19.二つの流れ
「わたくしは、やってくると思います。今夜にやってくるかどうかはわかりませんが、近々必ずやってくると思います。そうでなかったら、早見さんが眠っている間にもう一度やっては来ないでしょう」
一度追い返されたのに、もう一度来ていたのだ。
力が回復したら、きっと再び結界を破ろうとしてくるに違いない。
法引が、今の結界以上のものを張ろうと思ったら、きちんとした結界の核となるものを用意し、長時間の儀式を行って力を込め、さらに結界を張るために儀式を行うことになる。
時間も何日もかかり、労力をつぎ込み、それでやっと結界が形になるのだ。
とても、一朝一夕でさっさと張れるものではない。
もし今夜、また現れたとしたら、法引による結界強化はとても間に合うものではない。
ならば、晃本人による結界強化を行ったほうが、まだ現実的だ。
しかし、晃自身は自分が退院してしまえばクリニックには迷惑がかからなくなるのだからそれでいい、と考えていて、自分を護るために結界を強化するつもりがない。
下手をすると、勝手に病院を抜け出すことまでしそうで、そこが危ういのだ。
法引としては、せめて見つけ出した“邪神を封印した記録”を調査し、その詳細がわかるまで、晃には静養していて欲しい。
実際に久しぶりに会って、痩せたとはっきりわかるほど痩せていたのだ。大きな病気ではなく、栄養失調の入り口に立っている状態だというのなら、ちゃんと食べて体調を戻してほしい。
だからこそ、クリニックを離れるのではなく、ここにとどまって何とか乗り越えてほしかったのだ。
松枝も、晃のことは承知しているし、今回のことで迷惑だなどと思ってはいないだろう。
そうでなかったら、わざわざ説得のために自分を呼び出したりしないはずだ。
「遼さん、わたくしでは、結界の強化など、そう簡単には出来ません。ですから、あなたに説得していただきたいのです。早見さん自身の手で結界を強化し、いざという時に備えてほしいと。」
法引の言葉に、遼はうなずく。
「何とか、やってみます。晃がクリニックを出ていこうとするのは、『迷惑をかけたくない』という気持ちがあるからです。……晃の一連の行動の裏には、『周囲に迷惑をかけたくない』という思いがあるんです」
それがあるからこそ、もし自分が理性を失って周囲に襲い掛かったらと考え、自分を滅する方向で動いてしまっているのだろう。
穢れが溜まり切る前に、何とかなるかもしれないではないか。
溜まってしまったとしても、理性を失うとは限らないではないか。
早まった真似をしないでほしい。
遼に対しては、自分の思いを何度も繰り返し伝えた。遼もまた、真摯に受け止めてくれた。
問題は、晃本人がどれだけ前向きになってくれるかだろう。
こればかりは、遼に頑張ってもらうしかないが、今の晃がどこまでそれに耳を傾けるかわからない。
かつての晃とは、やはり違う。その違いこそ、いわゆる『壊れた』ということなのだろうが。
元の晃に戻ってほしいと願うものの、それはもう叶わぬことなのだろう。
法引は、内心で溜め息を吐いていた。
とにかく、病院を抜け出すことだけはしないようにと言い含め、法引は一旦病室を出た。
そして、外来の準備をしている松枝のところへ立ち寄る。
もうすぐ、外来診療の窓口が空く時間だ。
法引は、『一応は言い含めた』と、先程の出来事のあらましを伝えた。
それを聞いた松枝は、頭痛をこらえるように手で額を抑える。
「言うだけは言っておいたが、今の早見さんは聞く耳を持たないかもしれない。勝手に抜けだしたりしないように、注意しておいた方がいい」
「ああ、わかった。こまめに巡回することにするよ。急に呼び出して、悪かったな」
「あ、それから、何とか今日中に効果の高いお守りやお札などを、手に入れておいた方がいいかもしれない。早見さんが、少しでも気が楽になるように」
「……そうだな。これでも多少は心当たりがある。手隙のものに、買ってくるように言っておくよ」
松枝の言葉にうなずくと、法引はクリニックを後にした。
* * * * *
周囲を白い漆喰壁に囲まれた、雑然と草におおわれた庭のようなところに、濃灰色の不定形のモノがうねうねと庭を這いずり回っていた。
それを見ながら、虚影が両腕を大きく広げる。
その掌から、琥珀色の光があふれ出すと、その光は大きな球体となり、ついにはすぐ目の前を這いまわる不定形のモノを包み込む。
