12.二人だけの戦い
傍らの長椅子に横たわる晃は、美しき幽鬼のようだった。そのままふと消え去ってしまいそうな、実体が危ういような感じにさえ見えた。
「……晃くん、ごめんなさい。わたしたちがふがいないばっかりに、あなたに負担をかけてしまった」
「もう仕方がないことだ。あとは我々が、全力を尽くすしかない」
結城が、立ち尽くす和海の肩に手を置いた。
「今度は、我々が早見くんを護るんだ。いいな」
和海が、決意を秘めた瞳でうなずいた。
「今まで、早見くんの能力の高さにどこかで甘えてしまった。それが結局、こういう事態を引き起こすことになったんだ。その責任は、自分で取らなければならん」
結城が、いつになく真剣な顔でつぶやいた。
二人は、周囲を見回すと、晃の結界を補強するように、じっくりと念を込める。そして和海は、以前セールで売っていたものをまとめ買いした六本入りアロマキャンドルを、戸棚の奥から引っ張り出した。太くて短く、香料を初めから練りこんであるタイプだ。
「前に、お昼ご飯を買いに行ったとき、その近くの店で閉店セールやっていて、何の気なしに買って、持って帰るのを忘れていたものよ。これ、使います」
和海は、今度はビニール紐を出してくると、二メートル余りの長さに切り、結城と協力して長椅子を中心に正六角形を描き出すと、それぞれの頂点にろうそくを置き、周辺の燃えやすいものを片付けてありあわせの皿の上に乗せ、念を込めながら火をつけた。アロマキャンドルから漂う甘い香りが、部屋中に広がる。
「出来れば、清めのお香か何かを焚ければいいんだけれど」
「この際、贅沢は言えん。結界として、機能すればいい。なんとしてでも、夜明けを無事に迎えるぞ」
二人は、ろうそくの輪の中に入り、長椅子の周囲に陣取った。
「今夜は即席にしか出来んが、朝になったら徹底的に結界を強化しよう。本職を頼んでもいい。少なくとも、今回の一件が調査終了するまで、なんとしても乗り切るんだ」
結城のその言葉が終わらないうちに、二人の神経に悪寒にも似たものが走る。二人は、長椅子に横たわったままの晃を護るように立ち、周囲に視線をめぐらせた。
窓の外から、室内に施された結界を通してさえも感じる、全身が総毛立つようなおぞましい圧迫感。二人は顔をこわばらせながらも、視線は逸らさなかった。
不意に、ろうそくの炎があり得ないほどの高さに燃え上がった。ざっと見て、二十センチを超えていただろう。それでも、結城も和海も、心を静めて動揺を抑えきった。
窓の外が、先程と同じように、赤々と燃え上がる。カーテンを通して、朱赤の炎が渦を巻いているのが“視え”た。その炎の中に、どす黒い気が纏わりついた真っ黒の人影が、無数にうごめいている。
そのとき、うごめいている人影の中にただひとり、黒くない人影が“視え”た。防空頭巾の少女だった。その二つが一緒に“視えた”とき、結城はあることに思い至った。
「……そうか。空襲だ。みんな空襲の犠牲者たちだ」
これは、太平洋戦争末期の空襲の犠牲者たちの姿だと直感したのだ。
「……それで、それで防空頭巾だったんですね」
かすれ声で、和海が応える。と、防空頭巾の少女が、結城に向かって手を伸ばし、“呼びかけ”た。
(お父ちゃん、会いたかったよ)
刹那、結城は何故少女が持田裕恵を“姉”と呼んだのか、その理由がわかった気がした。
「違う。私は君の父親なんかじゃない。見てわからんか」
結城が、必死の思いで少女に告げる。だが、少女は悲しそうに叫んだ。
(お父ちゃん、あたしを忘れちゃったの。ずっと探してたのに)
「違うんだ。私はお父さんなんかじゃないぞ」
(お父ちゃん、お姉ちゃんもやっと見つけたんだよ。一緒に帰ろう)
それを“聞いた”結城も和海も、少女の言う『お姉ちゃん』が持田裕恵だと悟った。
しかし、一度こうだと思い込んでしまった霊を説得するのは、容易ではない。
父親を慕う少女の思いは、背後の焼死者たちの無念の思いと入り混じり、窓の結界を激しく揺さぶった。
それにつれて、風もないのにろうそくの炎が渦を巻くように揺らぐ。二人は一心に念を凝らし、霊たちが去ってくれることをひたすら祈った。
結界を破ろうとする力が強まるたびに、二人が力を合わせて念の力で押し返すということが、幾度となく繰り返される。
どれほどの時間が経ったのか、二人にはわからなかった。いつしか霊たちの気配が遠ざかり、あたりが静かになったときには、二人とも疲れて、長椅子に寄りかかるようにして、うたた寝をしていた。
そして、はっと気づいて体を起こしたとき、すでにろうそくは燃え尽き、カーテンの隙間から明るい光が漏れている。
「よかった。夜が明けているんだわ」
「何とか、持ちこたえたな」
二人がどうにか立ち上がって、まず和海が玄関へのドアに手を伸ばしたとき、背後から警告の声がした。
「ドアを開けてはいけない。まだ夜は明けていません」
その声に硬直したように手を止め、振り返った和海は、晃が半身を起こして背もたれにつかまりながら、自分たちのほうを見ているのに気づいた。晃は再び言った。
「時計を確認してください。夜は明けていません」
結城と和海は顔を見合わせ、結城が腕時計で、和海はスマホで、それぞれ時刻を確認した。まだ四時をわずかに回った頃だった。
ぎょっとして窓のほうを見ると、カーテンの向こうは真っ暗で、夜明けにはまだ遠い。
「……今のは、一体……」
結城が茫然と尋ねると、晃は答える。
「あれは、霊たちが見せたまやかしの夜明け……いわば幻です。そうして夜明けだと思わせて、結界の外に出てくるのを待ち構えていたんです。あともう少しで、本当の夜明けです。それまで、待ちましょう」
二人はうなずき、晃の元に戻った。
「光が見えたんで、完全に油断したな。本当に、君には助けられてばかりだ。すまない、早見くん」
「いえ、僕のほうこそ、『朝帰りだ』と息巻いていながら、こんな体たらくになってしまって、情けないですよ」
そういう晃の顔色は、まだ悪い。けれど晃は、疲労の色が濃い二人のことを心配した。
「一晩戦って、疲れたでしょう。僕はその間、のんきに寝ていたんだから、だめですよね……」
「そんなことはないわよ。だって、晃くんは寝ていたんじゃないでしょう!? 力を使い果たして気を失っていたんじゃないの。ふがいないのは、そこまであなたにさせてしまったわたしたちのほうよ」
そこまで一気にまくし立てるような勢いで答えると、和海は疲労と安堵でその場に座り込んだ。結城もまた、長椅子の背もたれに背面から寄りかかり、疲労の溜め息をついた。
三人はそのまましばらく、じっと動けなかった。何とか動く気になったのは、本当の朝の光がカーテンの隙間から差し込んできてからだった。