04.発作
週末になり、朝方に顔を合わせたときに、晃が川本家にお守りの水晶を届けに行くと告げると、結城も和海も一緒に来るという。
何せ、退院してから初めて訪れるのだから、所長である結城も、その秘書でもある和海も、顔を出しておくつもりなのだろう。
川本の家に行ったら、アカネや笹丸の様子を確認しないと。ずっと心配をかけてしまったから、自分はこうして顔を見せられるまでになった、ということを直接会って伝えたい。
午前中から探偵事務所として車を出してくれたので、いつもの軽自動車に乗って、川本家へと向かう。
予め連絡を入れておいたので、家に着いてからはスムーズに彩弓に出迎えられた。
晃が玄関から家に上がった途端、奥からアカネが駆け寄ってくるなり、晃の胸元に飛びついた。
「あ~アカネ。心配かけてごめんね」
晃に飛びついたまま、離れようとしないアカネに、晃は優しく頭から背にかけて、ゆっくりとその毛を梳るようになでた。
アカネも嬉しそうにごろごろと喉を鳴らして、晃の胸に顔を擦り付けながら、満足そうにゆったりと尻尾を揺らす。
晃は彩弓に促され、アカネを抱きかかえたまま奥に進み、他の家人がいる居間へと足を踏み入れた。結城や和海も、後に続いた。
雅人とは、大学で時々顔を合わせていたが、他の家人とは退院してから初めてだ。家人と並んで、笹丸の姿も“視える”。
結城や和海も含めて、三人が着てきたコートやバッグを部屋の隅に置いて腰を下ろしたところで、彩弓がお茶を運んでくる。
「早見さん、もう、霊能者としては復帰出来たのかな?」
少しおずおずとした感じで、俊之が尋ねてくる。
「ええ、もう大丈夫です。それで、新たなお守りを作ってきたんですが……」
晃はアカネをそっと自分の目の前に降ろすと、いつものワンショルダーから、布製の赤いきんちゃく袋を取り出し、そこから紺色のフェルト製の小袋を出してきた。
その小袋からは、感じられるものなら誰もが驚くほどの力が湧き出ているのがわかる。
晃はその小袋を家族の人数分取り出すと、ひとつずつそれを渡した。
「それを身に着けていれば、結界の中に入っているのと同じ状態になります」
渡された誰もが、込められた力の大きさに言葉をなくしていた。
「……こんな力が込められたもの、人数分作って大丈夫だったのか?」
雅人の問いかけに、晃はうなずく。
「時間をかけて力を込めているから、大丈夫だよ。もうこれからは、誰がいつどこで狙われるか、わからないからね」
「……そうか」
今渡したものは、出来る限り肌身離さず身に着けていて欲しい事を告げた。入浴などでは仕方がないが、それ以外は寝るときも枕元に置くなど、すぐ近くに置いておいてほしいと。
体から三十センチ以内なら、結界の効果の中に入ることが出来るから、と晃は告げた。
渡すものを渡してしまえば、それなりに場の雰囲気は緩む。
「……そうだ、ちょっと一服つけてきたいんで、席を外すよ」
軽い緊張が解けたせいか、俊之がそう言って立ち上がると、居間を出て行った。
「……もう、いくら言ってもタバコやめられないのよねえ。高校生の時に吸い始めて、すっかり癖になっちゃってるんだから」
彩弓が、少し呆れたようにつぶやく。
「タバコなんて、税金煙に変えてるようなもんだろうにな」
雅人も母親に同調する。
もっとも、こういうことは前からあり、家族の前では吸わないように、キッチンの換気扇の真下で、換気扇を回しながら吸っていることは、この場にいる全員が知っていた。
だからこそ、油断していた。
吸い終わった俊之が、戻ってきたときにそれは起こった。
俊之が自分の脇を通り過ぎたその時、晃は不意に自分の目の前が急速に闇に包まれていくような気がした。
喫煙直後の濃厚なタバコの臭いが自分に纏わりつく。直後、あの時の忌まわしい記憶が一気にあふれ出た。
晃の中で時間が巻き戻り、暴行を受けていた時の時間と重なる。
体が恐怖に硬直し、周囲の音も耳に入らなくなる。代わりに聞こえてきたのは、男たちの荒々しい息遣いと、何かが空を切る音。衝撃と痛み。肌を焼かれる熱さ。
いくら悲鳴を上げ、助けを求めても、誰にも気づかれない。
