21.すれ違い
週末、病室のベッドの上で、寝ころんだままぼんやりと天井を見上げていた晃は、やってきた看護師から見舞いに訪れたものがいると言われ、半身を起こした。
誰だろうと思っていると、看護師に付き添われてやってきたのは、万結花だった。
なぜ彼女が見舞いに来るのだろう?
内心戸惑っていると、万結花は看護師に『もう大丈夫です』と声をかけ、病室から出て行ってもらうと、静かに晃のほうに向き直った。
「晃さん、倒れたって聞いて、ずっとお見舞いに行きたいって思ってました。大丈夫ですか?」
万結花の顔には、心配の色が浮かんでいる。
「……たいしたことは、ないんです。今だって、本当は入院する必要なんかないって思ってるくらいですから」
晃は努めて明るい声でそう言うと、万結花に案ずることはないと告げる。
しかし、万結花の顔から晃を案じる表情が消えることはなかった。
「……晃さん、あたし、なんとなくわかるんです。今の晃さんが、本調子なんかじゃないってこと。それどころか、退院許可なんか降りないくらいひどい状態なんじゃないかって、そう感じるんです」
万結花は、真剣だった。
彼女は、視覚に頼れない分人一倍気配に敏感だ。まして、今晃の眼の前にいるのだ。
晃の気配を、じっくりと読み取ったのだろう。
晃自身気づいていない、体調の悪さに気が付いているのかもしれない。
「あたし、晃さんが心配なんです。狙われたとも聞いてます。でも、だからといって、無理に退院することが、晃さんのためになるとは思えないんです」
万結花は、さらに一歩晃に近づくと、晃をじっと見つめる。もちろん、彼女の視覚に晃の姿が映ることはないはずだが、それでも万結花は、晃の気配を見極めようとするかのように、顔を逸らさない。
万結花の様子に、晃は戸惑った。
確かに万結花の視線は、正確には晃のほうを直視してはいない。だが、それでもこちらを見ているように感じられるのだ。
「……万結花……さん?」
「晃さん、もう一度言います。あたし、晃さんが心配なんです。無理に退院なんかしないでください。もっと、自分を労わってください」
自分を労われというが、別に無理をしているつもりはない。
晃はそれを告げたが、万結花は首を横に振る。
「晃さん、あなたは自覚してないんですか? 自分で自分を滅しようとするなんて、そんな恐ろしいことしないでください。もう、敢えて無茶なこと言います。あたしと一緒に生きてください! たとえ一緒に暮らしたりすることは出来なくても、お互いには励ましあって生きていくことは出来るはずです! 生きていてください!」
万結花の顔がわずかに歪んだかと思うと、その目に今にも零れ落ちそうなほど涙があふれてきた。
「万結花さん!」
晃は思わず手を伸ばしかけ、寸でのところで思いとどまった。
万結花に触れることは出来ない。それが、これほど悔しいと思ったことはなかった。
次の瞬間、万結花の目からは涙が頬を伝って零れ落ちる。
それでも、その涙を拭うことも許されない。
その涙が、きれいだと思うと同時に、切なさも募った。
万結花は、自分とともに生きて欲しいと思っている。こんな、人にあらざる化け物と化しつつある自分のことを、真摯に想ってくれている。
嬉しく思いつつも、それを受け入れてはいけないのだ、とも思う。
自分は、彼女の隣に並び立つ資格はないのだ。
万結花のことを想えば想うほど、自分では彼女にふさわしくないと感じる。
夢の中で、彼女を抱きしめたことを思い出す。
あれが、精一杯だった。
現実では、あのようなことは許されない。もし同じことをすれば、自分は数日後には破滅して、死ぬか精神崩壊して廃人となるかだろう。
そうなっては、万結花を護るために残り少ない命を燃やし尽くすことも出来なくなる。
「……晃さん、一緒に生きて……。生きてください……」
万結花の声が、涙にかすれる。
それでも、その想いに応えることは出来ない。
「……万結花さん、僕はもう、人としてはいくらも生きられないはず。だから、本物の化け物になる前に、人としてその命を燃やし尽くしたいんです。あなたを護りたいから。……許してください……」
「……晃さん……」
万結花の目から零れ落ちる涙の数が、いっそう多くなった。
かろうじて嗚咽は漏らしていないが、それでももう肩が震えているのがわかる。
万結花を泣かせたいわけではない。
でも、自分には彼女の想いを受け止めることさえ許されてはいけないのだ。
せめて涙を拭いてもらおうと、洗いたての清潔な白いハンドタオルを万結花の手にそっと押し当てる。
「……涙を拭いてください。今のあなたに、僕に出来ることは、ここまでです……」
万結花はハンドタオルを受け取ると、自分の目に当てた。
タオルの色が白くてよかった、と晃は思った。白いから、涙が染みても色がほとんど変わらない。色が変わっていたら、余計に切なかっただろう。
タオルで涙を拭ったせいで、かえってこらえられなくなったのだろう。万結花は一層激しく肩を震わせながら、嗚咽をこらえるような苦しげな声を漏らす。
その姿を見て、晃は心が締め付けられるような気がした。
自分が関わり過ぎたことで、こうなってしまったのかもしれない。ただの“霊に狙われやすい女性と彼女を護る霊能者”というだけの関係だったなら、こんなに泣かせてしまうこともなかったのだろうか。
自分が、彼女を好きになったから……
今も、抱きしめてしまいたい衝動と戦い続けている。そんなこと、許されるはずがないのに。
晃はベッドに横になると、頭から毛布をかぶった。
「……万結花さん、ごめんなさい。僕が、あなたを好きになったばっかりに、あなたを苦しめることになってしまって。もう……僕の想いのことなんか、忘れてください……」
毛布をかぶったままそれだけ言うと、晃は体を小さく丸め、息を殺してじっとしていた。
しばらくは、万結花の声がかすかに聞こえてきていたが、やがてそれも聞こえなくなり、気配もしなくなった。
そっと毛布の隙間から覗くと、すでに病室の中には誰もいなかった。
それを確認して、晃は毛布から顔を出す。
(……お前、やっちまったな。本当にいいのか?)
