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ある異能者の備忘録  作者: 鷹沢綾乃
第一話 凍れる願い
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03.調査

 あたりがすっかり茜色に染まる頃、『花丸荘』と書かれたアパートの前に、どこか可愛らしい印象の淡いクリーム色の軽自動車が止まった。

 「さっさと降りてくださいよ、所長。人一倍いい体してるのに、助手席に座るなんて。圧迫感があって、運転しづらいんです」

 和海の言葉に、結城が渋い顔をする。

 「どういう意味だ。それに、『今は予算がなくて車の買い替えは出来ないから、当分これで我慢』といったのは君だぞ、小田切くん」

 「いい体をしているのは事実でしょうが。それに、所長が降りてくれないと、後部座席の晃くんが降りられないんですよ」

 軽自動車は、ドアが二つしかない旧式のタイプだった。それを思い出した結城は、そそくさとドアを開け、外に出た。

 和海が素早く助手席の背もたれを前に倒し、前方にスライドさせる。そして、後部座席の晃が外に出、結城と合流した。

 「それじゃわたしは、この先の駐車場に車止めてきますから、先に雰囲気を“視て”おいてください。晃くんがいれば、そういうことは万全ですから」

 結城がそれはどういう意味だと言いかけるのを無視して、和海は助手席を元に戻してドアを閉め、車を発進させた。あとには、晃と結城が残される。

 「それじゃあ、調査を始めましょう。ちょうどそれに相応しい“誰そ彼”どきですから」

 晃が結城に向かって微笑みかけると、結城は苦笑ともなんともつかない表情を浮かべた。

 「……毎度のことだが、あの笑顔には必要以上に毒気を抜かれるなあ……」

 そんなに逞しさが感じられない、晃の細身の肢体は、逆に人形のような不思議な雰囲気がある。

 それにあの顔があると、この世のものではない幻影が実体化したかのごとく、それこそすべてが人間離れしたような、どこか妖しい美しさを醸し出すのだ。

 そんな結城の心情はともかく、晃はアパートの前に立つと、周囲をゆっくりと見回した。

 霊体がいないわけではない。

 しかしそれは、今回の依頼とは関係ないだろうと思われる力弱い霊体ばかりだった。浮遊霊と言ってもいいのかもしれない。

 それを確認し、晃は結城に向き直る。

 「……特にこれといった存在はいませんね。どこかに慎重に隠れられていたら、どうしようもないですけど」

 「まあ、それはそうだな。とにかく、今のところ異常はないわけだな」

 「ありません」

 二人がやり取りをしている間に、駐車場に車を置いてきた和海が、小走りになってやってきた。

 「お待たせ。ところで、何か変わったことはありましたか」

 「いや、特に目に付くものはないと、早見くんが言っていたよ」

 結城の言葉に、和海はさっそくアパートのほうへ歩み寄って行く。

 「そういうことなら、さっそく現場検証ですね。いきましょう」

 「おいおい、ちゃんと許可は取っているんだろうな。あとから住居不法侵入なんてことで、訴えられる羽目にでもになったら、こっちは困るぞ」

 途端に和海の機嫌が悪くなった。少々語気を強めた返答が返ってくる。

 「御遺族のほうから、ちゃんと大家さんに連絡が入っていますっ。これから鍵を借りに行くんですから。大体こういうことを、何で自分でやらないんですか、所長はっ!」

 語気の荒さに、結城は慌ててなだめる。

 「一応確認しただけだ。君のことだから間違いはないと思うが、念のため確認したんだ。君を信用しているからこそ、君に任せているんじゃないか」

 それでも、和海はまだ機嫌を損ねているようだった。

 「小田切さん、こんなところで揉めていたってどうしようもないじゃないですか。早く大家さんから鍵を借りて、現場の様子を見てきましょうよ。そのために、わざわざここまで来たんでしょう」