不定形のモノは、光に包まれた途端に、その内部でのたうち回るように激しく蠢いた。
「儂の力を与えてやっているのじゃ。おとなしく受けておるがよい」
叱りつけるような虚影の言葉にも、不定形のモノはのたうつだけで、受け入れているようには見えなかった。
「……まったく、一度力を与えておるのじゃ。二度も三度も同じことじゃろうに」
少し苛ついたように、虚影がつぶやく。
そう、一度、虚影の力を与えられ、晃の元に送り込まれた。結局結界を破り切ることが出来ず、おめおめと逃げ帰ってきたため、再度前回を上回る力を注ぎこまれていた。
「よいか、うぬの役目は、あの『化け物』の力を削ぎ落すことじゃ。そのために、力を与えてやっておるのじゃぞ。拒むことなど許さぬ」
不定形のモノを包み込む光が、ますます強くなる。
そのモノは、ひときわ苦しそうにその身を捩らせていたが、やがてくたりと地面に平らに伸びた。時折びくびくと細かく振るえるように動くが、もう大きくは動かない。
やがて、包み込んできた光が消え、びくりびくりと脈打つように動く濃灰色の塊は、ずるりと這いずりながら壁に張り付くように広がり、そのまま動かなくなった。
「……まあよい。力は充分に入った。この次は、きちんとその役目を果たすのじゃ」
そう言い残すと、虚影はもうその塊に目もくれず、縁側から建物の中に入ると、そのまま奥に入り、板の間に敷かれた色とりどりの縁取りがされた畳の上に胡坐をかいた。
時を置かず、三体の鬼と黒猿がやってきて、虚影の前に跪く。
「“アレ”には、儂の力を十分に与えておいた。あと一回や二回は、力を与えることは出来るじゃろう。それ以上になると、本体が持たぬかもしれんがの」
前にいる四体はうなずく。
「お前たちには、儂の代わりに動いてもらわねばならん。儂は、ここから動けんのじゃ。他の神に、見つかるわけにはいかんからの」
虚影は、それぞれに命令を下した。
「漸鬼、お前は妖どもをまとめよ。劉鬼、お前は妖どもをもっと集めよ。蒐鬼、お前は現世に出てあたりの哨戒をせよ。異変があったら、すぐに知らせるのじゃ。黒猿、お前は“アレ”がきちんと命を果たすか、見ておれ。では、行くのじゃ」
「はっ」
四体の声が揃い、それぞれに散っていく。
四体が姿を消したところで、虚影は二度、手を打ち鳴らす。
すると、大振りの柏の葉を数枚並べた上に、人の拳大の赤く脈打つ肉のようなものがいくつか乗った白木の三方を捧げ持った狐の巫女が現れ、虚影の前に三方を静かに置いた。
さらに二体の狐の巫女が、それぞれ朱塗りの盃と白い瓶子を手にして現れ、虚影に杯を差し出す。
虚影が右手で杯を受け取ると、瓶子から酒が注がれる。
虚影はそれを水でも飲むかのように飲み干すと、左手で三方の上のものを一つ掴み、無造作に歯を立てて喰らっていく。
何度か盃を重ね、三方の上の神饌を喰らい尽くすと、三方を持ってきた巫女が懐から懐紙を取り出して広げ、虚影に差し出した。
虚影がそれで左手を拭うと、懐紙が赤く染まる。
拭い終わった懐紙の赤くなったところを内側に折り畳むと、巫女は再びそれを懐にしまった。
「……なかなかによい贄であった。酒も、以前のものとはまた味が違うが、これはこれで美味かった」
「恐れ入りまする」
狐の巫女は揃って頭を下げ、それぞれ自分が捧げ持ってきた物を再び手にし、下がっていく。
巫女たちが姿を消したところで、改めて先程庭に置き去りにしてきたアレについて考えをめぐらした。
まさか、結界を破り切れなかったとは、思いもしなかった。充分な力は与えたはずだが、まだうまく使いこなせていないのだろうか。
だとしたら……
「まだしっくりいっておらんようじゃな……」
アレの中身は、元々人間だった。入れてやってからしばらく経つが、まだ馴染んではいないらしい。
全く、役立たずだ。
もう少し使えるかと思ったが、案外使えなかった。
例の化け物の力を削いでくれればいいと思ってぶつけようとしたが、ぶつける前に逃げ帰ってきた。
結界を破ろうとして、一度は弾き返され、次には破り切れずに力を使い果たして逃げて来たのだ。
今度は、逃げることは許さない。刺し違えてでもアレを潰してもらわねば、こちらが面倒なことになる。
刺し違えて、それで相手を潰しきれるかどうかわからないが、最低でも力は削いでもらわねば。
虚影は、アレの姿を思い浮かべる。
人形のような、整いすぎた美しさを持つ、化け物の無表情の顔を……