10.逢瀬
次の週末、まだ朝のうちにまたひっそりと出かけようとする晃を、もしやと思って早出してきて、すんでのところでかろうじて引き留めた結城と和海は、結城がどこかへ連絡するのを横目に、和海はそのまま晃を外へと連れ出した。
「……晃くん、またこそっと出かけようとしてたでしょ? わたしたちに行先をまったく言えないようなところへ行くのは、出来ればやめて欲しいの」
近くの公園までやってきたところで、和海がどこか悲痛な表情で訴える。
「……心配しなくて結構ですよ。万結花さんのためです。彼女が、自分の願いを叶えられるように、動いているだけですから」
そう答える晃は、やはり表情がない。
「晃くん、あなたは二言目には『万結花さんのため』っていうけど、万結花さん自身はどう思うかしら。ちゃんと話をした方がいいと、思わない?」
和海はそう言うと、晃はさすがに押し黙った。
確かに、彼女がどう思うかなど、考えたことなどなかった。逆に、どう思われようと、万結花の危険度を減らすためなら、どんなことでもしようと思っていた。
『相手の手駒を潰す』のも、その一環だ。
それで自分が目を付けられようと、別に構わない。それどころか、とっくに目を付けられていると思っていた。
ただ、式神などを張り付けても、自分はそれを祓ってしまえるから、つけていないだけどということも、薄々感づいていた。
だから、今更そんなことは気にする必要もないはずだ。
しかし、和海はそう思ってはいないようだ。
「実はね、前々から話だけはしていたの。『ちゃんと意思を確認した方がいい』って」
和海の言葉を訝しんだ晃だったが、公園の前の道路に『迎車』と表示されているタクシーが止まったのを見て、何かが心に引っかかった。
一方和海は、タクシーを確認すると、晃に向かって微笑みかけた。
「さ、迎えが来たわ。一緒に行きましょう?」
「……?」
自分をタクシーに乗せて、どこへ連れていくつもりなのだろう。もちろん、まさか和海が自分を罠に嵌めるとは思っていないが、自分が知らないところで、誰が動いているのかと思うと、なんとなく警戒感が先に立つ。
それでも、和海に半ば引っ張られるようにタクシーに乗せられ、ドアが閉まったところで、和海が思いがけない行き先を告げた。
それは、川本家に行くための最寄り駅の名前だった。
和海の意図がわからない。なぜわざわざ、その駅へ行くのだろうか。
電車で行けばいいとか、そういう問題ではない。何故、その駅に行くのかがわからないのだ。
車が走り出しても、晃は怪訝な表情のまま、和海のほうを見ていた。
和海もまた、何も言わずに目的地に到着するのを待っているかのようだった。
やがて駅に到着すると、和海が料金を払い、二人は駅前のロータリーに降り立った。
それでも何故なのかがわからなかった晃だったが、ほどなく近づいてきた人影に、驚きを隠せなかった。
人影は、手ぶらでほぼ普段着の雅人と、ミントグリーンのジャケットに同じ色の膝丈のワンピース、A4サイズの書類も入るだろう大きさのモスグリーンのショルダーバッグを斜め掛けした万結花だった。足元は、やはりミントグリーンのローヒールパンプスを履いている。あえてそうしたのだろう、くるぶしまでの真っ白なソックスが、かえって可憐な印象を与える。
明らかにおしゃれをしてきた万結花の姿に、晃はどきりとしていた。
はにかんだように微笑むその顔も、たまらなくかわいく、愛おしく思える。でも、何故この二人が……?
