護り石を媒介にして、一気に少女の霊と接触を図った。
(お嬢ちゃん、どうしてこんなところにいるの)
(あたし、お父ちゃんを迎えに来たの。お姉ちゃんだって、待ってるもん)
(あの人は、お父さんじゃないよ。お姉ちゃんだって、本当のお姉ちゃんじゃない)
途端に、少女は目を吊り上げた。
(お父ちゃんだもんっ。お姉ちゃんだって、あたしのお姉ちゃんだもんっ。どうしてそんなこと言うのよ)
(それなら訊くけど、お嬢ちゃん、お名前は? お年はいくつ? いつ生まれ?)
(あたし、渡部花子。五つ。二月四日生まれ)
(……花子ちゃん、君は昭和二十年のつもりなんだろうけど、今はね、それから何十年も経っているんだよ)
(嘘。だって、あたしここにいるんだもん。お父ちゃんもお姉ちゃんもいるんだもん)
渡部花子と名乗ったその少女は、晃の言葉を信じようとはしなかった。ならば、はっきり伝えてしまうしかない。
(花子ちゃん、君は死んでるんだよ。あの世へ行かなくちゃいけないんだよ)
それを聞いて、花子は目を大きく見開いたまま、いやいやをするように首を横に振った。
(あのお姉ちゃんはどこにいるの? あの人は、本当に生きている人だ。一緒には暮らせないんだよ)
花子の顔が、急に歪んだかと思うと、そのまま声を上げて泣き出した。そして、不意に晃に背を向けると、そのまま走り出す。
すると、背後にいた空襲の犠牲者たちが、急に右往左往し始めた。陰気の塊も、不安定に形を目まぐるしく変え始めている。
(そうか、あの子と背後の連中の関係がわかった。花子ちゃんは、連中の“眼”だったんだ。だから、花子ちゃんが見た、あるいは花子ちゃんを“見た”人のところに、連中は姿を現していたんだ)
(それより、どうする。あの子を追いかければ、何かわかるかもしれないぞ)
遼の言葉に、晃は花子を追いかけ始めた。混乱している連中は、おそらく放っておいても、事務所の二人に害を与えることは出来ないと感じたからだ。
晃の意識は、今や自分の肉体を離れ、少女の霊を追いかけていた。夜の街を飛ぶように駆けていく花子を、まさに飛んで追いかける晃。自在に幽体離脱できるからこその芸当でもある。
住宅地を抜け、繁華街を横目に、時には雑踏の中を突き抜けて、花子は物凄い速さで駆けていく。わずか数秒でキロ単位の移動をするほどの速度だ。晃もまた、それに劣らぬ速さで追跡し続けた。もし、霊感がある者が目撃していたとしても、一瞬にして通り過ぎてしまう気配など、詳しいことを感知することは不可能だろう。
そのうちに、花子はとあるビルの中に入り込み、急に姿が見えなくなった。気配も溶け込むように消え、追跡も不可能になる。
(……消えた。このビルの中に、あの子に関係した何かがあるんだろうけど……)
(まあ、それは、あとで調べよう。今は取りあえず、このビルのことを覚えておいて、皆で調べに来ればいいんじゃないか)
(そうだね。ひとまず、戻ろうか)