27.看破
「……もう一度聞く。これはなんだ?」
雅人は、怒りとも戸惑いともつかない複雑な感情を何とか表情に出さないように努めながら、晃の反応を待った。
晃はと言うと、一切表情を崩すことなく、冷徹にも感じられるほど落ち着いた声で、それに答える。
「さっきも言った通りのものだ。僕は、いつ人食いの化け物に堕ちるかわからない。でも、万が一にもお前を喰い殺したくないんだ。だから、いざという時にお前が身を守れるように、これを作った」
晃は、空恐ろしいことを一切感情の揺らぎを見せずに、話し続ける。
「これを、僕に向けて念じれば、中に込められた力が放出される。そうすれば、僕の“左腕”であっても止められるだろう。そして、割りばし自体を僕の体に当てれば、一気に魂が削られて致命傷となるはずだ。そうすれば、後は遼さんが最後の始末をつけてくれるさ」
晃は、テーブルの上に置いた割りばしを、雅人のほうに押し出した。
雅人は、躊躇った。
正直、これを受け取ったら、晃を殺すための要員になってしまうような気がしたのだ。
自分は、そんなつもりで『最後まで隣に立つ』と言ったわけではない。
だが、受け取らなければ、晃の隣に立つことは、叶わないに違いない。晃自身が、自分の覚悟を試しているような気がした。
「……わかった。出来れば、使いたくないけどな……」
雅人は、いったん席を立つと、カウンター近くに置かれているペーパーナプキンを取ってくると、席に戻って割りばしをナプキンに包み、バッグの中にしまった。
それを確認すると、晃はやり取りしていたせいで少し冷めてしまっただろう抹茶ラテを口にする。
雅人もまた、少しぬるくなったエスプレッソを口にした。
晃の表情は、驚くほど落ち着いていた。先程の言葉が、嘘のように。
しかし、本当に平然としているわけではないのは、膝の上のアカネの反応を見ているとおぼろげにわかる。
アカネは、先程から甘えかかるのをやめ、どこか心配そうに晃を見上げている。
きっと、何でもないように見せているのだ。すでに覚悟は決まっているのだと。
だが、自分が近い将来に人ではなくなる。化け物になって人を襲うかもしれない。
そんな未来が見えていて、本当に平然としていられる者がどれだけいるだろうか。まして晃は、自分と同い年なのだ。
覚悟が決まったというより、諦めたのだろう。
明日の希望を、考えなくなったのだ。希望を失った人間がどうなるか、想像も出来ない。
いつぞや、神社めぐりに行ったその先で襲われ、相手を撃退した後で“視て”しまった異形の姿が、再度脳裏に浮かぶ。
あの時も思ったが、今、その思いが強くなった。
晃は、自分の未来を諦めた。諦めたから、運命から逃れようとあがくのをやめたのだ。それ故の『平然として見える態度』なのだと。
しばらく、どちらも口を開かず、ただ飲み物を飲んでいた。
それぞれの飲み物がほとんどからになる頃、雅人が口を開く。
「……なあ、早見。これからも、今まで通り万結花のために神社巡りとか、するのか?」
「……そうしていられれば、いいんだけどね……」
晃はそう言って、わずかに目を伏せる。
それを聞いて、雅人は思った。
もしかしたら、晃はとんでもないことをしようとしているのではないか。
すでに異形となるほどの穢れを溜めているということは、“魂喰らい”を相当使ったということだ。
穢れが溜まるとわかっていて、敢えて使うということは、自暴自棄になっているのではないか。
そこまでいかなくても、それに近いことになっているのではないか。
だとしたら、最終的に何を考えるのか。
雅人は不意に、ぞっとする結論を思い付いた。
まさか、敵に向かって特攻するつもりじゃないのか!?
