08.野望
そのモノは、濃灰色の不定形の体をくねらせながら、のたうっていた。
大きさは、ざっと直径二メートルほどの球体だが、球体の形にまとまるのはほんの一瞬で、形はたちまちに崩れ、もっと細長い形に伸びあがったかと思うと、たちまち扁平につぶれた。
それはまるで、苦しみもがいているように見えた。
実際、そうだったのだろう。
新たに与えられた“体”と、精神がうまく融合していなかったからだ。
『チガウ。チガウ。コンナノ、ワタシジャナイ』
声になっていない声で、そのモノはつぶやいていた。
しかし、その“声”は誰にも聞かれることはなかった。
唯一の例外、創造者である禍神を除いて。
そこは、かつて黒猿が創り出された場所。そして、不定形のモノの前に立つ禍神は、のたうつそのモノをじっと見据えていた。
「……まだ落ち着かぬか。どうやら、相性が悪そうじゃのう。やはり、曲がりなりにもまだ生霊であるモノを、妖どもを混ぜ合わせて作った器に入れたせいか。まあ、もう少し経てば、否応なしに落ち着いてくるじゃろうて」
禍神は、右手を一振りする。するとその手の中に、鈍い光を発する太刀が現れた。
柄の部分が白木で出来ているように見えるその太刀は、刀身が柄に近いところを中心にはっきりと弧を描くように反り、切っ先がやや細く、その分鋭さを増しているように見えた。
禍神は、敢えて太刀を返し、峰打ちの形で不定形のモノに向かって振り下ろした。
音もなく振り下ろされた太刀は、不定形のモノを歪ませるが、打撃になったようには見えない。
「ふむ。やはり、こういった打撃には強いものじゃの。ならば、使えるやもしれん。あとでもう少し、儂の力を込めてやろう」
右手にあった太刀を一瞬のうちに消すと、禍神はひとまず満足そうにうなずいた。
禍神自身の力を注がれれば、下手をすれば体が持たずに崩壊する可能性もあるが、その辺りの加減は大体わかるのだ。
それに、もしそういう事態になったとしても、こやつは所詮初めから捨て駒だった。他に、相性がよさそうなものを見つけ出し、代わりにすればいいだけの話だ。
禍神は、自分の傍らに控える漸鬼、劉鬼、蒐鬼、黒猿に向かって、声をかける。
「お前たちには、アレの世話を頼む。まだ、器との融合が終わっておらぬようじゃからの」
漸鬼が、代表して応える。
「ははっ。落ち着きましたら、お知らせいたします」
それに満足そうにうなずくと、禍神は踵を返す。
屋敷の中の、奥まった一室に入ると、板張りの床の上に置かれた、何色もの鮮やかなヘリに縁どられた 畳の上に、胡坐をかくように無造作に座る。
すると、巫女のような衣装をまとったモノが、朱塗りの盃を乗せた三方を捧げ持ちながら近づき、右手を伸ばしやすい位置で静かに跪いた。
その姿は、直立して歩く狐である。ただ、その毛並みは普通の狐と変わりはなかった。
直後に、やはり同じように巫女の衣装をまとった狐が、朱塗りの急須に見えるものを、やはり捧げ持ってやってくる。急須のようなものは、注ぎ口がすっと長く、本体が角ばった箱のような印象が残る形だ。
急須を持った狐も、盃を持つ狐の隣に跪く。
禍神が手を伸ばし、三方の上の杯を取ると、急須からかすかに色味を帯びたような、少しとろみのある液体が注がれる。
盃が満たされたところで、それを一気にあおった。
「虚影様、お気に召しましたでしょうか」
盃を捧げていた狐が、涼やかな女の声で話す。
「うむ、こういう酒も久しぶりじゃの。今どきの酒は、口に合わぬ。よくぞ見つけ出したものじゃ」
「狐同士のつてを使って、手に入れました古酒にございます」
それを聞き、虚影は再び満足そうにうなずく。
「そうか、古酒か。でなければ、このような味は出せぬということじゃな」
配下のモノが、どうやってこれを入手したのかなど、考える必要もない。ただ、捧げられたものを口にするのみだ。
それが、神というものだからである。
