25.遭遇
全てが終わって自室に戻ると、そこには笹丸だけが残っていた。
(……アカネは、万結花殿の元に戻った。であるが、そなたに何かあれば、すぐに飛んでくるであろうよ)
(……そうですか。それでよかったんです。ただ、僕に何かあったとしても、とんでくる必要はないと思いますけどね)
平然とそう言う晃に、笹丸は悲しげな眼をする。
(……我とて、そなたに何かがあれば落ち着いてなどいられぬ。ましてや、アカネはそなたの識神。あるじを失いかねないとなれば、飛んでくるのが当たり前であろうに……)
笹丸の言葉を無視して、晃はパソコンを立ち上げる。
そして、再度問題の地図を開いた。
幾つかバツのついた箇所と、そのほぼ中央にある二重丸。
晃は、二重丸の地点をじっと見つめた。
まず間違いなく、ここに禍神は潜んでいる。ここが、最終目標地点だ。
背後に笹丸の気配を感じていたが、やがてそれはふっと感じられなくなった。笹丸が、この場から去っていったのだろう。
最近笹丸は、この部屋にいないことのほうが多い。
やはり、調べ物をしているのだろう。
結城や和海、法引も、調べ物をしているらしい。何を調べているというのだろう。
自分が乗り込む以上に、確実に万結花を護れる方法など、とても考えられない。
そして、自分の勘が告げていた。
近々、何かが起こると。嫌な予感まではいかないが、違和感という名の予感がはっきり感じられる。
おそらくは、今夜あたりに例のモノがやってくるのではないか。
それを考えると、やってきたときに叩き起こされてはかなわない。
ならば、今のうちに仮眠を取っておいた方がいいだろう。
晃はメールチェックなど一通りの操作を終えたところでパソコンをシャットダウンし、カーテンを閉めて部屋の照明を暗くすると、普段着のままベッドに横になる。
本当に眠ることが出来なくても、目を閉じて静かにしているだけでだいぶ違うはずだ。
目を閉じたまま、部屋の中の音を聞くとはなしに聞いていると、ほんのかすかに階下の音が聞こえてくる。
下の事務所で、結城と和海が仕事をしている。時折、二人が話す声が、微かに聞こえてくるらしい。
あの人たちを、巻き込んではいけない。
自分のような化け物でさえもよくしてくれた人たちを、苦しめるようなことがあっては、自分はどうすればいいかわからなくなる。
だから、自分に関わる全ての人を護るために、自分は禍神の力を削ぎ、万結花が逃げ切れるようにしなければならないのだ。
ああ、もうやめよう。こんな当たり前のことをグダグダ考えていたら、眠ることなど出来なくなる。
晃は、何も考えないようにして、体の力を抜いた。
結界を張るのに、そんなに力は使っていないつもりだったが、やはり多少は消耗していたらしい。
ふと、うとうととし、おそらくは微睡んだのだろう。
気づくと窓の外が暗くなりかけていた。
時間としては、もう夕飯の時間だったが、あまり空腹感は感じない。
ひとまずベッドから降りると、水を飲もうとキッチンへと降りていた。
コップに水をくんで、ゆっくりと飲み干す。
そしてコップをゆすぐと、コップを元に戻し、今度は冷蔵庫を開ける。
冷蔵庫の中には、ペットボトルのレモンティーが入れてあった。入院前に買って入れておいた、まだ封を切っていない、五百ミリリットルサイズのものだ。
それを取り出すと、部屋に戻る。
事務所のほうでは、まだ仕事は続いているようだが、今自分が行っても、おそらく仕事はしなくていいと言われるだろう。
無理に顔を出す必要もないはずだ。
晃は部屋を漁って、買いだめをしておいたシリアルバーを取り出すと、部屋の壁際に座った。
ペットボトルのキャップを開け、一口飲んだ後、口でシリアルバーの包装を開けると、一口かじった。
口の中に、チョコレートの風味が広がる。
それを押し流すように、レモンティーを呑む。
シリアルバーを一口かじるたびに、そのあとレモンティーに口を付ける。
それを繰り返して、シリアルバーがなくなったところで、ペットボトルもすべて飲み干し、軽く息を吐いた。
