11.哀願
晃は、店の中でも少し奥まったところにあるテーブル席に万結花を導いて座らせると、自分も向かいに座った。
「ここ、モーニングサービスをしている店だから、割と早い時間から開いてるんです」
そこへ、やはり中年の女性がメニューを持ってやってきた。
カウンターの向こうの男性と、メニューを持ってきたこの女性が夫婦で、二人で店を切り盛りしているという。
「そう言えば、久しぶりね。あなたの顔は印象的だから、よく覚えてるわよ」
女性にそう言われ、晃は困ったように眉を寄せる。
確かに、ここ数か月、顔を出していなかった。
「ところで……そちらは彼女?」
そう言われた途端、晃は真っ赤になって首を横に振る。
「い、いや、そういうのではなくて……なんていうのか……」
「……あたしたち、まだお互いのこと、よく知らないんです。だから、少し話そうかって……」
万結花が、少し顔を赤らめながらも、そう言って微笑むと、女性は何か察したか、なんとなく含みがあるような笑みを浮かべた。
「まあ、いいわ。それより、ご注文は?」
そこで改めてメニューを確認すると、晃はカフェオレ、万結花はスペシャルブレンドという、この店オリジナルのブレンドコーヒーを頼んだ。
注文を確認して、女性がテーブルをあとにすると、後には微妙な雰囲気の二人が残った。
「……さっきは、ごめんなさい。いきなり言われて、どういう関係か、説明が思いつかなくて……」
晃が謝罪すると、万結花はかぶりを振った。
「わかってます。あたしも、どう説明するかって言われたら、やっぱり困りますから」
そう言ってから、さらに一言ぽつりと言った。
「……カフェオレなんですね」
「……あー……」
晃は一瞬言葉に詰まり、それからぽつぽつと話し出した。
子供みたいな話だが、実はブラックコーヒーが飲めないこと。ミルクや砂糖をたっぷり入れることになってしまうので、それならば初めからミルクが入っているカフェオレにしようと決めているのだ、ということなど。
「基本、甘いものが好きなんで、つい甘くしてしまって……」
「そうなんですね。そういえば、よくお菓子を食べてましたもんね」
目には見えなくとも、場の雰囲気や音などで、晃が川本家に来るたびに振る舞われる菓子類に手を出していることに、万結花は気づいていた。
それも、かなりきっちり食べていると。
そうして話していると、カフェオレとスペシャルブレンドが運ばれてきた。
「追加で何か頼みたかったら、テーブルの上に置いてある、ベルを鳴らしてくださいね。では、ごゆっくり」
女性が席を離れたところで、万結花が手探りでシュガーポットから軽くひとさじ分の砂糖をすくうと、そっとコーヒーに入れ、コーヒーカップのソーサーに添えられていたスプーンで、ゆっくりかき混ぜる。
ほとんどの動作が手探りだが、触ればすぐに位置関係を把握出来るようで、案外余計な動作をせずに、コーヒーに砂糖を入れた。
そして、ミルクを入れずにカップを手に、一口飲む。
「うん、おいしいです」
「それはよかった」
晃のほうはと言うと、カフェオレにさらに砂糖を山盛り一杯入れて、かき混ぜる。
そして口を付ける。まろやかなミルクの風味と、甘い味。その奥に感じられる、コーヒーの微かな苦みと酸味。この店に来るたびに、いつも頼んで飲んでいた、いつもの味だった。
二人とも、一応食事はしてきたということで、他に何か飲みたくなったら追加で頼むということにして、ひとまず落ち着いて飲み物を飲もう、ということになった。
「……晃さん、今日はあたしに付き合わせてしまって、ごめんなさい」
万結花が、申し訳なさそうに小さく頭を下げると、晃はそんなことはないと首を横に振った。
「……謝ることなんて、ないですよ。万結花さんとこうして話が出来るなんて、僕にとっては貴重な時間です」
周囲に関係者がいない状態で、万結花とこうして向かい合って話をするなんて、そんな機会など訪れるはずもなく、それどころか機会があってはいけないような気さえしていた。
