31.エピローグ
川本兄妹が見舞ってから数日後、晃は退院した。
これ以降は、外田医師のメンタルクリニックに定期的に通院することになった。
人を喰い殺したという混乱から一応立ち直ったとはいえ、監禁時の心の傷は癒えておらず、入院中にもフラッシュバックが起こったりしたからだ。
たまたまカウンセリングのために来ていた外田医師が対応してくれたおかげで、彼もフラッシュバックがかなり重度のものであり、このまま落ち着けばいいが、そうでなければ P T S Dに移行する可能性があるということで、治療方針を組み立ててくれたのは、幸いと言うべきだっただろうか。
少なくとも、『フラッシュバックが起こるほどの体験をした』ことだけは納得してくれたのだから。
そして義手はと言うと、装具士の見立てでは、新しく作り直した方がいいという判断で、制作と調整にしばらくかかるという。
さすがに、義手を付けないでいると余計に目立つため、今は能動義手を付け、金具しかない手に当たる部分を隠すため、無理矢理手袋をはめている。
そして晃は、退院して数日後から大学に通い始め、事務所の仕事も手伝うようになった。
もっとも、無理をしないように調整しながらだったが。
この日も、大学から帰って以降、結城も和海も、晃に余計な負担がかからないように注意しながら、半分リハビリのつもりで、共に事務仕事をしていた。
しかし、“事件”のことはどうしても話題には上らなかった。何かのはずみで、晃が当時のことを思い出し、それがきっかけになってフラッシュバックが起こったら大変、という思いがあったからだった。
それでも、どこか淡々としているような晃の様子が、なんとなく気になっていた。
そろそろ夕食のことを考える時間となり、結城の声掛けで一旦作業をやめ、進行度合いを見ながら、帰宅の準備をするなり夕食の段取りをするなりしよう、ということになった。
「早見くん、少しは落ち着いてきたかな」
結城が、それとなく声をかける。
実際は、落ち着き過ぎているようにも見えて、逆に気になっていたほどなのだが。
「……ありがとうございます。大丈夫です」
微かに笑みさえ浮かべて答える晃に、やはりすっきりしない何かを感じる。
「そう言えば、今のところ川本さんの家には、特に大きく変わった変化はないみたい。やっぱり、アカネや笹丸さんが向こうで頑張ってくれているからかもね」
和海の言葉に、晃はうなずく。
「そうですね、あの二体なら、鬼相手にも守り切れるんじゃないかって思いますよ」
そういう晃に、結城がなんとも歯切れの悪い様子で話し出す。
「……早見くん、その……本当に大丈夫なのか? なんだか……ちょっと落ち着き過ぎという感じもするんだが。病院で、荒れている姿を見ているからなあ……」
確かに川本兄妹の面会以降、急速に落ち着きを取り戻したが、それが行き過ぎて見えて、どうにも引っかかってしょうがないのだ、と結城が続けると、晃は静かに微笑んで見せた。
ただ、それはどこか儚いような、どこか危うさを孕んでいるような、不可思議な雰囲気を纏っていた。
「……代償の穢れに飲み込まれるかもしれない、という思いは今でもありますよ。でも、遼さんが改めて約束してくれたんです。『どんなことをしても止める』って。だから、もう大丈夫なんです」
結城と和海が、顔を見合わせる。確か遼は、“魂喰らい”の威力を弱めようとしたが駄目だったと言っていなかったか?