否定したいが、否定出来る材料がない。
「……早見、まさかとは思うんだが、お前敵の本拠地に向かって特攻するつもりじゃないだろうな?」
思わず問いかけた雅人に、晃は無表情になる。今までは、それでも多少は感情の動きが感じられたものが、今は一切感じられない。
晃は、無表情のままただじっと雅人を見つめている。それで雅人は、自分の推察が正しいのだと悟った。
「……早見、死ぬなよ。どんなことがあっても、命を粗末にするな。万結花が、どれだけショックを受けるか……」
雅人の言葉に、晃はわずかに顔を歪めた。
気が付くと、晃は右手で胸元の何かを服の上から掴んでいた。雅人は何だとしばらく凝視していたが、微かに感じた気配になるほどと納得した。
いつぞや万結花が、お守りにするのだと縁日の出店で見つけた翡翠に念を込めていた。あれはきっと、万結花が贈ったお守りを握り締めているのだろう。
「……万結花さんのことを持ち出すのは、卑怯だろ……」
かすれたような晃の声が聞こえる。
「卑怯なもんか。おれは、本当のことを言ってるだけだ」
雅人は改めて、もう一度晃の顔を見た。
先程までの無表情の鉄面皮ではない、動揺と苦悩が透けて見えるような、微妙な表情を浮かべている。
やはり、万結花のことだけは特別なのだろう。すべては、万結花を想うが故か。
「……万結花さんは、神の嫁となるべく生まれた存在だ。彼女が仕え、嫁ぐと決める相手を見つけるまで護るのが、僕の役目だ。でも……」
晃が一旦言葉を濁し、うつむいてさらにぼそりと続けた。
「……今の僕では、最後まで護り通すことは難しくなってしまった。だから、せめて時間を稼ぐことが出来ればと……」
「それで特攻しようっていうのか。万結花だって、お前のこと、慕ってるんだぞ。自分が想う相手がその命を散らせてしまったら、その心の傷はどれだけのものになるか、わからないか?」
畳みかけるように、雅人が問いかけた。
晃は、うつむいたまま、さらに固くお守りを握り締めている。
「……とにかく、さっき渡されたものは、預かっておく。でも、これを使う時が来ることがないように祈るよ。もう一度言う。おれは、お前に対しては、使いたくない……」
雅人は、大きく溜め息を吐くと、なだめるように静かに話しかけた。
「……なあ、早見。もう少し、周りの人に頼ってもいいんじゃないか? おれじゃさすがにどうしようもないけど、探偵事務所の人だって、西崎さんだっけ、あのお坊さんだって、何とかしようと動いてるって聞いた。確かに、直接戦えるのはお前だけかもしれんけど、直接じゃなくても戦おうとしてる人たちはいるんだってこと、忘れるなよ……」
何とか、思いとどまってほしいと思った。お前がいなくなったら、泣く人間がいるんだぞ。お前のことが好きな万結花はもちろん、舞花だって、おれの両親だって、もちろんおれだって、何よりおまえ自身の両親が泣くだろうに。
晃はうつむいたまま、右手で胸元を抑えるかのように固く握りしめ、じっと動かない。
頼むから、届いてくれ。
雅人は必死に願った。
少しでも届いて、とんでもないことを思いとどまってくれるなら……
「……それはわかってる……。だけど……僕が前に立たなければ、下手をすると犠牲者が出かねない……」
苦しそうにそう絞り出した晃の顔は、苦悩に歪んでいた。
そうだ、こいつと他の人たちの間では、相当の実力差があったのだ。だからこそ今まで、こいつが一人で、命がけで戦っていたのだ。
他の人が探っているのは、例の邪神と直接戦う方法ではなく、封じる方法だと聞いた。
万結花が仕える神を定めるまでの間、邪神を封じられれば、何とか最悪の事態は避けられるはずだから。
先に仕える神を定めてしまえば、巫女の意志が優先されるため、いくら邪神が騒ごうと、どうすることも出来ないということになるのだ。
ほんの十年ほどであっても、相手を封じられるなら、晃が命を張る必要はなくなるのだ。
邪神が手出し出来ない状況になれば、その間に、すっかりおかしくなってしまっている晃が、自分を癒すことが出来るはずだ。
「……早見、もう少し、周囲の人を信じてやれよ。お前ひとりで、ボロボロになるまで頑張る必要はないんだ。命をすり減らす必要はないんだ……」
雅人はもう一度、ゆっくり言い聞かせるように、そう告げた。
晃は、まだ押し黙ったままだ。
すると、膝の上のアカネが体を伸ばし、服の上から胸元のものを握り締めている手に前脚で触れ、霊感があるものにしか聞こえない声で、不安げに『にゃーん』と鳴いた。
「……」
その時、晃とアカネの中で、どういう会話が行われたのか、雅人は知らない。念話に割り込む力などないからだ。
それでも、晃の表情からわずかに険が取れた。
晃の手が胸元から離れ、アカネの体を優しく撫でる。アカネも、体を摺り寄せ、甘えるしぐさを見せている。
「……少し、考えてみる。一応、まだもう少し時間はあるはずだから……」
つぶやくようにそう言った晃の言葉に、雅人は内心多少胸をなでおろした。
それでも、“考えてみる”と言っただけだ。もう少し時間があるということは、裏を返せばそう長い時間は持たないということだろう。
晃が、将来を考えていない状態なのは、まだ変わらない。
それでも、少しだけ動かせたような気がする。少なくとも、自分に割りばしの霊具を渡した時よりは、感情が戻っている気がするのだ。
「……早見、お前の周りにいる人は、みんなお前を心配してるし、これからもお前とともに歩いていきたいと思ってる人ばかりなんだぞ。おれだってそうだ。それを、絶対忘れんじゃないぞ」
もう一度念を押すように、晃の目をじっと見ながら雅人が告げる。
晃は、目を逸らさなかった。
晃もまた、雅人の目をじっと見つめた。
しばらく、にらみ合うかのようにじっと互いを見つめていた二人だったが、先に根負けしたように視線を外したのは、晃のほうだった。
「……わかったよ。他に方法がある限り、そちらの方を優先する……」
晃のその言葉を聞いて、雅人はやっと言質らしきものが取れたと思った。ただ穢れが溜まるままに、突き進んで特攻するのは、どうやら考え直してくれそうだ。
雅人は、なんとか自分の役目が果たせたような気がした。