02.仮初の日々
街を薄紅色に染めていた桜吹雪は、もうすっかり片付けられていた。
新たな年度が始まり、ある者は新たな暮らしを始め、ある者はそれまでと変わらない暮らしを続けた。
そして晃は、かろうじて今まで通りの生活を続けていた。
一度だけ、周囲の目を盗んで禍神の配下の妖どもが棲む場所を潰してきたが、帰ってきたときに気づかれ、和海や結城に懇願されて、それ以降は行ってはいない。
左手の爪が、少し伸びたような気がしたが、自分ではもう、よくわからなくなってきていた。
大学へ行くのも、もはや惰性に近い。
いつものルーティンを崩すと、それだけで自分がおかしくなりそうだから、授業を受けているだけだ。
自分は三年生となった。
普通の学生は、夏ごろから就活がスタートし始める。インターンの申し込みをしたり、卒業してすでに就職している先輩から、話を聞いたりすることが出てくるのだ。
自分たちは、法科大学院へ進学するコースをはじめから選択しているため、そういうことはしないが。
ただ、自分は法科大学院へは、通うことは出来ないと思っている。
時間が足りなすぎる。
下手をすれば、人として生きられるのはあと数か月かも知れないのだ。
予備試験を受けたとしても、間に合わないだろう。
いつその時がやってくるか、まだ予想がつかないが、一年は持たないだろうと思う。
来年の桜は、きっと人としては見ることなど出来ない。
そう思うと、つい先日まで咲き誇っていた桜が、何故か遠い日の出来事のようにも思える。
そして今、大学から帰ってきたところで、ひとまず二階の自分の部屋の床に、腰を下ろしていた。明日、また週末の休みとなる。
今度は、禍神配下の拠点を潰しに行こうか、と考えて、また察知されて止められるかもしれない、と思い、溜め息を吐いた。
なぜ、そこまで自分にかまうのだろうか。
どうせ化け物に堕ちるのに。人を喰らって、暴れまわるような存在になり果てるだろうに。どうして……?
(……誰もみんな、お前のことを案じているからだ。人食いの化け物になんか堕ちて欲しくない、と思っているからだよ)
遼の声がする。
(……遼さん、他の人がどう思うと、僕がいつか化け物に堕ちるのは、決まっていることなんだ。だから、そうなってもいいように、一人で動いてるんだし、いざという時のために霊具を渡してあるんだし)
(みんなが心配するのは、そういうところなんだがな……)
遼が、溜め息を吐く。
遼の言葉を聞き流しながら、晃はワンショルダーの中から教科書や参考書などを取り出して本棚にしてあるカラーボックスに納めると、バッグそのものもカラーボックスに取り付けてあるフックに下げると、一階に降りていく。
探偵事務所として使っている部屋に入ると、結城と和海のほかに、村上琢己や高橋栄美子までもが、それぞれのパソコンの前に座っていた。
どうやら二人とも、報告書を作っている最中らしい。
この二人が顔を合わせることはあまりないので、珍しいと思いつつ、晃もまた中に入って挨拶をすると、自分の席に座った。
晃がやることは、基本的にはデータの打ち込みなど、時間と手間がかかるところだ。
ただ、コツさえつかめれば、誰でも出来る作業でもある。
晃は、改めて事務所の様子を見た。自分がいなくても、事務所は問題なく回っていく。
確かに、面倒な打ち込み作業の人出が減るので、その分時間はかかるかもしれない。でも、だからといって困り果てるようなことはないだろう。
だから、自分がいなくなったとしても、探偵事務所は大丈夫だ。
心霊関係で何かあっても、法引がいる。あの人なら、きっと何とかなるだろう。
自分が、禍神の影響力をそぎ落としさえすれば、収まるところに収まるに違いない。
そのうち、栄美子がふと立ち上がると、隅に置いてある複合機のところへ行った。
同時に複合機が動き出し、何かをプリントアウトしていく。
複合機が吐き出した紙をまとめて束ね、きちんと端を揃えると、自分のデスクのところへ戻り、ホチキスで二ヶ所ほど止め、それを結城のところへと持っていく。
結城はそれを確認し、どうやらOKを出したようだ。
「お疲れさま。これで、この件は完全に完了だな」
