25.診察
それと相前後するように、法引が事務所に駆けつけてきた。
そして、和海に案内されて入った室内の“惨状”に驚きの表情を浮かべる。
「結城さん、これは……」
結城はまだ、晃を腕の中に抱き込んだままだった。
何とか暴れなくなったものの、晃はいまだに正気に返っておらず、焦点の合っていない目は、何も映していない。
「……和尚さん……詳しいことは後で話します。……ひとまず、早見くんを休ませないと……」
肩で息をする結城に、和海が心配そうに尋ねる。
「所長、頬っぺたに傷が出来て、血が出てますよ。もしかして、晃くんに引っかかれたんですか?」
「え、そうか?」
慎重に晃の体を床に横たえると、結城は左の頬に微妙に震える手をやり、血がついているのを見て微苦笑した。
「……そういえば……押さえきれずに手を振り回されて、それが当たったことがあったな……。夢中だったから……その時は痛くもなんともなかったが、今になってズキズキしてきたぞ」
結城は一旦立ち上がろうとしたが、膝が笑ってしまって立てなかった。結城もまた、しばらく休まなければ手足に力が入らないほど、疲労困憊していたのだ。
「……早見さんの様子を見るに、重大なことが起こったのですな。ここまで正気を失うとは……」
和海が、『晃を保護したが、いろいろ問題が起きている』と急ぎ伝えただけで、法引自身は詳しい経緯はまだ知らなかった。
結城の頬の傷を手当てしがてら、結城と和海が詳しい事情を説明すると、法引もまた唸りながら考え込んでしまった。
「……それは……早見さんが正気を失ってもおかしくないですな」
「ええ、いろいろなことが、重なり過ぎてますから。ほんとは絶対心療内科とか精神科へ行った方がいいと思うんですけど、事情が事情なので、どうしようかと……」
和海が、現実に頭を抱えながら困惑した顔で答える。
そこへ、和海のスマホに着信があった。
松枝からで、先程和海からの『精神が不安定になっている』との第一報に、今往診中だからと一応アドバイスの返答をしていたのだが、それでは本人が収まらなかったらしく、結局近くまで来たのでこちらに来るという。
「先生、わざわざありがとうございます」
「いや、こっちとしても、前から気になってたしね。専門家ではないが、少しはマシなアドバイスは出来ると思うよ」
松枝からの電話が切れると、和海の表情が少しは柔らかくなる。
「あれだけ暴れた後だし、松枝先生に診てもらえれば、少しは安心出来そう」
しかし法引は、表情が硬いままだった。
「……早見さんですが、もしかしたら相当あとを引いてしまうかもしれませんな」
「どういうことですか?」
やっと息が整ってきた結城が、問いかける。
「早見さんはもしかしたら、暴走した自分の姿に、自分の未来を“視た”のかもしれません。自分が、穢れに飲み込まれて妖になってしまったときの姿を……」
「あ……」
あり得ることだ。第一遼自身が、『晃の怒りの感情に引っ張られて、穢れが晃の意識の中に入り込んでしまった』と言っていたのだ。
遼がそれを認識したのなら、晃にもそれは伝わってしまう。たとえ本人は覚えていなくても。ならば、妖と化した自分の姿を垣間見てしまったのかもしれない。
人を喰い殺してしまったという自覚とともに、そういう認識をしてしまったら、心の傷が余計深くなったはずだ。
これから松枝が来るとは言っても、彼は内科がメインの医師だ。精神的なものは、専門外に近い。
それでも、診てもらわないよりはましだろう。
和海と法引が、半分物置になっていた隣にある八畳の和室を、大急ぎで物をどかして片付け、そこの押し入れに念のため置いてあった布団を敷くと、何とか体に力が入るようになった結城と協力して晃の体を和室まで運び、布団に寝かせた。
恐る恐る口の中に突っ込んだキッチンペーパーも取り出したが、晃が声を上げることはもうなかった。
すでに、暴れ疲れていたのだろう、布団に寝かせて間もなく、晃は眠りに落ちた。
それでも、目覚めたときに、落ち着いている保証などない。
鎮まっていて欲しいと、この場の誰もが願ってはいたが。
そうこうしているうちに、松枝が事務所を訪れた。
それを、法引が出迎える。
「わざわざ悪いな。こんな時間に来てもらって」