 晃がそういうと、和海はあっさりとうなずき、アパートへと歩き出した。それを見ながら、結城はなんとも複雑な表情をしながらあとに続く。

 大家夫妻は、アパートのとなりの一軒家に住んでおり、和海が訪ねたとき、夫は不在で妻である花山珠枝が応対に出た。

 珠枝は六十絡みのふくよかな女性で、今回の調査のための事前連絡で、事件当時のことを思い出したらしく、畠田のことは自分も驚いたと自分から語った。

 「いやあ、あんなに若い人でも、あんなことがあるんですねえ。夕方に会社の人が訪ねてきて、『何日も無断欠勤してるから、様子を見に来た』って言うんで鍵を渡して、一緒についていったんですけどねえ……。びっくりしました」

 そのあと、やれ警察だなんだと大騒ぎをして、夜になっても気が高ぶったままでろくに寝られなかったと、和海に向かって、当時のうっぷんを晴らすように、くどくどと話しかけ続ける。

 ひとしきり当時のことで愚痴をこぼすと、珠枝は合鍵を渡してくれた。

 「ところで、何でいまさら探偵さんなんかが調べるんですかね。急病で亡くなったって、警察から連絡もらいましたけど。病気じゃなかったんですか」

 「そういうわけではないんですけど、御遺族の方からの依頼でして、確認のためということで……」

 ここでふと思いついた和海は、何気ない風を装って尋ねてみた。

 「そういえば、ここで何か怪しい物音を聞いたとか、おかしな人影を見たとか、そういうことはありませんでしたか」

 「いえ、別に。病気で亡くなった人のことを調べるのに、何でわざわざそんなことを聞くんですか」

 「まあ、いつもの癖みたいなもので……」

 和海は適当に語尾を濁した。

 自分たちがどういう依頼を受けたかなど言うことではないし、そもそも“急病”の真実などここで言える内容ではない。

 第一、自分のアパートで超常現象が絡んだ事件が起きたことを知って、いい顔をする人はいないだろう。

 合鍵を受け取ると、和海はアパートの入り口で待っている二人に合流した。

 「少なくとも、変な物音を聞いたり、わけのわからないものを見たり、なんていうことはないみたいね、あの大家さん」

 「霊感のない人だと、何かあっても気づかないということはよくありますからね。実際ここにも何体か霊はいますが、事件に直接関係ない、力弱いひとばかりです。霊感のない人では、気づかなくて当然でしょう」

 「あっさり言うなあ、早見くんは……」

 三人はゆっくりと、アパートの敷地の中に足を踏み入れた。現場はアパートの一階一番奥の部屋だ。周囲の気配に気を配りながらゆっくり進んでいくと、不意に晃が先頭を行く和海に声を掛けた。

 「まだ残っています」

 「えっ」

 和海が思わず振り返る。

 「残滓がまだ残っています。ドアのノブあたりに、こびりついていますよ」

 言われた和海は、そのまま完全に足を止めた。

 「どういうことだ、早見くん。ここで異変があったのは、もう一週間も前の話だ。まだ霊体がウロウロしているとでも言うのか。私には、何も感じられんが」

 結城が、驚きを含んだ口調で晃に問いかける。

 「そういうわけじゃないですが……実際に“視え”るんですよ。おそらく霊体自身はここにはいないはずです。なのに、一週間前の出来事の残滓が残っていることの説明は、僕にも出来ませんけど」

