09.危うい日常
パソコンのモニターの中の地図に描かれた、いくつかの丸印が、バツに変わっていた。
もう、丸印はいくつも残っていない。
その中で、地図上に点在するバツや丸の中心地に、二重丸の場所がある。
そここそが、禍神が潜んでいるであろうと思しき場所だ。
ある意味、晃にとっては最終目的地でもある。
そこへ乗り込むほどには、まだ穢れが溜まり切っているわけではない。
だが最近は、本性を現した時に、口の中にも少し違和感を覚えるようになっていた。
変化を起こしているときに、鏡を見たことはないから、自分の姿がどこまで変化しているかはわからない。
自分の目で見てわかるのは、その爪だった。
明らかに、ナイフのように長く伸びた爪。そして肉体を伴う右手にまで及んだ変化。
その姿を見た雅人たちの話によると、眼も朱くなってきているらしい。
どこまで変わっていくかわからないが、最後には人食いの化け物に堕ちる自分に、ふさわしい姿なのではないか。
晃は画像を閉じ、パソコンをシャットダウンして一度伸びをした。
改めて時刻を確認すると、午後八時になろうとするころだ。
立ち上がって部屋の窓を開け、空を見上げる。
雲一つなく晴れた夜空は、いくつかの星が瞬いているのが見えた。もっとも、人里離れた所でもない限り、星などわずかに見えるだけだ。
日中は穏やかだが、夜になると空気が冷えて風が冷たかった。
そして、晃の眼は捉えてしまう。
この建物の周囲を飛び回る、霊体と思しき姿を。
きっちり張られた結界に阻まれ、中に侵入することも出来ずに、むなしく飛び回っているだけの、おそらく禍神が自分を探るために張り付けている偵察用の存在だろう。
晃は右手の人差し指と中指を揃えて伸ばし、ちょうど霊体が通りかかったところで短い気合とともに一閃させる。
途端に、飛び回っていた霊体は、跡形もなく姿を消した。
「……いつまでも飛び回られると、目障りだ……」
つぶやきながら窓を閉めて鍵をかけ、改めて結界にほころびがないことを確認してから、部屋の真ん中に座った。
そして、直径ニ十センチほどの卓上の鏡に手を伸ばして自分の前に置くと、自分の顔が映るように角度を調整し、遼の力を呼び込んで本性を現す。
鏡に映る自分の顔を“視る”と、その眼は明らかに朱みがかっていた。上唇を上げ、歯を剥き出しにしてみる。
明らかにおかしかった。犬歯が尖り、伸びていた。まるで、吸血鬼を思わせるかのように。
そういうことか、と晃は思った。
道理で、口の中に違和感があるわけだ。
朱くなってきている眼も、さらに朱くなり、鬼灯のごとくになっていくのだろう。
神話に残る八岐大蛇の眼が、そういう眼であったとされている。
化け物である自分には、ふさわしいのではないか。
その時、すっと気配が近づいてくる。笹丸だった。
(……晃殿。また少し、異形となってしまっておるか……)
(……笹丸さん、嘆く必要などないですよ。僕としては、別に何とも思っていませんから)
それを聞いた笹丸が、どこかつらそうにうつむく。
(……『何とも思わない』ことが、すでにおかしいのだが……。晃殿、何とか、禍神を封じる方法を見つける故、どうか早まってくれるな)
笹丸の言葉は、一応気に留めておこうとは思う。
他に方法があるのなら、禍神の元に乗り込むのはやめておくという、雅人との約束もあり、また穢れが溜まり切っていないこともあって、笹丸が言うところの“早まる”ということはないとは思う。
(笹丸さん、僕は早まったりはしませんよ。犬死するつもりは、ありませんから)
晃の言葉に、笹丸が微妙な顔になる。
(……その言い方だと……いつか乗り込むことは、前提となっておるようであるな……。それは……)
何かを言いかけ、口をつぐんだ笹丸に対し、晃は特に気にも留めなかった。自分はただ、いつか来る“その時”を待って、行動するのみだ。
(晃、笹丸さんは、本当に一生懸命に封印方法を探してくれているんだ。もう少し感謝してもいいんじゃないか?)
