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ある異能者の備忘録  作者: 鷹沢綾乃
第九話 踊る愚者
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26.心傷

 今日あった出来事まで、すべてを話し終えると、法引は松枝の顔をじっと見る。

 松枝は、黙って最後まで聞いていたが、法引が話し終えたところで大きく息を吐いた。

 「……(にわ)かには信じがたい話だが、お前がこういう時に嘘や冗談を言う人間ではないことは、わかっている。それに、そう言われれば腑に落ちると思うところも、確かにあるしな……」

 辺りを、しばし沈黙が支配する。それを破ったのは、和海だった。

 「松枝先生、これから晃くんはどうなりますか? 体の傷は残っていないけど、心はひどい状態だと思うんです。正気に返ったとしても、きっと不安定になっていると思うし」

 もしかしたら、ずっと誰かが付き添っている必要が出てくるかもしれない。

 「そういう事なら、ご両親がいる実家に帰った方がいいのでは?」

 松枝の言葉に、結城が答える。

 「そう出来れば、それに越したことはないんですが……母親のほうが、問題のある人で……」

 結城は、晃の母親が、かつての事故以来息子の世話に依存して、トラウマを抱える自分の精神の安定を図っていた節があるのだということを告げた。

 「……以前、別な病院に入院した後、母親のトラウマがひどくなったと話してましたのでね。こんな状態の早見くんを実家に帰したら、母親が家から一歩も出さないようにして囲い込んでしまうかもしれないと思えまして。早見くん自身が、『母親が異常に干渉というか、束縛してくるようになった』とこぼしていた時があったので。事務所の二階に間借りするようになったのも、親子喧嘩がきっかけにしても、母親の異常な束縛から逃げ出してきたんじゃないか、と思っているんです」

 「……それは……実家には帰せませんねえ」

 松枝も、腕を組んで唸った。

 「そんな状態の母親のところへ帰したら、下手をしたら容易に抜け出せないある種の共依存状態になってしまうかもしれない。社会復帰が、難しくなるかもしれませんね」

 松枝は、前に自分のところに入院した晃が、何故両親に知らせたがらなかったのか、理解した。

 親子そろって引きこもりでもされては、外からではそう簡単に手を出せなくなる。

 実家へ帰すのはなしだ、と全員の意見が一致した。

 「……こうなったら、とりあえず一時ウチのクリニックで引き受けましょうか。もちろん、こちらで信用出来る医師を探します。これでも、医学部の同期には、いろいろな専門を掲げて開業しているやつがいますし、ちょっとした心当たりもありますから」

 ベッドが埋まっているわけではないので、入院手続きはすぐに取れるという。

 何人かいる看護師に頼んで、二十四時間の看護体制を組めば、何かあった時でも対処出来るはずだ。

 ひとまずそういう形で保護した後、正式に専門家へ紹介することにすればいい。

 ただ、さすがに今夜は動かさないほうがいいという判断になった。

 せっかく今眠っているのに、下手に動かして目を覚ます方がまずいということになったのだ。

 「まずは今夜、何とか何事もなく朝を迎えらればいいんですがね……」

 結城が、改めて晃の顔を見ながらつぶやく。

 今は、静かに眠っている晃だが、目覚めたときに、どういう反応を示すかわからない。

 あれほど暴れた後なので、おそらくは目覚めることなく朝まで眠っているとは思うが、何かのはずみで目覚めないとも限らない。

 もう暴れたりすることはないだろうが、精神は不安定なままだろう。

 結城が、自分が泊まり込んで付き添う、と言い出した。

 「私の場合は、家族に連絡しておけば、そんなに心配されません。元々ここは、妻の実家だった建物ですから、勝手もわかってますし」

 「しかし、徹夜で付き添うのは大変でしょう。わたくしも残ります。体の芯に、疲労が残っているでしょう?」

 法引に言われ、結城は苦笑した。

 〈過去透視(サイコメトリー)〉の過剰な使用に加えて、暴れる晃を押さえ込んだりしていたのだ。

 疲れていないはずはない。

 松枝は、今から一旦帰り、手続きの準備を済ませておくという。

 そして和海も残ると言ったのだが、彼女も疲れているだろうし、二人で交代に付き添えば何とかなるからと、所長命令で帰宅することになった。

そうして二人を帰した後、結城と法引は、ひとまず法引が枕元で付き添い、結城が仮眠を取ることになった。

 とはいえ、仮眠室だった場所は、今は晃の部屋になっている。一組ストックしてあった布団には、晃が寝かされている。

 やむなく、事務所部分に置いてあるソファーに寝ることになった。

 一応予備としておいてあったエマージェンシーシートを出すと、遼が置いた晃のコートとワンショルダーを一人掛けの椅子のほうに移し、灯りを落として最低限のものにすると、自分はシートを広げて(くる)まり、ソファーに横になった。