「ええ、クライアントの方からも、調査結果には満足したというお返事をいただきましたから。これで一息つけますよ」
そこへ、今度は村上が口を開いた。
「すいません所長、クライアントに提出する報告書が出来たんですけど、目を通してもらえますか? 直接そっちへ送っときましたんで」
今、事務所のパソコンは、所長の結城と和海、所員の二人が使うパソコンが、有線LANで繋がっている。
もっとも、栄美子は紙で報告書を出す派なので、あまり使っていないが。
晃の使っているパソコンは、ネットに常時接続されているため、ある意味スタンドアローンであった。顧客情報や調査途中のファイルなどは、HDDに一切入っていない。
そして、このパソコンが無線LANで晃の私物のパソコンにつながっていた。
晃の作業は、一般的な会社でも行われている、純粋な事務作業だった。
他のパソコンは、有線のケーブルを繋いで初めて、ネットに接続する形をとっており、顧客情報など、 ネットに流出してはいけない情報は、まとめて外付けHDDやUSBメモリーに保存され、ネットに接続するときには、それらを外して接続することになっていた。
物理的に切り離してしまえば、流出の危険は皆無とは言わないものの、相当に低くなるからだ。
もちろん、データの入った媒体は持ち出し厳禁で、最後に結城か和海が鍵のかかる引き出しにしまったことを確認して、機密データを扱う作業は終了となる。
万が一、悪質なウィルスに感染しても、最悪初期化して吹っ飛ばす強硬手段も取れるように、いろいろ工夫した。
もっとも、こう言った措置を取るようになったのは、晃が事務所に顔を出すようになってからだが。
一度、悪霊に事務所を滅茶苦茶にされてしまったとき、改めてセッティングをし直した時に、セキュリティのことも考えようということになったのだ。
そして、今の体制に落ち着いた。
村上から送られた報告書のデータを結城が確認し、多少の修正箇所を指摘して送り返す。
そんなやり取りを横目で見ながら、晃はふと感慨にふける。
この光景は、自分が顔を出す前からあった。そして、自分がいなくなっても続いていくだろう。
だから……自分など、居なくなっても……
(……晃、確かに見た目はそうかもしれんが、お前がいなくなれば、皆心に傷を残すことになる。それだけは、忘れるなよ。少なくとも、みんなお前をなんとかしようと、邪神の封印法とか、必死で探しているんだから)
(……確かに、まだほかに取れる方法があるなら、少し様子を見ることにはしてるけど……封印の方法なんて、そう簡単に見つかるとは思えない。封印を行うために、大きな代償を払うことになるような方法なら、見つかっても実際には出来ないだろう。それなら、僕は僕でやれることをやるだけだ。それだけだよ、遼さん……)
ひと時、遼との会話に意識を取られたが、晃は再び打ち込み作業を開始した。
無心になって、書類と画面を突き合わせて間違いがないように打ち込みを続けることしばし、ふと気づくと村上と栄美子は帰宅したらしく、結城と和海しか残っていなかった。
「晃くん、少し休憩したら。根を詰め過ぎると、体に悪いわよ」
和海はそう言って立ち上がると、キッチンにつながるドアを開け、いったん部屋を出ると、しばらくして紅茶と数枚のクッキーを乗せた菓子皿を乗せたお盆を持って、晃のところにそれを置いた。
紅茶のカップには、シュガースティックと小さなカップに入ったミルクが添えられていた。
「コーヒーにしようかと思ったけど、ちょうどもらったティーバッグがあったので、それで淹れてみたの。ちょっと一服しましょうよ」
微笑みながら紅茶を勧める和海に、晃は軽く息を吐くと、無言でうなずいた。
別に休憩したかったわけではないが、今は一息入れたほうがいいと、なんとなく思ったのだ。
和海はというと、結城や自分のところには、ペットボトルのお茶をトントンと置いた。
「……差がついているんじゃないか? 私にはペットボトルか……」
結城が、目の前に置かれたペットボトルに苦笑する。
「だって、晃くんは私たちが帰った後でも、仕事してくれているときがあるんでしょう? だったら、サービスしてあげてもいいんじゃないかって思って」
そう言っていたずらっぽく笑う和海に、結城はますます苦笑する。