27.化け物
猿のような妖は、こちらに背を向け、全力で逃げ出していた。
このまま取り逃がせば、奴は禍神のところまで戻り、次のたくらみを行うだろう。
そんなことはさせない。万結花を狙うものの力は、少しでも削いでやる。
晃もまた、全力で追いかけた。
黒っぽい猿のような妖が移動する速さより、晃のほうが早かった。
そのまま追いすがると、その背中に向かって左腕を振り下ろす。
妖が唸り声をあげ、体をのけぞらせた。
相手が唸りながら振り返るところを、次の一撃を喰らわせる。あっという間にその存在が希薄となり、空気に溶けるように姿が薄れていく。
だが、そのまま散らせるつもりはなかった。
散ったからと言って、そのまま消えるとは限らない。またどこかで集まって、姿を取り戻すかもしれない。
必ず、とどめは刺してやる。
周囲の空気をも巻き込むように腕を振り、相手を構成するすべての要素を喰らい尽くした。これで、もう二度と蘇ることはないはずだ。
その代わり、体の中をめぐる異質な力が、自分を中から変化させようとしているかのように感じる。
急いで自分の体に戻ると、それを放出するすべを考え、思いつく。
晃は、自分の中に渦巻く力を使って、頭の中で家の中の結界の要を思い浮かべ、一気に力を流し込んでさらに強化した。自分の中のこの力を消費してしまわないと、自分が人でいられる時間がより短くなってしまう。
そして、自分の中に残る異形の力の大半を使い尽くした時、自分の中に残る残滓を通じて、あることを感じた。
“苅部那美”が死んだ。
魂を失った抜け殻の肉体が、それでも『魂の糸』で繋がっていた肉体が、魂が消え去り、事実上『魂の糸』が切れたのと同じ状態となって、息を引き取ったのだ。
自分は、本当の意味でこの手で人を殺した。
そうすることでしか、彼女を救うことが出来なかったとはいえ、この手を穢したことは間違いない。
晃は、自分の左手を“視た”。十センチ以上に伸びた、ゆるく弧を描くナイフを思わせる爪が、血で赤く染まっているような気がする。
この爪で、自分は間違いなくひとりの人を喰い殺したのだ。
(晃、落ち着け。彼女はどうしようもなかった。お前がやらなかったとしても、あのままじゃ近い将来自滅していた。お前だって、それはわかるだろう。どちらにしろ、彼女の魂はすでに限界だったんだ)
どこか言い聞かせるような口調で、遼がなだめてくる。
(……それはわかってる。あのままにしておけば、理性どころか魂そのものが、強引に注ぎ込まれた力に負けて消滅していただろうってことも。僕がしたのは、いわば“介錯”だったということも……)
(なら、そんなに自分を責めるな。卑下するな。彼女だって、人食いの妖として自分が暴れまわる未来なんか、悪夢でしかないだろう。お前は、それを止めたんだ)
(……でも、ぼくがひとりの人間を手にかけたことは事実だ。いわば『嘱託殺人』だ。現実世界では、間違いなく罪に問われる行為だ。霊的な要素が介在しているから、法にかからないだけだ……)
大学での範囲内ではあっても、法律を学んでいる身、その程度のことはわかる。
だからこそ、自分は咎人だと自覚する。
五人を喰い殺した時とは、状況が違う。
あの時は、事故に近かった。今回は、明らかに自らの意志を持って行ったのだ。
自分は元々、本当の意味では人ではなかった。それがついに、自らの意志で人を喰い殺し、本物の化け物となった。
今更後戻りが出来ないのは、自分も同じなのだ。
人の血に染まったこの身は、やはり人に混じって生きることなど、おこがましいのだ。
自分がやるべきことは、自分が大切だと思う人々を護ること。そして、二度と苅部那美のような犠牲者を出させないことだ。
そのためには、元凶である虚影の力を出来得る限り削ぎ落し、一時的であろうと外への介入が難しい状態にすることが必須だ。
それが出来るなら、仮に自分が滅んでも悔いはない。いや、自分が滅ぶことで相手をこちらが考える“都合がいい状態”に持って行けるなら、むしろ喜んで滅びよう。
こんな化け物は、この世に居ないほうがいいのだ。こんな、人食いの化け物は……
(晃! やめろ!! そっちの方向へは考えるな!!)