それにしても、忌々しい。
あの『生ける死者』のせいで、配下のモノが減らされた。
結界を強化して、配下の損失を防ごうとしたが、あれはそれさえも破り、いくつもの拠点が根こそぎ潰されたのだ。
それにしても、あの女がもう少し使えると思ったが、見込み違いだった。
確かに、人でなくては封印を解けないところもあったので、その点は役立ったと思っているが、あの女は己の欲望が強すぎた。
それに固執しすぎて、意外と早くつぶれてしまった。
虚影が盃を差し出すと、狐の巫女が酒を注ぐ。
「……部不相応な望みを抱くからじゃ。もっとも、儂は一度も……」
虚影は歪んだ笑みを浮かべながら、盃の酒を飲む。
いろいろ、想定外なことは起こっている。それでも、こうして拠点を構えることが出来たことは、僥倖だった。
ただし、人柱によって強化した結界であっても、神々の力なら容易に破られてしまうだろう。
まだ、近隣の神々に、居場所を知られるわけにはいかない。こちらの体制が、そこまで整っていない。
一柱だけを相手にするのなら、何とかなる。だが、幾柱の神々が、共同戦線を張って、自分をどうにかしようとしてくるだろう。
そうなっては、こちらとしてもさすがに手に余るのだ。
早く、“贄の巫女”を手に入れなければ、面倒な事態になりかねない。
だが、そうなるとあの化け物をどうにかしなければいけなくなる。
自分以外の誰が出て行っても、化け物の力の前にはすべてを喰らい尽くされ、消滅してしまうだろう。
人の理からはみ出したあの化け物を、どうしてくれようか。
今回作ったアレも、一時しのぎにしかならないであろうことはわかり切っていたが、元が元だけに、戸惑いや躊躇いを引き起こしてくれるようなら、御の字だ。
虚影が、またも盃を差し出す。再び狐の巫女が酒を注ぎ、かしこまる。
三方を持ったままかしこまっていた狐の巫女が、そっと口を開いた。
「虚影様、一度に飲み過ぎましてはお体に障ります。ほどほどにしてくださいませ」
虚影は、一瞬その狐のほうをじろりと見たが、構わずに杯を開けた。
「案ずるな。それほどやわには出来てはおらぬ」
「差し出がましいことを申しました」
狐の巫女は、申し訳なさそうに頭を下げた。
「よい。儂はそこまで狭量ではない」
その言葉に、狐は安堵したように肩に力を抜いたのがわかった。
それからしばらく、何度か盃を重ね、程よくよい心地になったところで、盃とともに二体を下げさせた。
あれから、それなりの時間が経ったが、アレはまだ落ち着かないようだ。
しばらくかかるかもしれない。
多少なりとも、あの化け物に抗するなら、自分の力を注いで強化する必要がある。
急ぐものでもない。落ち着いたところで、次の段階へと進めばいい。
そこでつぶれたなら、そこまでだったと思うだけだ。
仮にも、自分の依り代を務めていた者。
曲がりなりにも自分の力の一部を取り込んでいた存在なのだ。
ならば、後から自分の力を注ぎこんだところで、特に問題が起こるとは思えない。化け物を牽制するなら、やはり化け物を持ってするべきなのだ。
もっとも、あの魂がそれをすんなり受け入れるかどうかは、わからないのだが。
「受け入れようと入れまいと、このままではどちらにしろ力不足じゃ。儂の力を注ぎこみ、より強力な個体となってもらわねば、牽制すら出来ぬのじゃからの」
虚影は改めて、あの化け物の姿を思い返した。
見た目は驚くほど整った顔立ちの、女子かと思うほど線の細い、しかし紛う事なき若い男。
すでに、人の姿を逸脱し始めている、『生ける死者』。
なまじ顔立ちが整っているだけに、逆に表情をなくすと人形のように見え、不気味さが増す、生と死の狭間にいる存在。
自分の配下のモノたちを、次々喰らい尽くして消滅させていく化け物。
虚影は、苦虫を噛み潰したような顔になった。
「……必ず、“贄の巫女”は手に入れさせてもらうぞ、化け物が……」