しばらく胃の中が落ち着くのを待つ感じで壁に寄り掛かり、目を閉じてゆっくりと呼吸をすると、最後に飲んだレモンティーの余韻が鼻に抜けていく。
それから立ち上がると、シリアルバーの包装を捨て、再びキッチンに戻ってペットボトルを水でゆすぎ、ラベルを剥がすと、キャップと本体を別々に分別の袋に入れた。ラベルも別な袋に捨てた。
さて戻ろうと、踵を返しかけた途端、背後から声をかけられる。
「晃くん、夕飯はどうするの?」
和海が、キッチンに通じるドアを開け、立ち去ろうとしている晃を見かけたのだろう。
「……夕飯は、もう食べました。だから、心配しなくても大丈夫です」
普通に言ったつもりだったが、和海の表情がどこか悲しげなものになる。
「……晃くん、どうしてそんなに無表情なの? どこか、具合が悪いの? それとも何か気に障るようなことがあった?」
「……いや、そんなことはありませんが」
晃がそう答えると、和海は悲しげな表情のまま溜め息を吐いた。
「……どんどん悪くなってるみたいね……」
何が悪くなっているのだろうか。
自分の体調は、特に問題はない。先程結界を張るのに少し力を使ったが、仮眠したおかげで今は何でもない。
何も、悪いところなどありはしないだろうに。
「小田切くん、早見くんがいるのか?」
結城の声が、急速に近づく。
そして、和海のすぐ後ろに結城が姿を現した。
「……早見くん、今の君は、能面のような顔をしているぞ。いや、能面のほうが、まだ感情が読み取れそうだな。今の君は、本当に無表情なんだよ」
結城が、心配そうに晃を見つめる。
けれど晃は、何故二人がそんな顔をするのか、ピンとこなかった。
「……僕は普通ですよ……」
晃はそれだけ言うと、今度こそ踵を返し、自分の部屋へ戻った。
それからしばらくして、晃の部屋のドアが、またノックされた。
そして、ドアの外から声がする。
「晃くん、わたしたち帰るけど、ちゃんと自分を労わってね。明日の朝も、ちゃんと食べてね。それじゃ、また明日」
和海の声がそれだけ告げると、気配がドアから遠ざかっていく。
今の時間にここを離れるのなら、何かあってもあの二人を巻き込むことはない。
それだけでも、少しは安心出来る。
自分以外無人になったのを確認すると、事務所のある部屋にも盛り塩をして力を込め、結界をより強固なものにした。
それから晃は、部屋の真ん中に座って、半ば瞑想するようにして、その時を待った。
どれほど時間が経ったのか、時計を確認していないのでよくわからないが、長いようにも、短いようにも感じた時間が過ぎ、あの気配が鬼門の方向から近づいてくるのを感じた。
晃は、その気配が来る方向をじっと見つめた。
部屋の一角の壁が、じわじわと染みのように黒っぽくなっていく。
病室でこうなった時には、中に入らせまいとしたが、今回は敢えてそのままにした。
最初は手のひらほどだった黒っぽい染みが、見る間に大きくなって直径一メートルほどになり、ついにはその染みが壁からあふれ出たかのような、濃灰色の塊がずるりとはい出てきた。
不定形のそれは、大体の大きさが一メートル半ほどの半球状で、うねうねと絶えず表面が変形し続けるため、実際の大きさは正確にはわからなかった。
すぐに襲い掛かってくるかと思ったが、どうも相手に逡巡がみられる。
何故なのだろう。
ならばこちらから牽制がてら、気を放ってみよう。
晃が右手の人差し指と中指を揃え、短く気合の声を発すると、腕を振り抜く。
直後、その不定形のモノが、苦しそうに身を捩らせる。
『……イヤァァ……ワタシハ人間ヨ……!』
晃の顔が、怪訝なものになる。人間? どういうことだろうか。
改めて、じっくりと霊視をしてみた。
「……これは……」
不定形のモノに重なって“視えた”のは、妙齢の女性の姿だった。しかも、どす黒い鎖に全身をがんじがらめに拘束され、その隙間から何とか顔や手の先が覗いて見える程度だ。
どうやら、人の生霊を無理矢理妖の中に押し込めた、異形の存在らしい。
どう考えても、こんなことが出来るのは、禍神以外いないだろう。