13.戦い済んで夜が明けて
「今度こそ、大丈夫よね……」
立ち上がりながら、和海がつぶやく。結城も晃も、無言のままうなずいた。
三人は、だるい体を引きずるようにして昨夜の戦いの後を片付けると、皆でダイニングキッチンへ行き、結城が冷蔵庫からペットボトルのウーロン茶を出し、和海と晃が食器棚からグラスを出して、三人でダイニングテーブルに座ってウーロン茶を飲んだ。
「……何か、食べたほうがいいんだがな、買いに出るのも億劫だ」
「それなら、冷凍庫のほうに、取って置きのチョコレートがあったはず。それ、食べましょう」
「それなら、僕が取りますよ」
晃は椅子から立ち上がり、旧式な冷蔵庫の上側の小ぶりのドアを開けた。
「あ、有名なブランド品じゃないですか」
「そう、だから取って置き。前に、クライアントの女性から、差し入れだと言われてもらったの。まだ暑い頃だったし、冷たくしておいたほうがおいしいかな、と思って、冷凍庫に入れたまま、食べるタイミングがなくなって、そのままになってたものよ」
晃は、チョコレートの入った箱を手に取り、肘でドアを閉めて、テーブルの上に箱を置いた。
封を切り、箱を開けると、十二個の品のいいつくりのチョコレートが仲良く並んでいた。
三人は、思い思いにチョコレートの粒を手に取り、口に運んだ。口の中で解けていくにつれ、カカオの香りが鼻に抜け、ほのかな苦味が隠し味になった上品な甘さが広がる。
「……チョコレートって、こんなにおいしいものだったんですね」
晃がしみじみとつぶやいた。
「まったくだな。なるほど、原産地では、かつてカカオを使った飲み物が王様しか飲めなかったというのも、わかる気がする。癒されるといったら大げさかも知れんが、そう感じるなあ」
「本当においしい。なんだか、疲れが抜けていく気がするわね」
結城も和海も、チョコレートを口に含んだまま恍惚とした表情を浮かべる。
三人は箱の中のチョコレートを分け合い、じっくり味わって食べた。チョコレートは、疲れ切っていた三人の心を和ませ、活力を呼び起こした。
そこで結城は、昨夜に見た防空頭巾の少女と真っ黒の人々について、自分が感じたことを晃に話した。晃はうなずきながら聞いていたが、やがて口を開く。
「僕も、少しは感じてはいたんですが、やはりそういうことでしたか。あと、これは勘ですが、もしかしたらその子、自分がすでに死んでいることに気づいていないかもしれません。だからこそ、生きている人間である持田さんを“姉”だと思い、所長を“父”だと思った。そして、“一緒に暮らそう”と考え、呼びかけた……」
「……ぞっとせんな。しかし、目を覚ましてもらわんと、困るのはこっちだ」
結城が頭を抱えながら、溜め息をついた。和海も、天井を仰ぐ。
「自分が死んだことに気づいていない霊は、決して珍しい存在ではありません。そのことは、所長も小田切さんもご存知ですよね」
晃の問いかけに、二人はうなずく。
「自分が死んでいると“気づいてもらう”ためには、たとえば自分の遺影が飾られた仏壇を見るとか、霊としての自分が写っている心霊写真を見るとか、そういう方法が一番わかりやすいんですが、あの子の場合、どうすればいいか……」
「まったくだ。確かに、父親に間違えられても、まったく不思議はない年齢だがなあ」
思わずぼやいた結城だったが、次の和海の言葉で、冷や水を浴びせかけられたようにぞっとした。
「でも所長、あの子が所長のことを父親と勘違いしたままだったなら、また来るんじゃないですか?」
晃が、真顔になって同意した。
「そうですよ、所長。護符か何か、身を護るものを身につけていたほうがいい。持田さんの二の舞になりますよ」
結城は脅かすなといったが、すでに顔色が紙のようだ。
「所長、一番気をつけなくてはいけないのは、通勤のときです。特に、夜の移動。なんとしても、明るいうちに護符を手に入れておいたほうが安全です」
晃はそう言ったが、結城は首を振る。
「うちの事務所は、この事件以外の調査物件も抱えているんだ。それを統括しなければならん私に、時間的な余裕がないことくらい、君もわかるだろう」
「……そうですね」
三人は、そのまま考え込んだ。
(晃、お前また、自分で何とかしようと思ってるな)
(それ以外、方法がないよ。どうせ今日も大学は休みなんだ。所長の身の安全のためには、とことん付き合う覚悟だよ、僕は)
(この人まで『神隠し』に遭っちまったら、確かにえらいことになるからなあ……)
とにかく、チョコレート以外のものも何かお腹に入れて、もう少し落ち着いて考えようと、近くのコンビニエンスストアに誰かが買出しに行くことになった。
三人で相談した結果、和海が買出しに行くことに決まり、晃に活を入れてもらって事務所を出た。結城と晃は、万が一に備えて結界の中にいることにしたのだ。
