14.殲滅
三月半ば、すでに街中は桜のつぼみが膨らみ始めているころだが、この山はまだ春の気配はあまり感じられなかった。
それでも、正午に近い日差しはすでに春を思わせるもので、日向はぬくもりが感じられる。
冬枯れで空が見える森の中を、空気の中に間違いなく紛れている瘴気の気配を辿るようにして、晃は歩いていた。
道は一応登山道の体を成していたが、あまり人が入っていないのは明白で、落ち葉やら石やらでひどく荒れていた。
足元が悪いので、今履いているスニーカーでも少し厳しい。本格的な登山靴を履いてきても、ちっともおかしくない状況だった。
それでも、慎重に足元に注意しながら、晃は瘴気が漂ってくる方向に向かって歩き続ける。
この先に、禍神絡みの場所がある。
微かに漂う瘴気は、その証拠のようなものだ。
周囲に、登山客らしい人影は全く見られない。それもまた、例の場所であることの証拠の一つだ。
まるで“人払い”でもされているかのように、人が近づかない。そういう場所こそ、禍神の何がしかの力が及んでいる場所だと気がついた。
偵察に出したアカネの目を通して、それを見極めたとき、晃はそう言った場所を浄化し、手駒を潰していけば、相手の動きを縛ることが出来るのではないかと思い付いたのだ。
万結花を害するモノたちを排除するのだから、『ゴミ掃除』でいいだろう。
そうして始めた『ゴミ掃除』だったが、先日万結花に言われたことが、今も耳に残っている。
『……晃さん、お願いだから。どこかへ行ってもいい。その代わり、必ず帰って来て』
自分もまた、“約束する”と告げた。ただ、“出来る限り”という但し書きはつくのだが。
あの時もらったお守りは、紐をつけ足して首から下げていた。
今も、服の下の自分の胸元にある。
決して強くはないが、間違いなく万結花の気配が感じられる。彼女がすぐ近くで寄り添っていてくれるようで、心が震えた。
お守りとしては、あまり効果はないだろう力しか発揮していなくても、晃にとっては心を奮い立たせてくれるような、この上もない力のお守りだった。
彼女との約束、守れる状況である限り、守りたい。
そのためには、油断なく事を進めなければ。
辺りに漂う瘴気の気配が、どんどん強くなる。
自分はまだまだ平気だが、普通の人なら体調に影響が出かねない濃度になってきた。
そのまま進み続けることしばし、やがて石造りの祠に見えるようなものが前方に見えてくる。祠の大きさは、大人の腰くらいの高さだろうか。
それは、屋根に当たる部分が壊され、大きなひびが入って、中が覗けるようになっていた。
これもまた、そういう場所の特徴なのだ。
何者かが、わざわざ壊しているのだ。しかも、壊れているところは、明らかに最近壊されたとわかる、石の割れ目の新しさが目立った。
これは、絶対に人間が壊したのだ。意図的に。
壊した当時はこれほどではなかったのかもしれないが、当時からある程度は瘴気に包まれていただろう雰囲気がある。
周囲の木が、異様にねじくれているのが、それを現していた。割れた石の断面の新しさと、周囲の木のねじくれ具合が、合わないのだ。明らかに、壊す前からある程度の瘴気が漂っていたはずだ。
そんな中で、このようなことをすれば、壊した当人はしばらく寝込むようなことになったはずだ。
自分のように、訳ありで瘴気に強いならともかく。
漂う瘴気には目もくれず、晃は瘴気以外の気配を探った。
瘴気が、ゆったりと渦を巻いているように動いている中で、その渦の中心からわずかにずれたところに、瘴気とは別な、物の怪とも妖ともつかないモノたちの気配が感じられるところがある。
そこをさらに探っていくと、何らかの障壁に様なものに突き当たった。気配は、障壁の向こうから漏れ出している。
以前破ったところより、障壁が強くなっているのがわかった。
相手も、さすがに強化してきたらしい。
だが、まだ力づくで破れなくもない強度に感じた。
入り口は、祠の中。
人が入れるはずなどないわずかな空間しか存在していないが、晃にはわかる。障壁を突き破って手なり足なりを入れれば、一気に世界が裏返るように中に入れると。