思わず万結花のほうに目線が行ってしまう晃を、あえて見ないようにして、雅人が片手を上げる。
「ちゃんと早見を連れてきてくれましたね」
雅人が声をかけると、和海が答えた。
「もうちょっとで、また逃げられるところだったの。危なかったわ」
自分抜きでなんとなく話が続いていることに、晃は再び怪訝な顔になった。
それに構うことなく、雅人は万結花をその場にいったん待たせると、今度は自分が近づいて晃に小声で耳打ちした。
「万結花がいろいろ話したいんだとさ。ゆっくり二人で話してくればいい」
「……話って、なんだ?」
また怪訝な顔になった晃に、雅人は小さく溜め息を吐くと、さらに耳打ちした。
「とにかく、話をして来いっての。ほんとにお前は、奥手でヘタレでポンコツだな」
それには思わず言い返そうとして、口を開きかけた晃に、今度は万結花が話しかけた。
「晃さん、あたしが話をしたかったんです。だめでしたか?」
少し悲しそうな顔になる万結花に、晃は慌てて首を横に振る。
「い、いや、そんなことはないです。僕も、話が出来るならゆっくり話してみたかった」
晃と万結花は、まったく話をしたことがないわけではない。
だがそれは、まだ晃が実家にいた時、母の束縛から逃れて川本家で息抜きをしていた頃のことで、他に家族がいるところでの何とはなしの雑談だった。
彩弓や舞花も加わってのガールズトークが始まると、ついていけなくなって話の内容が右から左へ抜けていき、気づくと遠い目になっていたこともよくあった。
ほとんど事故のようなアクシデントで、自分の想いを知られてからは、それを意識してしまい、気楽に話せなくなってしまっていた。
だから、二人だけで話をしたことは、実は今までないに等しかった。
といって、いきなりお膳立てされての二人での会話と言われても、心の準備が追い付かない。
それでも、万結花に哀しい顔はさせたくはない。話をしてみたかったことは事実だ。
“それでは頑張って!”とばかりに、妙にいい笑顔で和海と雅人がその場を離れる。和海はそのままさっさと駅構内に消え、雅人は自宅の方向へと歩き去る。
あとには、なんとなくぎこちない雰囲気の晃と万結花が残った。
「……ごめんなさい、晃さん。あたしが、無理に頼んだんです。晃さんと話がしたいからって……」
いくらかうつむきながら、申し訳なさそうに告げる万結花に、晃は焦って否定した。
「そ、そんなこと、気にしてないですから……」
とにかく、駅前ロータリーのところでいつまでも突っ立っているわけにもいかない。
晃は、ゆっくり話が出来る場所のことを咄嗟に考え、思い出していた。
息抜きに川本家を訪れていた時、どうしてもそちらの事情で長居出来ない時があった。
自宅に帰ろうと考えていた時間より、早くお暇してしまったとき、時間を潰せるところがないかと探して、たまたま見つけた喫茶店があった。
何度か店に入って、雰囲気が気に入っていたし、個人経営の喫茶店なので客も頻繁に入れ替わるわけではなく、コーヒー一杯で長話をしても文句は言われない。あそこなら、ゆっくり話も出来るだろう。
晃は、右手に白杖を持つ万結花の左側に付き、小さく声をかけてからそっと左手を握った。
その瞬間、万結花が少し頬を染めたような気がしたが、晃としてもそれどころではなかった。一気に心拍数が跳ね上がる。
何度か握ったことがある手ではあったが、巫女としての霊力をもらって自らの傷を癒すことに使っていたので、今回のように、いわばエスコートするために握ったことなどない。
「……この先に、前に入っていいなと思った喫茶店があるんです。そこで、何か飲みながら話しませんか?」
「ええ、いいですね」
右手に白杖を持つ万結花のペースに合わせて歩きながら、喫茶店のほうへと歩いている間、ふと『なんだかデートみたいだな』という考えが頭をよぎり、次の瞬間慌ててそれを否定した。
自分と万結花は、付き合っているわけでも何でもない。そもそも、“贄の巫女”たる万結花は、人とは結ばれぬ運命を持っている存在だ。
本来、好きになること自体が、おこがましいことなのだ。
だから、ずっと胸の奥に秘めておくつもりだったのに、まさかあんな形で……
いつしか道は、車の多い大通りから、車の少ない裏通りへと入っていた。
駅から数分の、駅前の商店街のはずれ。住宅地との境目辺りに、その店はあった。
チェーンのカフェとは明らかに違う、こじんまりとしていながら落ち着いた雰囲気のその店に、晃は万結花を連れて入っていった。
入り口のドアを開けると、涼やかなベルの音が聞こえ、カウンターの向こうから、温和な感じの中年男性がこちらを見た。
「いらっしゃいませ」
穏やかな声がかかる。
店内は、うるさくならないほどの音量で、ジャズのスタンダードナンバーがかかっていた。店内はそう広くもなく、カウンター席がいくつかと、テーブル席が五つばかり。
外と比べて、中はいくらか暗く、その分間接照明が明かりを補っているため、趣のある空間となっていた。
先客は三組ほどで、カウンターに少し離れて一人ずつ、テーブル席一つに二人が座っていた。服装からして、近所に住む常連、という感じだろうか。