17.ぶつかり
しかし、このままではおちおち寝てもいられないことになる。
晃は、厄介なことになったと眉間にしわを寄せた。
この調子だと、明日の夜も来るかもしれない。
ならば、いっそ決着をつけてしまったほうがいいのではないか、と思う。
そして、このままここに居ていいのか、とも思う。
ここに居たら、クリニックに迷惑がかかるのではないか。
そもそも、入院理由に納得がいっていない。なら、退院で続きを取ってもいいのではないか。
晃は心の中で、今日中に退院して自分の部屋に戻ろうと決め、身支度を整えるために入院患者用の洗面台に向かった。
そして、一通り用を足し、歯を磨き、洗顔してから病室へ戻った。
それからしばらくして、朝食が運ばれてきたところで、食事を持ってきた看護師に、冷静に訊ねた。
「特に体調は問題ないので、今日退院したいんですけど、出来ますか?」
看護師は困ったような顔をして、小さくかぶりを振った。
「私では、それは判断出来ません。先生に確認してください」
そう答えると、看護師は病室を出て行った。
その答えは予想していたので、特に何かを思うことはない。
ご飯に豆腐とわかめの味噌汁、卵焼きに青菜の胡麻和えなどが並んだトレイを眺め、口を付ける。
相変わらず薄味だが、別に嫌いな味ではないので、ゆっくり噛みしめるように食べる。
やはり、体は要求するらしい。
昨夜のこともあって、消耗していたのだと感じる。
ちょうど食べ終わった頃を見計らったように、松枝が病室にやってきた。
「今日中に退院したいとか言ったようだが、それは許可出来ない。君はまだ、体が回復していないんだぞ」
松枝は、昨日の今日でそんなに簡単に体が戻るはずがないと、軽く叱責してきた。
「君は体重の記録を付けていないみたいだから、判断が難しいところだが、せめてもう少し体重が増えてから、そしてそれが維持出来るようになってから、退院しても遅くない」
そんな松枝に、晃は冷静に言った。
「昨夜なんですが、僕が張った結界を破りかけたモノがいました。何とか実害を出さないで済みましたが、いつまた襲ってくるかわかりません。だから、迷惑をかけないためにも、僕はここに居ないほうがいいんです。退院させてください」
真顔で告げた晃に、松枝は困惑の表情を浮かべる。
「……どういうことだ? 結界を張ってあっただろう?」
「だから、それを破って中に入ろうとしたモノがいたということですよ。僕がいるから、そういうことが起こるんです」
「しかしな、だからと言って医者としては、そうそう退院していいとは言えない。もっと厳重に結界を張って、守りを固めたらどうかな。西崎にも連絡を取って、手伝ってもらえば……」
晃の言葉に反論しようとした松枝に、晃は突き放すように告げる。
「失礼な言い方だと承知で敢えて言いますが、和尚さんの力では僕以上の結界は張れない。手伝ってもらったところで、今以上には状況はよくなりませんよ。このままでは、クリニックに霊障の被害が出かねない」
(お前! 言い方があるだろう!! 言い方が!!)
遼が怒鳴るが、それは無視した。
松枝は、さすがに一瞬絶句した。そんな言い方をされるとは、思っていなかったようだ。
「霊障を防ぐ一番簡単な解決法は、僕がここから離れることです。相手は、僕狙いなんだ。僕がいなければ、狙われることはありませんから」
晃に自覚はなかったが、話し続ける晃は無表情だった。それを見た松枝は、何か思うところがあったようで、大きく溜め息を吐く。
「……君の気持ちはわかったが、だからといって“はいそうですか”というわけにはいけない。西崎には、連絡を取るよ。とにかく、まだ入院していなさい。院長としての、私の判断だ」
松枝は、頭痛をこらえるような表情で病室を去っていった。
結局、退院は認められないということだけは、はっきりとわかった。
(……晃、俺は松枝先生が退院を認めなかった気持ち、よくわかるぞ。お前、変な方向に走り過ぎだ。和尚さんに対しても、あんな言い方しやがって……)
(遼さん、僕は無茶なことは何一つ言ってないよ。このままではクリニックに迷惑がかかるのは、本当のことだ)
(だからって、自分の状態がよくないのにそれに絡めて無理に退院しようとするな。昨日のことだって、以前のお前ならあそこまで疲労は感じなかったはずだ。体力がなくなっているんだよ。禍神をどうこうする前に、本当にぶっ倒れるぞ、お前)
(……そうかなあ。自分では、特に問題ないと思ってるんだけど)
(お前、自覚なしかよ。……体も壊れてきたのかねえ。体の変調を、感じ取れなくなってきてるのか……)
遼が深々と溜め息を吐く。
遼が自分を案じてくれているのはわかるのだが、どうもピンとこない。
なぜみんな、こんなに自分の体を案じるのだろうか。
それからほどなくして、まるで駆け込むように病室にやってきた者がいた。法引だった。
「早見さん、結界が破られそうなモノが現れたと聞きましたが」
慌ただしく問いかける法引に、晃はうなずいた。
「……そうですが、和尚さんがここに来る必要などありませんよ?」
晃の言葉に、法引はどこか苦しげな表情を浮かべる。
「……確かにそうでしょうな。わたくしでは、あなたほどの結界は張れません。ですが、あなたを心配する権利ぐらいはあるはずです」
法引は、少し怒ったような口調で言いながら、晃の顔をじっと見つめた。
余りに真剣なまなざしに、晃は気圧されるような思いがした。
(お前が、あんな言い方するからだぞ。和尚さんは、ずっとお前を支えてくれた恩人じゃないか。初めからお前の事情をわかったうえで、話を聞いてくれていたんだろう? それを、わざわざあんな言い方しやがって……)
(でも、下手すると和尚さんも巻き込むだろう。だから、来なくていいと言ったのに)
(……またお前の悪い癖が出たな。自分ひとりで何とかしようとするなって、前から言ってるだろう……)
遼の声を聞き流そうとしたとき、法引が再び口を開いた。
「……早見さん、あなたにとって、わたくしは取るに足らない存在でしたか?」
真顔で問いかけてくる法引に、晃は言葉に詰まった。
そんなことはない。大事な人だと思うからこそ、巻き込みたくないと思ったのだ。
(けどな、それは言わなきゃ伝わらないぞ。念話が通じるわけじゃないんだからな。ちゃんと口で説明しなきゃ、誰だって誤解する)
遼の言葉は、どこか必死だった。今、過ちを正さなければ、取り返しのつかないことになりかねない、というかのように。
自分は、何か失敗してるのだろうか。
自分が禍神の配下を倒し、相手の勢力を削り切って消えれば、それでいいはずだ。
それに、他の人を巻き込みたくないだけなのに……
ぐるぐる考えているうちに、なんだか頭がぼんやりしてきた。
その直後、不意にある種の衝撃に似たものが襲い、意識がブラックアウトした。