13.懸念
法引が結城探偵事務所に連絡を取っていた日の前後、午後八時までのクリニックの外来診療を終え、松枝はカルテの整理をしていた。最近カルテは電子化してはいるのだが、万が一に備えてUSBメモリーにバックアップを取り、クラウドにもデータをバックアップしていた。
こんな小さな個人経営のクリニックが、サイバー攻撃の対象になるとは思えないが、それでもマルウェアの被害に遭ったらと思うと、用心に越したことはないからだ。
一通りの作業を終え、パソコンの電源を落とした途端、スマホにメッセージが飛んできた。
見てみると、外田からだった。
内容を確認すると、少し気になることが書かれていた。
『早見さんだが、どうも妄想がひどくなっているようだ。PTSDを発症するほどの精神的ショックを受けたことは間違いないので、その影響が抜けていないのかもしれない』
しばらくやり取りをしたが、今日診察にやってきた晃の様子が、初診の時よりおかしくなっているように感じたという。
明らかに表情が乏しくなり、妙に淡々としているという。
顔色も良いとは言えない状態で、何だかやつれているようにも見えたそうだが、本人が『何でもない』と身体的な診察を拒否したそうだ。
しかも、カウンセリングをしていても、相手の心に触れていないと感じるというのだ。
『こちらでも注意をしておくが、そちらも気に留めておいて欲しい』
メッセージのやり取りを終え、松枝は考え込んでいた。
外田には、霊感がない。だから、普通の患者と同じように晃を診ている。
晃が、すべての事情を話した場に松枝も立ち会っていたので、晃が本当に赤裸々に話していたのを、確認している。
しかし、外田はそれを、妄想と判断した。当然だ。
あれが本当のことだと、誰が信じるだろうか。
『自分は本当は死んでいて、幽霊が同化することによってこの世に引き留められた存在だ』などと。
そうなる可能性はあると思ったが、やはり妄想ということになったのは、仕方がないと言えばそうなるだろうか。
外田は、PTSDの治療のほうに力を入れている。心に負った傷が少しでも癒えれば、妄想もよくなるだろうと考えている。
だが、松枝にはわかっていた。
晃の心の傷は、普通のものではない。
『自分が人食いの化け物に堕ちる』などと、誰が思い悩むだろうか。
しかし、晃にとっては、それは真実なのだ。
松枝自身は見たことはないが、彼が本性を現した時には、すでに異形と化しつつあるという。
自分の学友だった西崎も、異形化がひどくなってからは見ていないというが、目撃したものは複数いて、それによると目の色が朱く変わり、爪が長く伸びているという。
『人にして人にあらざるもの』であるという、晃。
人の心をそのまま持ち続けていた彼は、それゆえに深く傷つき、危ういことになっている。
人としての心を失い、人を喰らう異形の化け物に堕ちていくのが自分の末路だと思い込んでしまったなら、それを覆すのは難しいだろう。
薬で一時的に精神の動揺を抑え込んだとしても、根本的な解決になどならない。
せめて外田が、もう少し勘が働く人物だったらと考えなくもないが、連絡が取れる医学部の同期や先輩後輩の中で、精神科を選んで開業し、なおかつ心霊的な事柄にも抵抗をあまり示さない人物が外田だった。
ないものねだりをしても、仕方がない。
一通り後片付けを終え、クリニックの建物をあとにすると、真裏にある自宅に戻った。
自宅の玄関のドアを開けようとしたところで、松枝はふと、足元に何かいるのに気が付く。実体のあるものではない、と直感した。
よく見ると、柴犬サイズの白い獣で、狐のようにも見えた。
そこで、松枝はピンときた。そういえば、晃の側に付き添うようにいた白狐だと。
「……お前さんは、早見さんのところにいた白狐だね。いったいどうしたんだ?」
かがんで目線を下げながら、そう尋ねると、いきなり頭の中に声が聞こえた。