「あの、遼さんって、どこまで止められるの? こんなこと言っちゃなんだけど、あまり止められそうな感じはしないんだけど……」
和海が少し苦笑しているような表情で問いかけると、晃はやはりどこか儚い笑みを浮かべたまま答える。
「遼さんは、確実に僕を止められますよ。以前のことは、僕に影響が出ないようにしてくれた結果、そうなっただけです。だから、もし僕が穢れに飲み込まれて人を喰らうだけの化け物になったら、必ず遼さんは止めてくれます」
「それは、どういうことだ? 確実に止められるって、どうやって止めるんだ」
怪訝な顔になる結城に、晃はあまり抑揚のない調子で、ふっと話した。
「簡単ですよ。だって、遼さんは僕を殺せますから」
「!?」
二人とも思わず椅子から立ち上がり、愕然として晃の顔を見た。
「それ、どういう意味よ!」
「比喩だよな。それは比喩で言ってるんだよな!?」
焦る二人に、晃はあくまでも静かに告げる。
「比喩じゃありません。僕が、すでに『魂の糸』が切れていて、それを遼さんが繋ぎ合わせてくれていることは知っているでしょう? そして、遼さんと僕の魂が、引きはがせなくなっていることも。だから、遼さんが繋ぎ合わせるのをやめ、僕の魂ごと冥界へと堕ちれば、それで僕は死にますから」
晃の言葉に、二人は絶句したまま言葉が出てこなくなった。
遼が初めて子細を語った時、確かに『魂の糸』の話はしていた。遼と晃の魂が、引きはがせなくなっていることも。逆に言えば、それを利用すれば、確実に晃を殺すことが出来るということになる。
晃はさらに、話を続ける。
「暴走したあの時、一歩間違えたら所長たちが踏み込んできていたかもしれないと、遼さんの記憶から知りました。もし、我に返った時に所長や小田切さんが倒れていたら、僕は自分で自分を絶対に許せなかった。そうなる可能性があったことに、本当にぞっとしたんです。そしてそれは、いつ何時起こるかわからない。周りの人を手にかけてしまったら……そんなことになるくらいなら、死んだほうがましです……」
淡々と言い終えた晃の顔には、相変わらず儚い笑みが浮かんでいた。
結城も和海も、しばらく絶句したままだった。晃の目は、感情の動きが感じられず、違和感を覚えるものになっていた。まるで、ガラスで出来た人形の目のようだ。
自分を滅するという恐ろしい選択をしているというのに、なぜそんなに静かな顔をしていられるのか。
「……早見くん、その手段は最後の手段で、本当にどうしようもなくなった時のものなんだよな? そうだろう? 私は君に、生きていて欲しい。そうだ、ここで約束してくれ。『弁護士になれたなら、うちの事務所の顧問弁護士になる』と。頼む!」
必死の思いで、結城が訴える。
「晃くん、お願い。ここではっきり言って。『それは最後の手段だ』って。あなた自身は、生きることを諦めてないんだって。ねえ、晃くん……!」
和海も、血の気が引いた白い顔で、両手を祈るように合わせながら晃を見つめる。
二人の様子に何か感じたのだろう、晃の目が今度こそ優しく微笑む。
「……わかってますよ。いざという時は、遼さんが止めてくれるとわかっているから、親しい人を、手にかけてしまわないで済むと思えるから、普通に過ごしていられる。そういうことなんですよ……」
それを聞き、一応は胸をなでおろした結城と和海だったが、それでも不安は残った。
事件に巻き込まれる前の晃と、決定的に何かが違うと感じるからだ。
それが何なのか、まだわからない。
でも、以前の晃と比べると、どこか危うさを感じてしまう。
実際、自分の覚悟を話していた時の晃が浮かべていたあの儚い笑みが、ガラス玉のようにさえ見えた目が、どうしても脳裏に焼き付いて離れない。
「……早見くん、遼くんと話をさせてくれないか。もう一方の当事者だろう? 彼からも、話を聞きたいんだが」
結城の言葉に晃はうなずくと、急にがくんと下を向き、気配が変わる。
そして顔を上げたときには、顔つきもどことなく違って見えるようになっていた。遼が表に出てきたのだ。
「……なんとなく、呼ばれるんじゃないかとは思ってましたけど……」
どこか疲れたような表情で、遼が口を開いた。
「ああ、すまないな。とにかく、どういう経緯であんな約束を?」
まだ顔がこわばっている結城が、問いかける。