 晃は困惑の表情を浮かべながらも、一番奥の部屋のドアを見つめた。そこには、ひんやりとした靄のような霊気がゆるりと纏わりついている。

 他の霊気と明らかに違うのは、“冷たい”気配があるということだった。今回の事例との関連を疑わざるをえない。

 「ほんとに間違いなく、一週間前のことと関係あるものなの」

 「おそらくは。冷たい気配を感じるんです。依頼された一件は、“異常な冷気”が特徴でしたよね」

 戸惑う和海を制して、晃が前に出た。そして、静かに問題のドアに歩み寄ると、腕を伸ばせば届くくらいの距離を置いて真正面に立ち、深呼吸しながら目を閉じた。

 それから一分ほど経った頃だろうか、ドアの手前で待っていた和海と結城の前で、ノブのあたりに一瞬気配が揺らぎ、音もなく消えていった。

 「……所長、今のは……」

 「早見くんに訊け。私ではわからん」

 直後、晃がひときわ大きく息を吐き、目を開けた。

 「……本体は女性のようですね」

 つぶやくような晃の言葉に、二人は息を飲んだ。

 「……女性か。わかるのか、それが。たったあれだけのもので」

 結城が問いかけると、晃はうなずく。

 「ええ。ただ、ひとりではないような気がします。複合霊とでも言うんでしょうかね、 本体の周囲に幾人もの意識が重なっているような……」

 「そこまでわかるの? わたし、最後の一瞬に気配を感じただけよ」

 和海の言葉には、感嘆の色が混ざっていた。

 「僕も、おぼろげにわかっただけですよ。詳しいことは何一つわからないままです」

 そういうと、晃は二人を促した。これより詳しいことを調べるには、中に入ってみるしかない。

 晃に促され、和海は合鍵をドアの鍵穴に差し込み、鍵を開けた。音と手ごたえで開いたのを確信すると、和海は鍵を抜き、背後の二人に合図した。

 それを見て、一番体力のある結城がノブに手を掛け、ドアを静かに開けた。

 室内は、調査をしてもらうためにわざとそのままにされている。

 散らかった部屋だった。部屋のあちこちに、漫画雑誌やらなにやらが、ゴミやガラクタと一緒くたになって放り出されている。一応は洗濯済みらしい服が、そこらに適当に山積みになっている。部屋の隅には、缶酎ハイの空き缶が十数本、かためられていた。どこに何があるか、さっぱりわからない。

 そして玄関のところには、遺族が供えたらしい真新しい菊の花束が、ポツリと置かれていた。

 換気がされていないこともあって、なんとなくすえた臭いが立ち込めている。

 それが、男のひとり暮らしのせいなのか、遺体が数日放置されていたせいなのか、わからなかった。

 三人は、狭い玄関先で様子を見ながら、上がるのを躊躇した。玄関のすぐ先から、空気が変わっているのを、全員が感じていた。

 気配が違うとでもいうのだろうか、すぐ目の前の空気が、見えない壁にさえぎられているかのように、違うものになっている。

 「強い霊気は感じませんが……注意したほうがよさそうですね」

 晃が真顔でつぶやくと、和海がうなずく。

 「……そうね。ところで、わたしが一番最初に上がったほうがいいんじゃないかな。被害者は全員男性だったんでしょう。だったら、わたしの方が危険度が少ないんじゃないかと思って」

 それには、結城が渋い顔になった。

 「しかしな……。万が一のことがあったらどうするんだ。こういう事件でもし何かあっても、労災は下りないぞ」

 「それなら僕が、フォローに入りますよ。所長は、何かあったときのためにそこに待機していてください」

 晃の言葉に、和海は嬉しそうに微笑んだ。

 「そういってくれると、助かるわ。それじゃ、上がるわね」

 和海はパンプスを脱ぐと、畳の上に足を一歩踏み出した。ストッキングを通して、畳の冷たい感触が足の裏に伝わる。それと同時に、髪の毛が逆立つような、心がざわつくような、異様な感覚が襲った。

