07.哀切
それでも今は、こうして何かあった時には、晃に頼るしかないのだ。他に、取れる方法がないのだ。
「……あたしたち、晃さんの犠牲の上に、こうやって暮らしてるのね……」
ぽつりとつぶやくと、雅人が肩に手をやった。
「……万結花、それを言うな。そりゃ否定はしないさ。でも、あいつ自身が、その道を突き進んでいくんだ。誰も止められない。止められないんだよ……」
雅人の声は、さらにつらそうに、苦しそうに聞こえた。
兄もまた、どうしようもない現実に、苦しんでいるのだろう。
困惑することしか出来ない万結花の元に、アカネの気配がやってきた。もう、普通の猫の大きさの気配になっている。
(……あるじ様、『その人を護れ』って言った。だからわたい、ここにいる。あなたのこと、護る)
アカネが、どこか張りつめた様な雰囲気で、そう告げる。
変化していく晃に心を残しながら、ここにとどまり続けることを晃に命じられたアカネ。
張り詰めたものを感じるのは、アカネの心の葛藤ゆえだろうか。
万結花はそっと手を伸ばし、アカネを抱き上げた。
「……ごめんなさいね。本当なら、大好きなあるじ様と、いつも一緒にいられたのにね……」
自分のせいだ、と万結花は思う。
自分が、“贄の巫女”だから。
その宿命から、逃れるすべはない。
それでも、『禍神には従ってはいけない』と晃は言い続けている。
『禍神に仕えたら、生贄として力を搾り取られて殺されるだけだ』と。
そして、禍神が神としての真の力を取り戻してしまい、手の付けられない存在となってしまうと。
だから自分に出来ることは、自分の意思をしっかり持って、禍神の脅しや誘惑に心を乱さないことだ。
わかってはいる。わかってはいるのだが、それでも、晃のことを考えると、心苦しくてたまらない。
自分のことを想うがゆえに、堕ちていく晃のことが、案じられてならない。
今の自分の、一番の心の隙は、他ならぬ晃の存在かも知れない。
万結花は、何とか晃に会いたいと思った。
もう一度会って、話をしたい。前に会った時は、うまく話が出来ず、それが心残りとなっていた。
もっと、いろいろなことを話したい。
自分は、晃のことをどれだけ知っているというのか。
将来弁護士になりたいから、法科大学院へ進学するカリキュラムを受けているとは聞いた。
でも、今はどうなのだろうか。
今でも、弁護士になるという気持ちは持ち続けているのだろうか。
そして、彼自身のことはどうなのだろうか。
万結花は、いまだに近くにいる兄の雅人に、声をかけた。
「兄さん、また晃さんに会いたい。もう一度、じっくり話をしたい。何とか、話を持ち掛けられないかな」
「……お前がそう思うなら、話だけはしてくるけど……。大学で、昼休みに会えないことはないからな。けどなぁ……」
雅人が言葉を濁す。
雰囲気からすると、兄は晃が話に乗るとは思っていないようだった。
やはり、何かあるのだろう。
目が不自由な自分は、耳と体感で覚えた道筋以外の道をたどることは、容易ではない。
思い立ったからと言って、おいそれとは会いに行くことは出来ないのだ。
「あたし、晃さんが心配なの。なんだか、どんどんあたしから離れていくようで……」
「……」
しばらく、妙に重苦しい沈黙があった。
この沈黙の意味を、万結花が考えていると、不意に雅人が頭をポンポンと軽く叩いた。
「とにかく、細かいことは明日以降にしようや。今日は、早く寝ろ」
そう言うと、雅人はドアを開け、部屋を出て行った。
兄のその態度に、きっと詳しい事情は話したくなかったのだ、と思う。
そう考えると、ますます晃のことが気になってくる。
結界の様子を見に来たときは、普通に話をしたと思ったが、今にして思うと、どこか以前の晃と比べて違和感があるように感じた。
それが何なのか、よくわからない。
ただ、それを放置してはいけない気がする。
放置していたら、何か良くないことが起こりそうな気がする。