「……川本兄妹が見舞いに来た日の夜です。万結花さんの告白で、さすがに少しは落ち着いていたんですけどね、夜一人でいろいろ考えているうちに……あいつ勘がいいというか、無駄に頭が回わるというか……」
晃は気が付いてしまったのだという。
これから、“魂喰らい”を封じられるはずはない。使わなければ勝てない相手が襲ってくるはずで、否応なしに穢れは溜まっていき、いつかは限界を超える。もし、相手を喰らい尽くした瞬間に、喰らった力を放出する間もなく穢れに飲まれて暴走したら、周囲にいるすべての存在を手にかけてしまうと。そうなれば、生きていられるのは、膨大な霊力を持つ万結花ぐらいだろう、と。
「その時の晃は、本当に恐慌状態になりかけて……見かねて言ったんです。『そうなったら、俺がどんなことをしても止めてやるから』と。そうしたら晃が言ったんですよ。『なら、僕を殺して』ってね……」
承諾せざるを得なかった、と遼は溜め息を吐いた。
「もちろん、そうならない可能性はあります。でも、もし暴走してしまったら、そしてそのあと我に返るようなことがあったなら、晃は今度こそ精神が完全に崩壊して、二度と正気には戻らないでしょう。だったら、そうなる前に、大切に思う人たちを手にかけてしまう前に、俺が終わらせた方がいい。今はそう思っています。だから、もしそんな時が来たら、俺は躊躇わずに晃を殺します。そうしなければ、あいつは本当に狂ってしまうから……」
自分が殺す、と決心したことで、晃はかえって落ち着いたという。暴走して、大切な人たちを喰い殺すおそれがまずなくなった、と感じたからだったのだろう。
「でも、最近の晃くんは、何だか前と違う気がするのよね……」
どこか暗い表情で和海が肩を落とすと、遼が真顔になって口を開いた。
「それは、ある意味当然ですよ。心に深い傷を負って、今なおその傷に心を蝕まれて、何でもないはずはない。晃は、かつての晃じゃありません。少しだけど、あいつの心は壊れてしまった……」
「えっ!?」
「まさかっ!?」
思わず声を上げる結城と和海に、遼が苦い笑みを浮かべる。
「さっきの様子を見ても、わかるでしょう? 以前の晃は、あんなこと言う奴じゃなかった。切羽詰まっていたにしたって、あんなにあっさり、自分の死を願うなんて……」
重い沈黙が落ちる。やはり、あの事件の影響は大きすぎたのだ。
「……せめて、一方的な被害者だったら、ここまでひどくはならなかったと思うんですけどね。晃の心が壊れたのは、やっぱり『自分が人を喰い殺した』と自覚してしまったことですよ。周りが必死で支えてくれたから、完全に崩壊することはなかったけど、心は無事では済まなかった。おまけに、意識はしていないけど、監禁されていた時の心の傷だって浅くはない。逆に、よくこの程度でとどまったとさえ、思えるんです……」
遼がそう告げると、結城も和海も力が抜けたように再度椅子に座り込み、目を伏せた。
しばらくの間、誰も口をきかなかった。
晃の心の、精神科医が診ている表の傷は“監禁、暴行を受けたときに刻まれた恐怖”。裏の、本当の意味で心を蝕んでいる傷は“人食いの化け物に堕ちる恐怖”。二重に刻まれた傷を、どうすれば癒すことが出来るのだろうか。
やがて、意を決したように結城が顔を上げ、遼の顔を見る。
「……私たちは、何をすればいい。早見くんのために、何をすればいいんだ?」
「……何もしないでください。今まで通り、晃に接してください。対応をわざわざ変える必要なんか、何一つありません。どうかそのままで、包み込んでやってください……」
真剣にそう返した遼に、結城も和海もうなずいた。
この時、二人もまた覚悟を決めていた。これから晃がどうなろうとも、共にいると。
晃がこうなってしまった責任の一端が、自分たちにもあるように思えてならない二人にとって、共にいることは必然だった。
前々から思っていたことではあったが、晃一人に頼り過ぎた。いわば彼が目立ち過ぎた。それが禍神の側の余計な注意を引き、今回のことが起こったような気がしてならなかったのだ。
自分たちが、晃の護りとなる。結城も和海も、決意を固めた。
これで、第九話は終了です。
今回、タイトルと中身が乖離してないか、ちょっと不安ではありますが、読んでいただいた皆様、どうだったでしょうか?
次からは、第十話がスタートします。
物語も、いよいよクライマックスに向けて突き進むことになります。
頑張って、完結まで走り続けますので、どうかのんびりでも追いかけてきていただけると幸いです。