22.祈り
談話室で待っていた雅人と松枝の元に、妹の万結花が看護師に付き添われて戻ってきたとき、その目が真っ赤に泣きはらした状態であることに、雅人はカッと頭に血が上りかけ、自分で自分に落ち着けと何度も心の中で言い聞かせ、気持ちを抑え込む。
万結花は、兄である自分の隣にいる松枝に向かって、『あたし、だめでした』と告げて頭を下げると、後はボロボロと涙を流したまま絶句する。
それを見た雅人は、万結花の背中を優しく撫でながら、万結花のしたいようにさせることにした。無理に落ち着かせようとしても、どうしようもないだろうから。
そんな二人の様子を見た松枝は、談話室を無言で出て行った。おそらく、晃の病室へ行ったのだろう。
それからほどなく、万結花はおずおずと口を開いた。
「……説得出来なかった……。晃さん、自分のこと、諦めてるみたい……。でも……あたしは諦められないの、晃さんのこと……」
その時雅人は、万結花が見慣れぬ白いハンドタオルを持っていることに気が付いた。
「……それは……?」
問いかける雅人に、万結花は『晃さんにもらった』と答え、さらに言った。
「……晃さんは、あたしが嫌いになったから耳を貸さないんじゃない。自分のことを諦めるために、あたしのことも諦めるようにしてるみたいなの……」
そう言いながら、万結花はまた涙を流し、それをハンドタオルで拭った。
それを見ていられなくて、そして居ても立ってもいられなくなって、雅人は気持ちの整理がつかないままに、晃の病室へと足を向けた。
歩いているうちに、何だか無性に腹が立ってきて、ほとんど怒鳴り込むような勢いで、雅人は晃の病室に飛び込んだ。
「早見! お前何やって……」
言いかけて、晃の顔を見た瞬間、雅人はぎょっとなった。
その顔は、感情が抜け落ちたような無表情だった。そして、語られる言葉も感情が感じられない、まるでAIがしゃべっているようなものだったのだ。
余りの異様さに、すでに病室にいた松枝とともに、ただ硬直したまま晃の言葉を聞いていたが、あまりに無茶なことを言う晃に、雅人は我に返って口を挟んだ。
しかし、話が噛み合わない。
本当に自分は、晃と話しているのだろうか。そっくりな姿のアンドロイドか何かと話しているんじゃないだろうか。
そんな錯覚を起こしそうになるほど、晃の様子は異様だった。
「……早見、お前はちゃんと人間だ。怪我をすれば赤い血が流れるし、涙だって流すだろう!? お前は化け物なんかじゃない!!」
必死に訴えたが、晃の反応は鈍いままだった。
ああ、そうか。反応の仕方は違うのだろうけど、万結花の時もきっとこうだったのだ。
どんどん人形のように反応が無くなっていく晃に、雅人はどうすればいいのかわからなくなる。
それでも、晃を見限るという選択肢は取れないと思った。
そんなことをすれば、晃は確実に破滅に向かって突き進む。
そして、本当にこの世からいなくなってしまうだろう。
あれだけ傷つきながらも、それでも晃のことを案じ続ける万結花のためにも、そんなことはさせるわけにいかない。
第一自分も、晃が破滅の道を歩むのを、黙って見ていられないのだ。
何とか思いとどまって、もう一度、自分の家にちょくちょく来ていた頃の晃に戻ってほしかった。
それが難しいことであるということは、雅人自身わかっていた。
晃はもう、あの頃の晃ではない。
冷静なようでいて、案外表情豊かだった晃。
おそらくは、好きで孤高の存在になっていたわけではなく、自分が受け入れたら、すっと心を開いてくれた。
その彼が、容易に元に戻るはずがない深い心の傷を抱え、自ら化け物に堕ちようとしている。
それが、切なかった。
本当にこいつは、こういうことに関しては誰にも頼ろうとしない。
頼っていいのに。霊能者としては孤高の存在だろうが、人間としてはいくらでも人に頼って肩の荷を下ろしてもいいはずだ。
化け物に堕ちる前に、誰かに頼って踏みとどまろうという考えにはならないのか。
雅人は、改めて気合を入れ直すと、無表情の晃に対峙する。
「……早見、お前をひとりぼっちにさせるつもりはない。自分から、関係を断とうとするな」
