09.晃倒れる
結城探偵事務所の淡いクリーム色の軽自動車が、月船神社の鳥居の前に横付けされると、左右のドアが同時に開いて、結城と和海が飛び出すように外に出た。乱暴にドアを閉めると、心の内のもどかしさを表すようなもつれた足取りで走り出し、一直線に社務所に向かう。
社務所の扉を結城がノックしながら、中に向かって呼びかける。
「失礼します。お電話で話しました、結城です」
中から扉が開けられ、神主が迎え入れた。
結城は、あわただしく自分と和海のことを告げ、社務所の中に上がった。そして、部屋の奥で布団に横たわる晃と、その傍に不安げに座っている春奈の姿を認め、小走りに駆け寄った。
「……深山さん、どうしてこんなことに……」
茫然としたまま、思わず問いかける和海に、春奈も茫然としたまま答える。
「あたしも、よくわからない状態なんです。神主さんは、あたしを護ってくれたんだと言ってましたけど、あたし自身は、ただ何か得体の知れないものに包み込まれたような、そんな感じしか覚えていないんです」
結城は、とにかく、今こうしていられるのだから、それでよかったのだと春奈を慰めた。
そこへ、神主がやってくる。
「電話から一時間半ほどですね。遠路はるばる大変でしたでしょう」
「いえ、こちらに私の部下と、クライアントがお世話になっているというなら、どんなことをしても迎えに来ましたよ」
結城が決然と言った。
神主は、自分も多少の心得があるのでわかるのだが、と前置きをして、晃の状態を詳しく話した。
「この方は、深山さんを護るために、“気”を使いすぎたのですね。陰の気の塊に襲われたと言っていましたから、深山さんは相当 精気を啜られていたようです。それで、彼女を護るために、自分の“気”を送り込み、力が萎えて動けなくなるのを防いでいたと思われます。そのために、自分が消耗しきって、このようなことになったのでしょう。これでもまだ、一時より顔色はよくなったのですよ」
神主はそう言うが、普段の晃を知っている結城や和海にとっては、そこで眠っている晃は、とても晃とは思えなかった。
顔は青ざめ、唇などは紫がかって見える。顔の線が一回り細くなったように感じられるのは、頬がわずかなりともこけたせいだろうか。しかし皮肉なことに、それがかえって人ならざるもののような凄絶な美しさを醸し出していた。
和海がそっと額に手を触れたとき、まつ毛が動いた。反射的に手を引っ込めた和海や、思わず覗き込んだ結城や春奈の目の前で、晃はうっすらと目を開ける。その瞳はしばらく、力なく左右にゆっくりと動いていたが、二、三度瞬きをし、次第に夢から醒めたような顔になった。かすれた声が漏れる。
「……所長、小田切さん……どうしてここへ……?」
「神主さんが知らせてくれたんだ。起き上がれるか」
結城の言葉に、晃は半身を起こしにかかるが、何とか起こせたと思った刹那、その体が力なく倒れ掛かる。結城が慌てて体を支え、再び布団に横たえた。
「……まだ起き上がるのは無理だな。あ、そうだ。例のやつ、出してくれないか」
結城が和海の顔を見る。和海はうなずいて、バッグの中からゼリータイプの栄養補助剤を取り出した。さっそくキャップを開けると、晃の口元に持っていく。
「これを飲んで。何か胃の中に入れないと、力も出ないわよ」
晃は右腕でそれを受け取ると、自分で口にくわえ、中身をゆっくりと飲み込んだ。
(今度ばかりは、どうなるかと思ったぞ。あの姐ちゃんが何で狙われたのかはわからんが、陰気の塊は明らかに姐ちゃん狙ってたからな)
(……僕ひとりなら、どうとでもなるんだけど……深山さんを取り込ませるわけに行かなかったし、かといって万が一何か気づかれたらと思うと、“本気”を出すことも出来なかったし……)
(それは実際、どうしようもないことだしな。あの姐ちゃんはこういうことに関しては、まったく無力で赤ん坊と変わらんくらいだし)
(今回は本当に参った。社務所まで持たないかと思ったもの)
(とにかく今は、じっくり休め。消耗した“気”が回復するまでな)
晃は時間をかけて、ゼリーの入ったチューブを空にしていった。完全に飲み終わったあと、大きく息を吐き、つぶやくように言った。
「……やっと人心地がつきました。本当に、ご心配かけました」
「無理はするな。まだ、そんなに遅い時間じゃない。ゆっくり休んだほうがいい」
「そうよ、晃くん。まだ七時半をちょっと回ったくらいだから」
晃は空になったチューブを和海に返すと、右手で両目を覆った。