兄は早く寝ろと言ったが、心の中で、何かが渦を巻いているような気がする。早めにベッドに横になったとしても、とても眠れる気がしなかった。
またも、晃がどこか遠くへ行こうとしているような、そんな気持ちが襲ってくる。
切なくて、悲しくて、それでもどうしたらいいのか、わからない。
何とか、もう一度直に二人だけで話したい。
晃の本当の胸の内を聞いてみたい。
やがて、家の外にぼんやりとだが、妙な気配がいくつも現れたと感じた。
また、様々な霊や妖たちが、結界の外に集まってきたのだろう。この状況だけは、ずっと変わらない。
今、居間に行ったら、気配が集まっていることだろう。
自分は気配を感じるしかないから、このくらいなら恐ろしいとはあまり感じないが、実際に目に見えたなら、きっと恐ろしいに違いない。
それでも、結界が無事である限り、悪しきものは家の中に入っては来られない。
今も自分と家族は、晃の手で護られている。
家の結界だけではない。今や家族全員が、晃の作ったお守りを手にしている。
悪しきものを寄せ付けず、力を及ぼせなくなるお守りだった。
自分はまた、“贄の巫女”であるという気配も、ある程度誤魔化せるようなものも受け取っている。
それだけのことをしてくれた晃が、自分の命を燃やし尽くすかのように、禍神の配下と直接戦い、人ではないモノに堕ちていこうとしているらしい。
止めなければ、と思う。
もし、晃が自分の前から姿を消してしまったら……
そう思ったとき、心の奥底から、激しい感情が湧き上がる。
『嫌だ!!』
たとえ自分が神に仕えることになり、人と結ばれることがなくなったとしても、晃には自分の側にいて欲しい。
そういう願いは、浅ましいとはわかっていた。
そのようなことをしたら、晃の将来を台無しにしてしまう。それこそ、恋人さえ作るなというに等しいのだから。
それでも、そんなことを願ってしまう自分は、どこまで浅ましいのだろうか。
手を離さなければ、と思うのに、離したくないと叫ぶ自分がいる。
けれど、そんな想いさえ届かぬほどに、晃は自ら堕ちていこうとしている。
自分には、何も言わずに……
外ではより一層、弱いが禍々しい気配が数多く渦巻いているのがわかる。
それでも結界はびくともしていない。
結界を破りそうな妖を、晃が退けてくれたから。晃が、護ってくれたから。
気が付くと、アカネがすぐそばに来ていた。気配を頼りにアカネを抱き上げると、改めてベッドに腰かけて、アカネを膝の上に乗せる。
「アカネ、晃さんはちゃんと自分の体に戻れた? ちゃんと休めてる?」
アカネの背を撫でながら、静かに問いかける。
(……あるじ様、ちゃんと戻った。今は、休んでる)
晃と繋がっているアカネがそういうのなら、きっとそうなのだろう。
識神のアカネが、この件に関して自分に対して嘘を吐く理由はないはずだった。
今のアカネは、本物の猫のように感じる。もふもふとした毛並みの手触りも感じられるし、顎を撫でてやると、ごろごろと喉を鳴らす音も聞こえる。
それでも、体温はほとんど感じないし、呼吸する気配も、鼓動も感じない。完全に実体化すれば、また違うのだろうが、やはり化け猫なのだと思う。
他の妖はどうだか知らないが、アカネはあるじである晃のことを、心の底から慕っている。識神となったのも、あの事件で晃の行方をはっきり感じ取れなかった後悔からだと聞いた。
アカネを通してなら、晃に自分の今の気持ちを伝えられるかもしれない。
「アカネ、晃さんに伝えて。『いなくならないで。ずっと側にいて』って……」
アカネが、うなずいた気配がした。
しばらく沈黙があったが、やがてアカネの念話が聞こえてきた。
(あるじ様、こう言ってた。『嬉しいけど、いつまでいられるかはわからない』って……)
やはり、そうなのか。
晃さん、消えていかないで。お願いだから……
万結花の心は、締め付けられるように痛んだ。