晃は遼の力を呼び込み、本性を現すと、その[左手]に力を込め、一気に祠に向かって突き入れた。
その瞬間、何かにぶち当たったような感触がある。障壁に突き当たったのだ。
晃は再度力を込め、同じことを繰り返す。
それは、三度目のことだ。今まで突き当たっていたものが崩れ、その中に入った感触があった。
直後、空間がねじれたような、裏返ったような、何とも言えない感覚が全身を貫いたかと思うと、見た目は先程とほとんど変わらない、しかし明らかに周囲の気配が違う、そういう空間に身を置いていることがわかった。濃密な瘴気の気配がする。
入り口を抜け、異界に入り込んだのだ。
それを確認して立ち上がると、晃は改めて周囲を見回した。
見た目は、先程までいた現実世界と変わらない。だが、決定的に違うところがある。
気配だけではない。周囲に生えている木が、見渡す限りすべて異様な形にねじくれている。元の世界であれば、瘴気が濃い箇所だけであったはずだ。
そもそも、この空間に入り込んだら、瘴気の濃さに普通の人間は数分で体調を崩して動けなくなるだろう。
瘴気が湧き出すところと、この空間への出入り口が少しずれていただけで、中の瘴気が外に漏れだしていたのには違いなかった。
晃は、無言で歩き出す。人ならば耐えきれないほどの瘴気であっても、本性を現している今の晃なら、何の障害にもならないからだ。
そして、見つけた。うようよと蠢くモノたちを。
ひとまず、右手の人差し指と中指を揃えると、振りかぶった直後に気合とともに振り下ろす。
途端に、蠢いていたモノたちの三分の一が一撃で吹き飛んだ。
それからは、晃に向かって来ようとするものと、逃げ出そうとするものに二分される。
辺りは大混乱となった。
晃はいつの間にか、無表情になっていた。その目もガラス玉のようで、まるで人形のような印象となる。
そのまま、自分に向かってくるモノたちに向かって、再び右手を高く上げ、気合とともに振り下ろした。
晃に向かってきていたモノたちの前方集団三分の二が消し飛ぶ。
残った三分の一は、慌てた様子で急停止すると、今度は晃に背を向けて逃げ出した。
晃は歩きながら、再度気合とともに右手を振り抜く。
逃げ出そうとしていたモノたちの大半が、吹き飛ばされるように姿を消した。
晃はなおも執拗に、そこにいたモノたちを追い、狩りたてた。
すると、長だろうかなりの力を持った存在が、立ちはだかった。見た目は熊に見えたが、その毛並みは赤みがかり、立ち上がれば人の背丈の二倍近いだろうと思われるほどの巨体で、胸元に見える月の輪は、白ではなく金色に見えた。
熊は咆哮し、晃に襲い掛かる。
だが、晃は無表情のまま左手を突き出した。熊の体が左手のある空間と重なり、熊の中にめり込んだように見えた。
直後、熊の咆哮が苦悶に満ちたそれになる。熊の体が痙攣し、突進してきたはずが完全に動きが止まった。
「邪魔だ」
全く抑揚のない、感情のこもらぬ晃のつぶやき。
次の瞬間、熊はその存在がたちまち薄れ、そのまま消滅した。
“魂喰らい”で喰らい尽くし、相手の異質な力が流れ込んでくるのがわかる。
その力を消費するように、晃がまたも右手を気合いとともに振り抜き、逃げまどっていたはずのモノたちを消し去っていく。
やがて、そこは晃以外の動くものが存在しない、静まり返った空間となっていた。
晃は、左手を使って周辺の瘴気をも喰らうと、再度右手を振りかぶり、気合とともに真横に振り抜いた。
その刹那、再度空間がねじれるような感覚があり、それが無くなると、辺りは元の祠の周囲になっていた。
すでに、瘴気も薄れ始めている。
晃は、自分の左手を“視た”。
ついこの間まで、先端が尖った爪が、鬼を思わせるような手だった。今は、その爪がさらに伸び、指先から五センチ近く飛び出し、小型のナイフを思わせるようなものになっていた。
確実に、症状が進んでいる。
当然か。無表情のまま、晃はそう思う。いつかこの身が化け物に堕ちることは、確定しているのだ。それが、多少早いか遅いかだけだ。
右手で胸元のお守りを、服の上から押さえる。
(今日は、約束を守れた……)
万結花のために、禍神の手のモノは叩き潰す。掃除はまだ終わらない。