(我の声が聞こえるか? 聞こえるなら、幸いなことだが。力が足りないと、念話も通じぬからの)
「えっ!? 念話!?」
(どうやらそなたも、聞こえはするが、そちらから念話を送ることは出来ぬようであるな。まあ、聞こえるだけでも重畳。口に出して答えてもらえれば、会話は出来るからの)
そういえば西崎は、自分がかなり高い霊感を持ち、霊能者になれるだけの力があると言っていた気がする。そのせいだろうか。
(そなたに、晃殿の現状は伝わっておるだろうか。最近は、もはや自分が破滅するのを前提に、動いておるようでな……)
そう伝えてきた白狐の念話の調子は、明らかに憂いを感じられた。
(他の者たちも、晃殿が堕ちて行ってしまわぬように、引き止めるのに必死での、晃殿の体調面での注意が行き届いておらぬ状態なのだ。それで、往診という形で、晃殿を診てをらえぬであろうか。もちろん、今すぐとは言わぬが)
どうやら、体調のほうも、あまりよくない兆候が出ているらしい。
おそらくは、精神的なものに引きずられているのだろうが、実際に見てみないことには何とも言えない。
おかしいと思うなら、外田と連携することも出来るだろう。
「わかった。私としても、そういう状態は気になる。時間を見つけて、往診することにするよ」
(かたじけない。我はひとまずこれで去るが、まずは探偵事務所のほうに先触れを入れておいて欲しい。さすれば、事は順調に進むであろうよ)
そう言い残し、笹丸の姿はかき消すように見えなくなった。
松枝はとりあえず帰宅はしたが、笹丸が語った内容が気になって仕方がなかった。
『晃が破滅を前提に動いている』
自暴自棄になっているのなら、まだわかる。
だが、笹丸の言葉のニュアンスとしては、冷静に、冷徹にさえ思えるほど淡々と、自分を追い込むような行動をとっているらしい。
それが、理解出来ない。
まるで、用意周到に計画された緩慢な自殺ではないか。
それは確かに、皆が必死で止めるだろう。
松枝は、現在時刻を確認した。
夕食は済ませたが、まだ入浴していないこともあって、まだ午後十時を少し回ったところだ。
所長の結城とは、メッセージを交換出来るように相互登録したため、メッセージは送れる。
松枝は正直に、『笹丸から頼まれて、晃の往診したいのだがいつ頃なら時間が空いているか』とメッセージを送った。
しばらくして返信があり、『明後日の午後なら時間が作れるので、往診に立ち会いたい』とあった。
どうやら、結城自身も気になっていることがあるようだ。
わざわざ立ち会いたい、などと言ってくるのだから。
それを確認してから、入浴してその日は就寝した。
次の日は、普通にクリニックを開いて患者に対応し、明日の午後に臨時休診をする旨を告知した後、結城と往診のためのやり取りを行った。
そしてその次の日、晃が大学から帰ってくる時間を見計らって、午後の診療を休診し、結城探偵事務所へと向かった。
晃とは、事務所としている一軒家の、事務室兼応接室としている部屋で、ひとまず顔を合わせた。
自分は来客用のソファーに座り、晃と、立ち会うと言っていた結城と和海は、向かい側のソファーに座った。
晃を中心に、向かって左に結城、向かって右に和海が座っている。
間に置かれたローテーブルの下には、笹丸がじっとしながら晃のほうを見上げている。
「……久しぶりだね、早見さん。気分はどうかな?」
晃に向かって声をかけながら、松枝は晃の様子を見た。
確かに、記憶にある晃の顔より面やつれしているように見える。顔色も、いいとは言えなかった。
「松枝先生、気分は特に悪くありません」
晃は、妙にそっけなく答える。というか、表情が動いていないせいで、そっけなく見えるのだろうと思った。
確かに、以前会った時より、表情に乏しくなっていると感じる。
「そうは言ってもね、顔色もよくないんだ。医者の私から見てね。一度、診察させてほしい」
松枝がそう言うと、晃は無表情のまま押し黙る。