「……いろいろ面倒かけて……すみません……」
晃が大きく溜め息をついたのを見て、結城が声をかける。
「何言っているんだ。謝らなければならないのは私の方だ。私のフォローをしたせいで、体調が万全じゃなかったはずだ。無理をさせてしまったな……」
晃がかすかに首を横に振る。
「……それより、クライアントの深山さんが無事で、よかったですよ……」
それを聞いた春奈が、申し訳なさそうに肩をすぼめた。
「……あたしが、巻き込んでしまったようなもんですよね。ごめんなさい」
けれど晃は、右手をどけて青ざめたまぶたを開け、はっきりと言った。
「いいえ、そんなことはありません。僕は、自分の選択は間違っていなかったと、確信を持って言えます……」
和海もまた、春奈をなだめるように肩を抱いた。
「もし晃くんがいなかったら、あなたの身が危なかったはずです。高い能力を持った晃くんだから、この程度で済んだ、と言い換えたほうがいいかもしれない。だから、気に病まないでください。クライアントの安全を護るのは、当然の責務なんですから」
春奈は大きく息を吐き、ポツリと言った。
「……ごめんなさい。あたし、本当はどこか疑っていたんです。あたしは何も見えないし、何も聞こえない。だから、今日の“調査”なんか、それらしく見せているだけなんじゃないかって、頭のどこかで思ってて……。でも、これでわかりました。全部本当のことなんだって。本当にごめんなさい。これからはすべて、皆さんにお任せします……」
春奈は大きく頭を下げた。それを、和海が押しとどめる。
「もういいんですよ。これからは、あなたは自分の身の安全だけを図ればいい。あとは、わたしたちがやります」
横から、神主も言葉をかけた。
「深山さん。これからは専門家の人に任せて、あなたはこれ以降、奇妙な気配を感じたりしたところには、近づかないほうがいいでしょう。護符は、肌身離さず持っていてください」
「はい」
春奈は神妙になってうなずく。
それから、お茶をご馳走になって一息ついたあと、皆でおいとまをすることになった。
結城は、晃に肩を貸し、半ばその体を抱えるようにして、社務所から車まで地面を踏みしめるように歩いていく。和海はそのすぐ後ろで、春奈に付き添いながらついて行った。
車に戻ったところで、和海が春奈に、送っていくから車に乗るようにといった。
「万が一ということがありますし、自宅までお送りしましょう」
「いいんですか。申し訳ないです」
「気にしないでください。別に定員オーバーになるわけではありませんしね」
助手席のドアを開け、座席をスライドさせたあと、結城は後部座席に晃を抱えた状態のまま苦労して入り込み、晃を背もたれにもたれさせる形で座らせたあと、自分も後部座席に座った。和海は運転席から助手席を戻し、春奈に席を勧める。
「さ、座ってください」
ところが春奈は、開けられたドアの前で立ち尽くす。そして、和海に向かってこんなことを言い出した。
「……あの、あたしのアパートじゃなくて、実家のほうに送っていただけますか。誰もいない部屋に帰るのが、怖いんです……」
どうやら、今頃になって、襲われた当時の恐怖が甦ってきたらしい。車内灯に照らされた春奈の体が、小刻みに震えているのがわかった。
「わかりました。では、ご実家のほうに送らせていただきます」
和海が手を差し伸べると、春奈はおずおずとその手を握り、助手席に乗り込んだ。さらに、恐怖を思い出して注意力散漫になっていたのだろう、和海に言われるまで、シートベルトを締めることも忘れていた。
春奈の実家は、車で二分ほどしか掛からなかった。徒歩でも、いくらでもなかっただろう。それでも、その距離を歩きたくなかったというほど怖かったということなのだ。
神社の前の道を引き返して、住宅地の中にある雑貨屋が、春奈の実家だった。
ちょうどシャッターを閉めようとしていたところで、いきなり見知らぬ車に送られて帰ってきた娘に、両親は慌てて歩道に飛び出してきた。
「どうしたんだ、春奈。帰ってくるならくると、言ってくれれば迎えにいったのに」
「そうだよ。この人たちは誰なの?」
春奈は事情を説明し、無人のアパートの部屋に戻りたくなくて、こちらに送ってもらったのだ、といった。
そして、車のほうに向き直ると、特に後部座席の晃に向かって、深々と頭を下げた。
「今日は本当に、ありがとうございました」
「お気をつけて」
和海と結城が、車内から会釈した。晃もかすかにうなずいた。