 間違いなく、空気が違う。

 「……やっぱり、上がると空気が全然違うわ……」

 「僕もすぐ上がります」

 続いて晃が、スニーカーを脱いで和海のすぐ後ろに立った。そして二人は、ゆっくりと部屋の中央に向かって歩き出す。

 部屋の隅から、気配ともいえない何かが動き出した。少しずつ集まって、ゆっくりと渦を形作っていく。

 「……所長が持ってきたコピー写真に写っていたのと、同じものです。やはり、あの靄は関係があったんですね……」

 「……わたしも感じる。ものすごく冷たい、いやな気配よ」

 渦が作られていくにつれ、結城もそれに気がついた。

 「おい、二人とも無理をするなよ。どんどん、厄介な気配が集まってきてるぞ」

 二人が思わず足を止めると、気配は二人を取り囲むように動き出し、そのまま周囲を渦となって回り出した。

 「気配に囲まれたわ」

 「落ち着いてください。動揺すると、飲まれますよ」

 周囲をゆっくり見回す晃の眼差しが、鋭いものになった。

 二人の正面に当たるところの靄が、まるで鎌首をもたげた蛇のように揺らぐ。それはまるで、二人を飲み込もうとしているかのようだ。

 和海が、気配に気圧されて後ずさりしようとしたとき、その右肩を誰かが掴んだ。

 咄嗟に後ろに視線を走らせるものの、そこには晃しかいない。立っている位置からいって、左手で掴まなければならないが、彼の義手の左腕は、力なく下がったままだ。では、今、肩を掴んでいるのは誰だ。

 「小田切さん、下がってはだめです。隙を見せてはいけない」

 晃のその言葉は、まるで気合を入れるかのように強く鋭かった。

 後ろの玄関先で待機する結城が、慌てて上がろうとしたとき、気配が動いた。まるで巨大なあぎとのように大きく割れた気配が、覆いかぶさるようになだれかかる。刹那、それは何かにぶつかったかのように二人の手前で次々と霧散していき、たちまちのうちに消え去った。

 すべての靄が消え去ると、あたりの空気は何事もなかったかのように鎮まった。

 「……大丈夫か、二人とも。気配は消えたようだが」

 結城が上がり込んでくる。

 「大丈夫です。でも、あれはやはり本体じゃありませんね。本体に引きずられていた力弱い霊たちの集合体です。“本人”たちに強い意志がなかったので、この程度で済みましたけど」

 晃が、大きく息を吐いた。

 「ああ、よかった。気配が迫ってきたときはどうなるかと思ったけど、やっぱり晃くんが祓ってくれたのね。この場にいてくれて本当に助かったわ」

 和海が心底安堵した表情で、いつの間にか滲んでいた額の汗を手で拭った。

 「ところで……靄のような気配に襲われる直前、わたしの肩を掴んだのがいるんだけど、誰だかわかる? 晃くんや所長は、後ろから見ていたんでしょう」

 和海の問いかけに、晃も結城も首を横に振った。

 「私は何も見てないし、君らの周囲の靄しか気づかなかったが」

 「僕も、靄のほうに神経を集中していましたから」

 二人の答えに、和海は首をひねった。

 「確かに、誰かがわたしの左肩を掴んだのよ。生きてる人間に掴まれたみたいな、生々しさがあったんだけど……」

 晃が考え込む和海の姿を見ていると、遼が話しかけてくる。

 (能力持ってるのが相手だと、やりにくいよなあ。小細工しようとしても、すぐばれる)

 (そればっかりは仕方ないよ、遼さん。特に小田切さんの能力は、かなり高いほうだもの。誤魔化しきれないって。普段気づかれないだけでも、良しとしなきゃ)

 (まあな。それにしても、襲いかかろうとしたあの連中、どう思う)

 (……少なくとも、本当の意味での自分の意思じゃないね。引きずられたんだと思う。だから、早くあのひとたちを引き込んだ本体を見つけないとね)