完全に白日夢に堕ち込んだ晃は、今自分がどこで何をしているのかさえ、わからなくなった。
……誰か……助けて……所長……小田切さん……助けて……
どれほどの時間が過ぎたか、よくわからない。数時間にも思える時が過ぎたころ、不意に周囲の音が聞こえるようになった。
「……くん……は……くん……」
聞いたことのある声。そうだ、結城の声だ。
それに気が付いた時、相手の声がはっきりと聞こえた。
「早見くん、しっかりしろ。ここは、川本さんの家だ。何も起こらない。ここでは何も起こらないんだ」
硬直した体から力が抜け、自分で自分の様子がわかるようになってくる。今自分はうずくまり、体を小さく縮こませたまま自分で自分を抱きしめるようにしていた。
全身から冷や汗が噴き出し、まだ動悸や震えが止まらない。
それでも、何とか自分を取り戻し始めている。
「……すみません……バッグの中に……薬が……」
晃は、何とかかすれ声を絞り出した。それを聞いたのだろう、誰かがバッグの中からガサゴソと物を取り出す音がする。
「晃くん、お薬よ。水ももらったから、飲んで」
和海の声だ。いつの間にかつぶってしまっていた目を開けると、自分の目の前にすでに取り出されている錠剤の薬と、コップに入った水が差しだされていた。
薬を受け取って口に入れ、コップを手にして水で流し込む。
すぐ目の前には、自分を心配そうに見上げるアカネの姿があった。
アカネに大丈夫だと念話を送ろうとしたが、まだ動揺が続いているのかうまくいかない。
自分の力は、こんなに脆いのか。
「晃くん、ひどい汗よ。今、拭いてあげるから」
和海が、自分のタオルハンカチで晃の顔の汗を拭う。
「……すみません……ありがとうございます……」
かすれ声で礼を言うと、今度は結城が晃の体を抱きかかえるようにして横たえると、近くにあった座布団を二つ折りにして枕にしてあてがってくれた。
「しばらく、休んでいたほうがいい。落ち着くまで、こうしていなさい」
結城はそう言うと、晃のコートを上からかけてくれた。
横たわったまま、目を閉じて薬が効いてくるのを待つ。
外田先生から、『もしフラッシュバックの発作が起きたら、少し落ち着いてからでいいのでこれを飲んで』と言われた薬だった。万一のことを考えて持ち歩いていたのだが、まさか本当に使うことになるとは。
人は、自分や親しい人が生死に関わるような出来事に遭遇すると、大きなショックを精神に受ける。
ショックを受けてから一ヶ月以内は、フラッシュバックのような発作を起こすことはままあるが、一ヶ月過ぎてもそれが起こるようなら、それは急性症状の時期を過ぎているので、 P T S D と診断される。
晃はすでに、PTSDだと診断を受けていた。
結城や和海には知られているが、川本家の人たちには知らせるつもりはなかった。だが、おそらくタバコの臭いがきっかけになったのだ。
よりによって、川本の家で発作を起こすなんて……
しかも、かなり重度のやつだった。フラッシュバックの最中は、本当にあの悪夢の時間に戻ったようだった。
少し遠く聞こえる声で、探偵事務所の二人と川本家の人々が、やり取りしているのが耳に入ってくる。
どうやら、タバコの臭いがきっかけになったことに他にも気づいた人がいるようで、俊之が家族に責められている様子がうかがえる。
晃としても、油断していたのだ。まさか、あんなにはっきりとした臭いを嗅ぐことになるとは思わなかった。
ふと気が付くと、晃の体のすぐそばで、アカネが晃に寄り添うように丸くなっていた。
(……あるじ様、わたい、今度こそあるじ様、護りたい。だから、あるじ様の側にいる)
(……アカネ、ありがたいけど、僕は大丈夫だよ。だから、万結花さんのところにいて欲しいんだ)
(しかしの、晃殿。アカネも、ずいぶんつらい思いをしたのであるぞ。そなたが監禁されておった時、アカネは時折“聞こえる”そなたの苦しむ声に、何も出来ない自分を自分でひどく責めておった。その時のつらさのこと、考えてくれぬかの?)
笹丸の念話に、晃は思い出した。
(……ああ、アカネに聞こえていたんですよね。だから、所長たちは僕が思うより早く、動き出していたんでしたね……)