今ここで、彼女がテーブルを挟んで目の前にいることが、どうにも信じられない思いだった。切なさと愛しさが、同時に押し寄せる。
こうして、顔をじっくり見られただけでも、胸が熱くなった。
それでも、万結花が次に発した言葉に、晃ははっと我に返る。
「晃さん、あたし聞きました。この間、出かけたと思ったら、瘴気の気配を纏わりつかせて帰ってきたって」
目の前の万結花は、本気で心配そうな顔をしていた。
「いや……たいしたことはないですよ。ただの掃除です」
そう、あれは掃除だ。
万結花が後顧の憂いなく、自分の夢を果たせるようにするための。
「どうか、無茶なことはしないでください。あなたには、あなたの人生がある。あたしのために、その人生を棒に振るような真似はしないで」
万結花の顔が、だんだん泣きそうになってくる。
彼女が、本気で自分を案じてくれている。そう思うと嬉しくもあったが、それでも晃はやめるつもりなどなかった。
人生を棒に振るなというが、すでに先が見えているのだ。
ならば、残された時間は、自分が思うとおりに使ってもいいだろう。
「万結花さん、僕は、人生を棒に振っているつもりはありませんよ」
晃は、冷静に答えを返した。
「僕は、自分でこうしたいと思う事を、しているだけ。ただそれだけです」
それを聞いた万結花は、唇を噛んだ。自分の人生を諦めているとしか、思えなかったからだろう。
そして万結花は、おもむろにショルダーバッグの中から手のひら大の小さな紙袋を取り出し、晃の近くにそれを置いた。
その袋の中からは、微かに万結花の気配が感じられる。これは一体、何?
「これ、あたしが見様見真似で作ったものです。本職の晃さんには、とても及ばないってわかってるけど、それでも何かしたくって……」
仕草で、開けて欲しいと示す万結花に、晃は紙袋の折り曲げられた口を開け、中身を出した。
それは、朱赤のちりめん生地で作られた、手作りのお守り袋だった。白い紐で口を閉じてあり、はっきりと万結花のものだとわかる気配が、袋の中から外にじんわりと滲み出ていた。
確かに、晃が作ったものに比べると、お守りが発する気配はずっと弱い。
それでも、本来自分の力が御せないはずの万結花が、それでも一生懸命に念を込めたのだろうと思うと、晃はそのお守り袋が、愛おしくてたまらなくなった。
晃は、お守り袋をそっと握りしめる。
中には、中央に穴が開いた円盤状のものが入っているとわかった。
きっと、それに念を込めたのだろう。
「……ありがとう。大切にします……」
晃は、お守り袋を大事にバッグにしまった。
「……晃さん……」
万結花がつぶやくように晃の名を口にする。
ふと万結花のほうを見ると、彼女は今にも泣きそうになっており、その目は涙で潤んでいた。
「……万結花……さん?」
驚きと戸惑いで、テーブルの上の手が止まる晃に、万結花は静かに手を伸ばし、晃の手をぎゅっと握った。
「……お願い、晃さん。いなくならないで。たとえあたしが、神に仕える身になったとしても、あたしの側にいて欲しい……」
それは、万結花に出来る、精一杯の引き留めだった。
危うい道へと歩み出そうとする晃を、何とか止めたいと思うあまりの。
「もし、晃さんがいなくなってしまったらって思うと、あたし怖いの。これ以上、危険なことはしないで。お願い……」
自分はずっと側にいると言えたなら、どれだけよかっただろう、と晃は思った。
実際は、自分に残された時間は長くないのだ。
近い将来、必ず自分は化け物に堕ちていく。その時には、自分が大切に思う人たちを巻き込まないように、今から考えておかなくてはいけないのだ。
自分の手を握る万結花の手が、震えているのがわかる。
どれだけの想いを、この手の中に込めているのだろうか。
自分とて本当は、そうすることが出来るなら、万結花の体を抱きしめ、慰めたいと思う。
けれど、万結花が好きだからこそ、巻き込むことは許されない。
(あなたが好きです。だからこそ、僕はあなたのために、あなたが心乱されずに歩いていけるように、手を尽くしたい……)