 「早見くん、ぼうっとしてるようだが、大丈夫か。話は聞いてるのか」

 不意に結城に話しかけられ、晃は目をしばたかせた。

 「……済みません、今考え事をしてました……」

 結城は肩をすくめると、晃に向き直って話し始めた。

 「そういうことなら繰り返すが、この場はもう、安全になったといっていいんだろう。どうなんだ、早見くん」

 「ええ。残滓は一掃されました。こちらから霊体を召喚したりしない限り、超常現象は起きないでしょう」

 それを聞き、結城も和海もほっとして肩の力を抜いた。

 「それで、何考えていたの。ずいぶん考え込んでいたようだったけれど」

 和海に問われ、晃は遼との会話のなかで見えてきたことを言った。

 「あの靄がなんなのか、ですよ。あれはどうやら、この一件を引き起こしたであろう強力な霊体に引きずられた、弱い霊の集合体として間違いないだろうと思います。あの霊体の中にも、本体の意思が相当反映されている気がしましたが」

 とにかく本体の意思としてはっきり感じられるものは、『何らかの欲望』だったという。何を欲しているのかまではわからないが、何かを欲しがっている。

 「直接対峙しなければ、詳しいことは知ることは出来ないでしょうが」

 それを聞き、結城は腕を組み、天井をにらんで唸った。

 「……やりたくはないが、私が調べてみるか」

 「所長、〈過去透視(サイコメトリー)〉を使うなら、気を確かに持ってくださいよ。万一ここで失神でもされたら、救急車を呼ぶことにもなりかねませんからね」

 和海が心配そうに結城の顔を見る。

 「わかっている。しかし、保証は出来んぞ。下手をしたら、被害者の今わの際の感情を拾ってしまうかも知れん。確かに断片的にしか見えない程度の力だが、そのくらいの危険はあるからな」

 結城がそう言うと、和海は仕方がないというようにうなずいた。

 「いざとなったら僕が引き戻しますから、やってみてください、所長。試してみなければ、始まりませんよ」

 晃の言葉に背中を押されるように、結城はその場にかがみ込み、右手を畳につけると、 ゆっくり深呼吸しながら、無言で精神統一を図る。

 しばらくの間、沈黙の時が流れた。

 と、不意に、結城の表情が変わった。それは、恐怖に耐えているようにも、苦痛をこらえているようにも見えた。

 思わず駆け寄りそうになる和海を、晃が制する。

 程なく、結城の唇が小刻みに震え、何かをぶつぶつとつぶやき始めたかと思うと、うわあっという絶叫に近い声を発し、そのまま尻餅をついた。

 「所長、大丈夫ですか」

 慌てて問いかけた和海に、結城は額の汗を手で拭いながら答えた。

 「……危うく、引き込まれるところだった。何とか持ちこたえた」

 「それで、どうだったんですか」

 晃が尋ねると、結城は大きく息をつき、おもむろに口を開いた。

 「早見くんも言っていた通り、本体は間違いなく女だ。それも、そこそこ若いな。小田切くんより少し上ぐらいと思ったが。その女が、被害者の背後からのしかかるようにしていた」

 結城は一瞬言葉を切り、こう続けた。

 「それで、女はこう言っていたよ。『温めて』とな。それが、その女の欲望だとしたら、何故温めて欲しいのかがよくわからんのだ。確かに、纏っている気配は冷たかったし、そういう意味ではわかるんだが……」

 結城の答えに、和海が首をひねる。晃も考え込んだ。

 「『温めて』ですか。それで、被害者に“温めて”もらおうとして、逆に死なせてしまったと……。これはもしかしたら、本人には自分がしていることがどういうことなのか、自覚がないのかもしれませんね……」

 晃は、結城と和海の顔を交互に見た。

 「そうだとすると、場合によっては厄介なことになるかもしれません」

 それを聞いた和海が、怪訝な顔になる。

 「厄介なことって、どういうことなの。どう、厄介なの」

 「自分のしていることが、“悪霊の所業”だと気づいていないということですよ。それに気づいて成仏してくれる相手ならまだいいんですが、本人が気づいていないと、頑強に抵抗する場合がありますから」