 気持ちが高ぶっているかと思ったが、体の疲労が勝ったか、結城はほどなく眠りについた。

 そして結城がふと目を覚ますと、夜中の一時だった。

 包まっていたシートを適当に畳むと、結城は和室へと戻って中の様子を見た。

 そして、やはり灯りを落として仄明るい程度の室内で、晃の枕元で正座をして静かに様子を見ている法引の姿を確認した。

 「和尚さん、様子はどうですか?」

 部屋に入り、小声で話しかけると、法引は結城に向き直り、やはり小声で返答した。

「今のところ、異常なしというところですな。このまま朝まで眠っていてくれるといいのですが」

 交代して、今度は法引が仮眠を取ろうと立ち上がった時、今まで静かに寝ていた晃が、呻くような声を上げた。

 はっとして見つめる二人の前で、晃はうなされ始めた。

 何かを言いかけてはいるのだが、それは言葉になっていない。

 法引も、移動するのをやめ、様子を見守ることにした。

 しばらくうなされていたが、突然晃が半身を起こす。

 驚く二人の前で、今度は晃の体が震え始めた。

 まるで何かから身を守るように腕で頭を抱え込み、震えながら体を小さく丸める。

 そのまま身体を固くし、微かにつぶやくような声が漏れた。しかし、小さすぎて聞き取れない。

 結城が急いで近づくと、声をかけてみる。

「早見くん、大丈夫か」

 しかし、晃は反応を示さず、体を震わせて何かをぽつりぽつりとつぶやいている。

 それを何とか聞き取ると、結城は痛ましげな表情になった。

 「……だ……れか……助け……い……や……た……すけ……」

 結城が、法引のほうを向いた。

 「……フラッシュバックです。監禁されて、暴行を受けていた時の記憶が蘇って、周囲の状況がわからなくなっている。おそらく悪夢を見て、それがそのまま一種のトリガーになって、フラッシュバックにつながってしまったのかも知れないです……」

 「……それは……」

 結城も法引も、手を出すに出せず、やむなく様子を見守っていたが、どれほど経ったか、震えが止まり、晃の体から力が抜けていった。

 「早見くん、大丈夫か」

 晃の体を抱きかかえるようにしながら、結城が静かに声をかける。

 その声が聞こえたか、守るように頭に置いていた手をそっと下ろし、晃が顔を上げた。

 まだ弱々しいが、その目には正気の色が戻っていた。

 「……所長……?」

 「ここは、探偵事務所として使っている家の中だ。ここでは、何も起こらない。だからもう、つらい思いをすることはないんだ。大丈夫だよ……」

 晃は再び目を伏せたが、しばらくすると不意に結城の胸元に顔をうずめる。ほどなくして、(すす)り泣きの声が漏れ始めた。

 「……つらかったな。怖かったな。苦しかったな。つらくて当然だ。ひどい目に遭ったんだから。いろいろあり過ぎた。これからは、私たちに全部任せて、君は心と体を休めればいい。休むことが、必要だよ……」

 言いながら、結城は晃の肩をそっと抱くと、まるで幼子にするように、優しく頭を撫でた。

 その様子を見ながら、法引も痛ましげにつぶやく。

 「……きっと、今まで心が張り詰めていて、泣くことも出来なかったのでしょうな。どれほど苦しかったのか……」

晃は肩を震わせながら、しゃくりあげるように嗚咽を漏らしている。

 元々細身で華奢な印象の体が、ますますか細く感じられた。

 結城も法引も、もう何も言わずに晃が落ち着くのを待った。

 晃は、なかなか泣き止まなかった。この日一日で降りかかった、悪夢のような出来事を、涙で洗い流そうとするかのように。

 しんと静まり返った部屋の中に、晃の嗚咽の声だけが、いつまでも聞こえ続けていた……


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