和海が戻ってくる十五分ほどの間、結城と晃は精神的に落ち着かないまま事務所の長椅子に座り、すでにカーテンを開け放った窓から、和海が帰ってくるのを待った。
和海の姿を認めると、二人は咄嗟に霊視をし、今回の一件に関わっていそうな霊がいないことを確認していた。そして、互いにそれに気づき、顔を見合わせて苦笑いする。
「お互い、神経質になっているな」
「昨日の今日ですからね」
その直後、玄関ドアが開く音がして、和海が中に入ってきた。
「ご飯類もパン類も、いろいろ買ってきたから、好きなものを食べて」
大きな袋の中に、おにぎりやサンドウィッチ、いなり寿司や菓子パンなどが、いろいろと入っている。和海は、事務所の長椅子のところにいた二人に声をかけ、ダイニングテーブルまでそれを運ぶと、真ん中に袋を置いて大きく息をついた。
二人ともダイニングキッチンに戻ると、結城がウーロン茶を注ぎ直す。
「まさか、事務所の奥のダイニングで、コンビニご飯で朝食になるとは、思ってなかったけど……。まあいいわ。いただきます」
和海が袋から中身を出し、自分で食べたい物を適当に取ると、椅子に座って両手を合わせ、小さくお祈りした。結城と晃も、あり合わせのものを手に取った。
和海はわかめご飯と、梅入りのおにぎりの二個、結城は卵サンドとツナサンド、コロッケパン、晃はミックスサンドとメロンパンを食べた。
残ったものは、誰かが昼食に食べることにして、三人は一息つく。
「……護符のことですけど、僕が作りましょうか。丁寧に念を込めれば、充分“身代わり”にはなってくれるはずだし、護符を通して僕がフォローにはいることも出来ますから」
晃の申し出に、結城はかぶりを振った。
「君にこれ以上無理はさせられんよ。君は充分私を護ってくれた。それで充分だ」
結城はそういって静かに微笑む。晃はそれに対しては口を開かなかったが、内心は断られてもそうしようと思っていた。
(所長の安全には代えられない。ひと時、疲れるのを我慢すればいいだけだ)
(俺が止められる立場じゃないのはよくわかっているがな、自分の体も大事にしろよ。昨日の疲れが抜け切ってないのは、俺にもわかるぞ。二度も消耗し尽くして失神したの、忘れたわけじゃないだろう)
(でも、この事務所は僕にとって、僕の能力を認め、必要としてくれる大切な場所なんだ。そこを失いたくないんだよ)
(……今まで、能力を否定され続けてきたからな。お前が思い入れるのも、わかるといえばわかるんだが……)
ぼんやりと考え込んでいるように見えた晃に向かって、和海が声をかける。
「ねえ、どちらにしろ、一旦家に帰ったほうがいいわ。昨夜は、あんな状況だったから、連絡を取ることも出来なかったでしょう?」
「え、ええ。そう、でしょうね」
脳裏に、ヒステリックに怒る母の顔が浮かんだ。確かに昨日、遅くなるから夕食は要らないと言い残して家を出たが、帰らないとは一言も言わなかった。自分でも、ここまでの事態になるとは思っていなかったからだ。事態が急転したので、携帯電話での連絡さえ、ままならなかった。
「……家に帰るのが、気が重いですよ」
言いながら、改めてガラケーを取り出して着信を確認すると、自宅からの着信が山のように入っている。晃はそれを二人に見せながら、苦笑した。
「今頃、捜索願を出しているかもしれませんね、母は」
晃はガラケーをしまうと、二人に向かってどこか途方に暮れたように見える顔をし、溜め息をついた。
「一旦帰りなさい。ここは私と小田切くんで何とかするから、君は体を休めることに専念したほうがいい。一晩寝て、朝食を食べてもまだ青ざめた顔をしている状態じゃ、こちらが落ち着かんのだ」
結城に諭され、晃は仕方なく、事務所の片隅においてあった自分のワンショルダーを手にし、いつものようにタスキにかける。そして、入り口のドアのところで振り返った。
「必ず、今日中に護符を手に入れてくださいね」
それにうなずく結城と和海に見送られ、晃は事務所を出た。自転車をガレージから引き出してまたがったものの、まだなんとなく体が重い。鏡も見ていないので直接はわからないが、顔色は悪いだろうと自分で予想がつく。
晃は時刻を確認した。もう七時近かった。
気が重いのをこらえて、自宅に電話をかける。一回のコールですぐに電話が繋がった。
「もしもし……」
どこかで緊張や動揺を抑えているような調子ではあったが、間違いなく母の声だ。
「もしもし、母さん……」
晃が口を開いた途端、電話の向こうの母の声が豹変した。
「今までどこで何やってたのっ! どれだけお父さんやお母さんが心配したか、お前はわかってるのっ!!」
「これから帰るよ。別に事件に巻き込まれたわけでも、事件を起こしたわけでもないから、そんなに怒鳴る必要はないだろう」
そこまで言うと、晃はそのまま電話を切り、電源も落とした。
そして、大きな溜め息をひとつついたあと、ガラケーをしまい、ゆっくりと漕ぎ出した。