 結城が、首をひねった。

 「私の感じだと、素直に成仏してくれそうもないように思えたぞ。かなり粘着質という様子だったが……」

 すると、しばらく何か考えていた和海が、こう言い出した。

 「……いっそ、さっき祓った人たちにもう一度出てきてもらって、事情を聞いてみるっていうのはどうかしら」

 「おいおい、あまり無茶なことをするな。確かにそれは不可能じゃないはずだが……」

 結城が晃の顔を見る。晃はうなずいた。

 「確かに不可能ではありません。成仏させたわけではなくて、一時退散させただけですから。まあ、そのことによって、本体との繋がりは断ち切ったはずですけど」

 「それなら、やってみる価値はあると思うわ」

 すでにあたりは、刻々と夕闇が迫りつつあった。

 そろそろ明かりをつけないと、どこに何があるのかわからなくなり始めている。

 「やるなら急げよ。真っ暗になってからでは、余計なものを呼び込みかねんからな」

 結城の言葉に真顔になった和海は、その場に正座して静かに目を閉じ、呼吸を整え始める。

 その呼吸が規則正しく一定になり、起きているのか眠ってしまったのかの区別がつかない状態になったとき、それは始まった。

 周囲から、いくつもの気配がまるで湧き出すように現れ、朧な人の形を取りながらゆっくりと和海のほうに近づいてくる。その有様は、揺らめく影の集まりのようだ。

 和海を見守る結城と晃の顔にも、緊張が走った。

 「……来たな。いくつだ」

 「……ざっと数えて五体ほどですか。ただ、関係ない霊体まで、三体から四体、やってきていますが」

 晃の答えに、結城が困惑した表情になる。

 「私には、どれも同じもやもやとした気配にしか感じられんが。君には、ちゃんと区別がつくのか」

 「僕には、明確に違いが“視え”ます。関係がある霊体は、一度繋がりは断ち切っていますが、まだ本体の影響を受けた冷たい残滓を引きずっているのです。関係ない霊体には、それがありません。小田切さんを、護っていてください」