雅人は、真剣に訴えた。
今は、この声が届かないかもしれない。でもいつか、届いてほしい。
「そうだよ。誰も、君を邪険にしようとなんか考えていない。君は、化け物なんかじゃない」
二人は、思い切って距離を詰めた。
「早見、いつかお前に言ったことがあるだろう。『どんなことがあっても、お前の隣に立つ』と。その気持ち、今だって変わってやしないぞ」
雅人が、晃の顔をじっと見ながらはっきりとした声で告げる。
晃の表情は相変わらず動かないが、その目の奥には、揺らぎがあるように思えた。心の奥底では、揺らいでいるのかもしれない。
すると松枝が、そっと手を伸ばして晃の肩を掴むと、至近距離から晃の眼を覗き込むようにしながら口を開く。
「君は一人じゃない。一人にしようだなどと、誰も思っていない。手を伸ばせば、届くところに君のことを案じている人がいるんだ。それだけは、忘れないでくれ」
雅人も、松枝の脇からその手を伸ばして、晃の腕をつかんだ。
「早見、もう一度言う。おれは、お前の隣に立つ。立ち続けるさ」
二人が、晃の顔をじっと見つめる。
感情を感じられなかった晃の眼に、明らかに揺らぎの色が見え出した。
「それに、お前自身が約束してくれただろう? 『他に方法がある限り、そちらの方を優先する』って。わざわざ破滅の道を進もうとするなよ」
なおも雅人が言葉を重ねると、松枝もうなずいてさらに呼びかけた。
「早見さん」
「早見」
もう一度声をかけたとき、晃の口からはっきりと感情が乗ったつぶやきが漏れた。
「……どうして……誰もいなくならないんだろう……」
能面のようだったその顔が、わずかに歪んだ。
「いなくなるもんか! お前のことを大事に思ってる奴は、絶対にいなくなりはしないぞ!」
雅人が腕を掴む力が、思わず強くなった。
晃が、痛みに顔をしかめたのを見て、雅人は慌てて力を緩めた。
「悪い。つい、力が入っちまって……」
雅人が謝ると、晃はかすかに口角を上げた。一見すると微笑んだようにも見えるが、その実、目は笑うどころが、何だか泣き出しそうにも見えた。
「……まだ、ちゃんと痛いんだな……。感覚なんか、なくなっていくと思ってたのに……」
「何を言っているんだ。君の体は、ちゃんと生きている。痛みも感じれば、温もりだって感じるはずだ。化け物なんかじゃないんだよ」
松枝の言葉に、晃はついにうつむいた。ゆっくりと首を左右に振ると、わずかに肩が震える。
松枝は、雅人に目くばせをすると、自らは静かに手を離した。雅人もまたひとまず手を離し、晃の様子を見つめた。
「……休みなさい。休んで、心を落ち着けなさい。心を張り詰め過ぎだ」
松枝はそう言うと、晃の体をベッドに横たえる。晃は抵抗しなかった。
そのまま顔が見えないように毛布を掛けると、松枝はベッドから距離を取る。雅人もそれに続いた。
病室の隅で、しばらく様子を見ていたのだが、いつしか押し殺したようなすすり泣きの声が聞こえ始める。
「……しばらく、一人にしておいてあげよう」
「……はい」
松枝に促されるまま、雅人は二人で病室を出た。
談話室に戻る道すがら、雅人は松枝に尋ねた。
「……あれで早見は、少しは落ち着いてくれますかね?」
松枝は、大きく息を吐くと、眉間にしわを寄せる。
「……それはわからない。本人が、かなり頑なに思い込んでいる気配があるからね。少しは揺らすことが出来たとは思うが、だからといって思い込みを覆すところまではいっていないと思うよ」
「……そうですか」
どうして思い込んでしまったのだろう。『自分はいつか化け物となり、破滅するのだ』と。
確かに、穢れが溜まって徐々に化け物に近づいていく、その心情など推し量ることしか出来ない。どれだけ恐ろしいことか、想像しただけでぞっとすることではある。
だが、だからといって自分から破滅に向かって突き進んでいくことはないだろう?
雅人は、晃が少しはあの時の約束を思い出してくれればいいと思った。
全ての選択肢が失われたと感じるまでは、最悪の手段は取らないという約束を。
そして、選択肢が失われることがないように、雅人は祈った。