遼の叫ぶ声がする。
遼は、本気で自分を止めている。今の晃を創り出した存在ではあるが、それでも彼を恨んだことなどない。
自分が彼を受け入れたのだ。
自分が、人でなくなることを選択したのだ。
人として死ぬのではなく、人外として生きる道を選んだのだ。
だから今度も選択する。自分を滅するという選択を。
これでいい。これで、よかったのだ……
* * * * *
館の板の間の上に敷かれた畳の上で、虚影は仁王立ちになりながら苛立ちを隠すことなく、自分の目の前の板の間に這いつくばるようにひれ伏す蒐鬼を冷たく見下ろしていた。
その後ろでは、顔色をなくした漸鬼と劉鬼が跪いている。
周囲の空気は、凍り付いたように寒々としていた。
「さて、もう一度聞く。“アレ”と黒猿がどうしたのじゃ?」
威圧を含んだ問いが、蒐鬼に浴びせられる。
「……は、はい。……“アレ”も、黒猿も、霊能者の手で、滅ぼされた模様です……」
蒐鬼の報告は、次第に声が小さくなる。
「それは、間違いないのじゃな?」
蒐鬼は、言葉に詰まったまま無言でうなずく。
「他ならぬお前が掴んできたことじゃ。事実として受け止めねばなるまいて。しかし、“アレ”はともかく、黒猿までもが滅ぼされるとはの。ますますもって、化け物としか言いようがない。おそらくは、お前たちが出て行ったところで、同じ結果に終わるじゃろうな」
虚影は、苦虫を噛み潰したような顔になる。
蒐鬼が、実際に二体が葬られるところを見ていたわけではないことは、わかっている。
その場にいて何とか逃げおおせた、偵察であるがゆえに弱小の妖が、一部始終を蒐鬼に報告し、ここに至っているのだ。
その妖でさえ、最後までは見ていない。最後まで見ていたら、霊能者に吹き飛ばされて消滅していたことは確実だったからだ。
相手の意識が黒猿に集中しており、黒猿が完全消滅する前に逃げ出したからこそ、相手に何とか気づかれずに済んだようなものだった。
その時の妖の、尋常でない有様で、蒐鬼は最悪な事態を悟ったのだ。
虚影とて、ここでこの三体をどうしようと、事態がよくなるわけではないことぐらい、百も承知していた。
「もうよい。お前たちは、己の職務を全うするのじゃ。わかったなら、散れ!」
虚影の言葉に、三体は深く頭を下げると、目にもとまらぬ速さで散り、姿が見えなくなった。
ひとり部屋に残ったところで、虚影は考える。
“アレ”は仕方がない。元々捨て駒ではあったし、力を削れれば御の字と強引に送り出したので、潰されたとしてもある意味“想定内”であった。
ただ、見届けとして送り込んだ黒猿まで、あっさり滅ぼされたのは計算外だった。
そこそこ力を付け、現代知識を持つ重宝な存在になっていただけに、それを潰されたのは完全に予定が狂う出来事だった。
今残っているモノたちでは、黒猿ほどうまくは対応出来ないだろう。
無論、現代知識に精通した妖がいないわけではない。ただ、実際に作戦行動に組み込めるほどの実力がある存在がいないのだ。
それもこれも、すべてはあの霊能者があまりにも規格外の力を持っているせいだ。
“生ける死者”などというふざけた存在が、今の世にいるなどということを、誰が想像するだろうか。
そして、あ奴は間違いなくここにやってくる。“贄の巫女”をわが手に納めさせないために。
忌々しいにもほどがある。
近い将来、奴はやってくる。その時には、我が力を持って、必ず息の根を止めてくれる。
虚影は、唇を歪めて嗤った。