 晃はある一点を見つめると、ゆっくりと歩き出した。結城には、それが何を意味するのかわからない。

 すると晃は、まるで誰かを迎え入れるかのように腕を広げた。左腕も、ぎこちないながらもわずかに横に上がる。

 「ここから先は、あなた方は来る必要のない場所です。戻ってください」

 背後から見つめる結城には、晃の表情はうかがい知ることは出来ない。

 と、晃の体から、ある種の“気”が湧き出すのが“視え”た。それに包まれたいくつかの気配が、まるで押し戻されるように壁の向こうに消えていく。

 その時、和海が呻くような声を上げた。反射的にそちらを見た結城の目に、気配に囲まれた和海が青ざめた顔を般若のように引き攣らせているのが映った。

 「大丈夫か、小田切くん」

 思わず結城が声を掛けた刹那、和海の口から、野太い男のかすれ声が漏れた。

 「……あの女に引きずられるのはもうごめんだ……」

 結城の顔に緊張が走る。晃も素早く向き直ると、和海の近くに急いだ。

 「……完全に憑依されたな。瞑想が深すぎたか。仕方がない、この状態のままで、訊けるだけのことは聞いてみよう」

 「そうですね。お願いします。危険な状態になったら、僕が何とかしますから」

 晃の言葉にうなずいた結城は、和海の正面にかがみ込み、落ち着いた口調で問いかけた。

 「あんたは何者だ。何故、この部屋に留まっていたんだ」

 「……好きでいたんじゃない。あの女だ。あの女、俺以外にも、何人も引きずり回していた……。自分が温めてもらいたいばっかりに……自分が凍えてるばっかりに……」

 「自分が凍えていた、とはどういうことだ」

 「……知らん。とにかくあの女、自分が力強いのをいいことに、勝手放題振り回しやがった……。俺達は、逆に力を吸われて、ここに置き去りにされたんだ……」

 「それじゃ、さっきここにいる二人を取り囲んだのは……」

 「……そうだ。二人から、力を吸い取ろうとした。だが、男のほうが強すぎて、逆に祓われた……」

 ここまで聞いたとき、和海の体がかすかに震え始めた。

 それに気づいた晃は、素早く右手を和海の額に押し当て、自分の体で彼女を包み込むような形で短く鋭い声を発した。

 「離れよっ」

 途端に、和海の顔が正気に返る。それと同時に、彼女の周囲に集まっていたすべての気配が消えた。それを確認して、晃はそっと和海から離れた。

 和海はしばらく夢から覚めたような表情で周囲を見回していたが、ふと何かに気づいたように、目の前の二人に話しかけた。

 「……わたし、もしかして完全に憑依されてたの」

 「ああ。気をつけてくれ。君は霊を呼ぶときに意識が深く入りすぎて、逆に自分が依り代になることが時々あるんだから」

 結城に言われ、和海は溜め息をつきながらうつむいた。

 「……今日は入りすぎたわ。もっと手前で引き返してこなくてはいけなかったのに」

 ひとしきり反省したあと、和海は晃に向かって微笑みかけた。

 「そういえば、祓ってくれたのは晃くんでしょう。ありがとう」

 「いえ、当然のことをしただけです。あのまま放っておいたら、憑依している霊体が力を吸い始める気配があったので、祓いました。それに、彼が知っていることはほとんど一通り聞けたと思ったので」

 あたりは急速に暗くなりつつあった。そろそろ、調査を続けるか引き上げるかの決断を、しなければならないときにきていた。

 「……ここで調べられることは、調べたような気がするんだが、どうかな早見くん」

 結城に尋ねられ、晃はうなずいた。

 「ここにいた霊体では、あれくらいしか知らなくて、むしろ当然だと思います。いわば、巻き込まれただけなんですから。これで少なくとも、本体ともいうべき霊が“凍えて”いて、“自分が温めてもらう”ために今回の事件を引き起こしたのだということは、はっきりしました」

 「……ならば、撤収の潮時かな」

 「そうですね。それに……」

 和海が、結城の顔を凝視する。

 「なんだ、何か言いたいことがあるのか」

 「所長がさっき上げた悲鳴、結構大きかったですからね。事情を知らない人が勘違いしてないことを祈りますけど」

 結城が憮然と眉間にしわを寄せる。

 「……悪かったな、大声出して。だがな、声を出さなきゃ引き込まれて、今頃救急車に乗っていたぞ」

 「そういうものなんですか」

 納得出来ない表情の和海に、晃が言った。

 「自分の意思で声を出すということは、自分自身の意識に呼びかけることにもなります。それで金縛りを解いたりすることも出来る場合があるんですから、馬鹿に出来ませんよ」

 「なるほど」

 すぐさま納得した和海に、今度は結城が納得出来ないとばかりに口を開いた。

 「私が言っても納得しなかったのに、早見くんが言うなら納得するというのは、どういうことだ」

 すると和海は、すました顔でさらりと言った。

 「説得力の違いですよ、所長」

 それには結城も、さすがに二の句が告げなかった。

 「とにかく戻りましょう。いつまでもぐずぐずしていると、また関係ないものを呼びかねませんよ」

 晃が二人に合図して、部屋の外に出て行く。

 置いてけぼりを食わされてはかなわないと、結城と和海もあとに続いた。

 大家に合鍵を返し、駐車場へと向かう道すがら、少し先を行く晃の背中を見ながら、結城が和海に向かって、晃に聞こえないように小声で話しかける。

 「……さっき説得力と言っとったが、それは実力の差といいたいのか」

 「……まあ、それもありますけど。晃くんは、ちゃんと説明してくれましたからね」

 「……まあなあ……」

 それと、と和海が付け加える。

 「……目の保養になりますしね」

 「結局それが本音か」

 結城が、あきれたように和海の顔を見た。その視線を受け、和海は少し恥ずかしそうに含み笑いをすると、視線をもう一度前を歩く晃へと戻した。

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