淡々としていることを咎めるように、遼が言葉をかけてくる。
(遼さん、穢れが溜まるのは、止められないんだ。その覚悟を決めているだけだよ)
遼の溜め息が、はっきりと“聞こえる”。
溜め息を吐かれるようなことを、何か言っただろうか。
穢れが溜まることは、自分が化け物により近づいていくことを意味するが、同時に“魂喰らい”の力が増大していくということでもある。
それはコインの裏表のようなもので、晃にとって都合のいいことと悪いことが、同時に起きているということでもあった。
限界ギリギリまで穢れが溜まった時、自分はどのような姿になっているのだろうか。まだ、人としての原形をとどめているのか、本当に人ならざる化け物になり果てるのか、どちらだろうか。
そんなことを考えていると、笹丸が再び声をかけてくる。
(晃殿、未来を諦めてくれるな。たとえ、本当に結ばれることがないとしても、万結花殿はそなたを慕っておる。万結花殿を、悲しませてはいかん)
(……万結花さん……)
万結花のことを言われると、さすがに心が揺れ動く。
禍神の元に乗り込もうと考えたのも、すべては万結花のため。
彼女が、無事に逃げ切れるようにするため。
そうすることでしか、自分は彼女の想いに応えることが出来ない。
ふと、アカネを通じて、自分を案じる言葉をかけてくれた万結花のことを思い出した。
今でも、彼女が好きだ。
しかし、もう手を伸ばしてはいけないのだと、はっきり自覚している。
神に仕える巫女となることが確定している万結花に対し、穢れを溜めたその果てに化け物となることがわかっている自分が、これ以上近づいてはならないのだ。
自分の心の中の想いに厳重に蓋をすると、晃はひとまず普段の姿に戻る。
普段の姿に戻ると、口の中の違和感も消える。本性を現しているときだけ、犬歯が伸びるのだろう。
(晃殿、わざわざ穢れが溜まるようなことを、繰り返すような真似は慎んで欲しい。穢れが溜まっていくのは避けられぬであろうが、だからといって自分からより溜まるようなことを行う必要などないのであるからな)
(わかっていますよ)
晃がそう答えた途端、遼が割り込んだ。
(いいや、お前はわかってない。いや、敢えてわかろうとしていないんだと思う。確かにお前は、穢れが溜まるような行動を、わざわざやっているさ。考えようとしてないだけで)
(そんなつもりはないんだけどな……)
遼に言われるほど、わざわざ穢れが溜まるような行動をとっただろうか。
わからない。
禍神の配下の拠点は確かに潰しているが、そんなに穢れが溜まったとは思わないのだが。
(……ああ、もう……。明日大学に行けば、また休みになるが、所長や小田切さんの目を盗んで拠点である異界を潰しに行くとか、それだけはやめとけよ。それ以外のことだったら、何やったってかまわないからな。とにかくこの件はここまでだ。明日の準備でもしておいた方がいいんじゃないか)
(……遼さん、このところ止められてるから行ってないけど、いつかは全て潰す必要があるんだよ……)
周囲が何故か総出で止めにかかるこの“拠点である異界潰し”は、近いうちにすべてやり尽くさなければならない。禍神の元に乗り込むためにも、相手に丸裸になってもらわなければならないからだ。
それでもまあ、次の週末は行かないでおこうか。
すでに夕食は済ませているので、明日の段取りをつけると、シャワーを浴び、ベッドに入り込む。
時間的にはまだ早いのだが、ベッドでごろごろするうちに、自然に眠ってしまうだろう。
実際、しばらくベッドの中で姿勢を変えながらぼんやりすることしばし、うとうとと意識が途切れ始め、いつの間にか眠りに落ちていた。