(……いいんだよ。これでいいんだ。僕の周りに、誰もいないほうがいいんだ……)
そう、これでいい。
この世のしがらみを、どんどん断ち切っていかないと、最後に自分が消えるときに余計な心配や迷惑をかけることになる。
ほんのひと時、夢を見させてもらったのだ。
このひと時の思い出があれば、悔いなく禍神のところに乗り込める。
(……晃、諦めるな。諦めたら、本当に終わるぞ。頼む、もう一度考え直してくれ。今なら、まだ間に合うかもしれない。万結花さんを追いかけて、謝れば……)
言いかけた遼の言葉を、晃がさえぎる。
(遼さん、これでいいんだ。僕はもう、このままこの世に居てはいけない存在になりつつあるんだから。こんな化け物が、人間の隣にいちゃいけないんだ……)
(晃!!)
遼が怒鳴るのと、病室のドアが開くのが同時だった。
足早に病室の中に入ってきたのは、松枝だった。
その表情は厳しく、晃をじっと見据えている。
「……君は一体、川本さんに何を言ったんだ。『あたし、だめでした』と言ったきり、ずっと泣きどおしなんだぞ。今、付き添ってきたお兄さんがなだめているが、彼ももうすぐこっちに来るだろう。本当に、どうしたんだ?」
厳しい口調で問い詰めるように話す松枝に、晃は一瞬だけ天井を仰ぎ、その顔を再び松枝に向けた。
晃の顔を見た松枝が、わずかに表情をこわばらせる。
そこへ、勢いよく病室のドアが開き、怒鳴り込むような勢いで雅人が飛び込んできた。
「早見! お前何やって……」
しかし雅人は、晃の顔を見た途端、入ってきたときの勢いが嘘のように固まり、言葉を失っていた。
「……万結花さんには、申し訳ないことをしました。でも、僕を忘れたほうが、あの人の為です。僕が、彼女を好きになってしまったことが、そもそもの間違いだった……」
晃自身は気づいていなかったが、そうして口を出る言葉には、感情の動きが感じられず、その表情も人形のように感情が抜け落ちて見えていた。
「僕は本当は、こうして生きている資格さえない存在。もうすぐ、あるべきところに戻るようにします。そうすれば、すべては丸く収まりますから……」
淡々と話しを続ける晃に、たまりかねたように雅人が口を挟む。
「おい、待てよ早見! お前、何を言ってるんだ? 『あるべきところに戻る』ってどういうことだ?」
「そのままの意味だよ。僕は、生きている人間じゃない。だから、この世に居てはいけないんだ。ただ、最後に禍神の力を削いでいくから。それで何もかも終わらせるから。万結花さんには、『早見晃というものは、ひと時の幻だったと考えてください』と伝えてほしい……」
抑揚のないその話し方は、まるでサンプリング音声でAIがしゃべっているように感じられた。
晃は、自分のしゃべり方がそうなっている自覚はなく、何故二人が呆然としているのかがわからない。
しばらく二人と話したが、話はどこか噛み合わなかった。
二人が、自分をなだめているように感じた。何故そう感じたのかはわからない。
自分の心は、もうずっと前に固まっているというのに、なぜ思いとどまらせようとするのだろう。
万結花のことも、あれで思い切ったつもりだったのに、蒸し返してくるのは何故だろう。
「……早見、万結花は今でもお前のことを想ってるぞ。『説得出来なかった』って泣いてたんだからな。お前のことを、忘れたり、諦めたりなんかしてないぞ」
雅人がそう言ってくるのだが、晃にとってはどうしてそうなるのかがわからない。
どうして、自分に関わろうとしてくるのか。こんな化け物など、放っておけばいいのに。
「……早見さん、自分で気が付いていないのか。今、君は、人形のようだ。表情もなく、話し声にも抑揚がない。本来の君は、そうじゃないはずだ」
松枝が、真顔で語りかけてくる。
もしそうだとしても、それがどうしたというのだ。自分は所詮、人の姿をした化け物に過ぎない。
化け物なら、感情が見えなくなっていても、不思議ではないだろう。
どうしてこうなるのだろう。
自分の周りから、誰もいなくなればいいと思ったのに、誰も離れようとしない。
どうして……?