「何、往診で時間が長引いたりすると、時々こんな時間になるときがあるんだ。それにしても、お前まで来てるとなると、何かそっちの関係もあるのか?」
時刻は、すでに午後九時半をとっくに過ぎていた。こんな時間まで往診に動いているとは、さすがに思ってもみなかった。
法引に連れられ、和室に入った松枝は、そこで眠っている晃に目をやる。
「……あまり顔色がよくないが、どうしたんだ、彼は」
晃の傍らに座ると、さっそく聴診器を取り出す。
掛け布団をめくり、着ているフリースのファスナーを下ろし、下のシャツのボタンを外そうとしたところで、松枝の手が止まった。
「……シャツのボタンが、半分以上無くなってるな。無理にひきちぎってシャツをはだけたみたいに見えるが……」
結城と和海があっという顔になるが、松枝はそれでもシャツをはだけて、今度こそ完全に手が止まった。
「……早見さんは、義手を乱暴に扱う人ではなかったはずだが……」
「え、何かありましたか?」
思わず問いかける結城に、松枝は不可解だという表情で振り返る。
「義手を固定してるベルトに、何か所も毛羽立ったような傷がついているんですよ。わずかだが、縁が焦げているところもある。こんなもの、わざわざつけなければ、つくはずがない。何があったんですか?」
結城と和海、法引が、互いに顔を見合わせ合い、苦悩の表情になる。
話すなら、一通りのことを話さなければ、納得いく答えにならないだろう。だが、それは晃のすべてを話すことでもある。
本人の了解なしに、軽々に打ち明けられる内容ではないのだ。
なまじ体の傷が消えてしまっていることが、かえって厄介なことになっていた。
傷が残っていたのなら、何者かに監禁、暴行を受けたのだと説明し、筋は通ったはずだ。何故警察に届けないのか、と言われることにはなっただろうが。
遼が出ていた状態で出会ったとき、懐中電灯の中途半端な明かりの中で見ていたため、こういう細かいところを見落としていた。
その後、遼が服を身に着けてしまったので、どうなっているか確認しないまま、松枝に見つけられてしまった形になる。
そういえば、遼が何かをワンショルダーに入れていたが、もしかしたらあれは肌着だったのかもしれない。大きく破れていたか何かで、着られなかったのを押し込んだのではないだろうか。
「……済まないが、今は早見さんの身体を診ることを優先してほしい。詳しいことは、後で話すので」
法引が言いづらそうに告げると、松枝は不承不承にうなずいた。
松枝は改めて晃のほうに向き直ると、その胸に聴診器を当てる。しばらく聴診器を当てていたが、やがて聴診器を耳から外し、晃の体に直接手を当ててさすったり、掌越しに叩いてみたり、様子をもう一度肉眼で確認したりした後、体の力を抜くように軽く息を吐いた。
「……少し、心臓が弱っているように感じる。あと、右腕の付け根のところ、あれは内出血していたが……軽い肉離れかな。どうも、体全体が過剰に動いたんじゃないか、という印象だが……。何があったんですか、早見さんに」
さすがに、元々内科医の自分では、これ以上は検査をしないとわからないが、と付け加えながら、とりあえずこの場で出来るだけの手当てをし、服を元に戻して布団をかけると、松枝が三人のほうに向き直る。
「先程、小田切さんから連絡を受けたときには、精神的に、かなり不安定になっていると聞いたんですが……」
「……実は、錯乱状態で暴れたんです。体力が尽きて、暴れなくなって、眠ったという感じなので……」
結城が、言いにくそうに答えると、松枝が厳しい表情になる。
「錯乱状態とは、穏やかじゃない。錯乱するような、何があったんですか?」
松枝が、さらに問いかけてくる。当然の問いだが、三人は互いに目線だけで“どうする?”とやり取りし合い、最後に法引が松枝に向かって口を開いた。
「……これから話すこと、誰にも言わないと誓えるか?」
「医者には、患者の個人情報に対して、守秘義務がある。誰にも言わないよ」
「わかった。早見さん本人に対しても、知っていることを悟られないようにして欲しい」
そう言うと、法引は真顔になって話し始めた。早見晃という人物が、どういう存在なのか。そして今、どういうことに巻き込まれているのかを。