08.陰の気
昼間にやってきたなら、のどかなベッドタウンとして、散策したくなるような街だっただろう。だが今は、駅前で店を開いている数軒の商店の前を通り過ぎると、途端に人通りが少なくなり、街灯と民家の明かり以外は、明かりがまったくなくなった。
駅から数分歩いたところで、春奈がひときわ薄暗く、細い路地のような道を指差した。
「ここをはいっていくんです。ご覧の通り、暗くて細い道で、夜はほとんど人が通らないような道なんです」
それを見て、晃の表情が、より険しくなった。背後からは、陰の気が徐々に距離を詰めてきつつある。一刻の猶予もない。
「行きます。一気に早足で抜けますよ」
晃の右腕が、春奈の肩を抱きかかえる。一瞬、春奈が体を震わせた。晃はそのまま、彼女を押し出すように歩き出した。
時折思い出したように現れる街灯以外、明かりは見えない。道幅も、軽自動車が通れる程度のものでしかない。
道の左右には民家がなく、畑になっていた。そのせいで、街灯と街灯の間は、ほんの数瞬だがほぼ真っ暗になる。
そして、神社の社務所の明かりが見え始めたとき、“それ”はきた。
「深山さん、走ってっ!」
晃が叫ぶのと、“それ”が襲い掛かってくるのが同時だった。
そのとき春奈は、先程まで見えていた社務所の明かりが見えなくなったのがわかった。同時に、気温がまるで真冬のように急降下する。空気が粘りつくような濃度の濃いものになったような気がした。
悲鳴を上げようにも、喉が張り付いてしまったように声が出ない。寒いのに、全身から汗が噴き出してくる。今の春奈にとって、自分の肩を抱きかかえてくれている晃の温もりだけが、唯一の心の支えだった。
体に纏わりつく重い空気が、なんだか力を吸い取っていくようで、春奈は歩くものつらくなってきた。徐々に手足が冷えてきて、感覚が失われていく。しかし、春奈の肩を抱える晃の腕の力は、なおいっそう強くなり、まるでそこから力が注ぎ込まれているように、 手が触れているところだけが熱くなる。その力に支えられるように、春奈は歩き続けた。
「……もう少しです。頑張って」
そう言った晃の声は、聞いたこともないほど息を弾ませ、苦しそうだった。
「こんな真っ暗な中、どう行けばいいんですか」
「……そのまま、まっすぐ。僕が、誘導します……」
晃は、春奈に向かって指示を出し続けた。凍てつく闇の中で、晃の指示だけを頼りにして、春奈は歩く。
そして“それ”は、襲ってきたときと同じく、突然に去った。不意に、目の前に社務所の明かりが現れ、同時に気温が上がっていく。ふと気がつくと、鳥居をくぐっていた。
「……“やつ”は……神社の敷地の中に居続けることが……出来ない存在だったんです……。だから……去った。これから……社務所に……行きましょう……」
晃は、まるで全力疾走でもしたかのように、息を弾ませている。春奈もまた、無意識に体が反応しているのか急に膝が震え出した。それでも何とか、二人は、社務所に近づいた。
その様子に、何かを感じたのか、社務所の中から神主らしい中年の男性が出てきた。白い着物に浅葱袴をつけている。
「どうしました。いやに、陰の気が纏わりついているようですが」
神主に尋ねられ、晃は今までのことを途切れ途切れに説明した。そして、つい今しがたまで陰の気の塊に襲われていたと告げた。
それを聞いた神主は、二人を社務所に案内し、玄関先で祝詞の一節を唱えてお清めをしたあと、中に入れてくれた。
社務所は意外に広く、自宅兼用らしくて奥のほうからは子供の声が聞こえている。
「危ない目に遭われましたな」
神主自らお茶を入れてくれながら、特に晃に向かって言った。
春奈は、何気なく晃の顔を見て驚いた。別人のように顔色が青ざめ、憔悴している。
「お嬢さん、その方に感謝してください。彼が、あなたを護ってくれていたのです。そうでなければ、今頃完全に取り込まれていたでしょう」
神主は、二人がお茶を飲み終えて一息ついたところで、頼まれる前にお祓いの準備を始めた。それを見た晃は、安堵したのと同時に全身から力が抜けたのだろう、床に突っ伏すように崩れ落ちる。春奈が慌てて抱き起こした。
「しっかりしてください、早見さん」
けれど晃は、目を開けはするものの、しゃべる気力もないようだった。神主も駆け寄り、額に手を当てたり、脈を取ったりしたが、やがて口を開いた。
「……この人は、このまましばらく休ませたほうがいい。お嬢さん、あなたを護るために、力を使い果たしてしまったようです。今まで気力で持たせていたものが、私が祓いの儀式の準備を始めたことで、気力の糸が切れてしまったのでしょう」
神主は、そのまま晃の体を畳の上に横たえると、奥へと声をかけた。すると、奥の短い廊下の先の引き戸が開いて、中年女性が姿を現す。どうやら神主の妻のようだ。
「悪いが、この人を休ませてあげなくてはならなくなった。布団を敷いておいてくれないか」
女性は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに事態を把握して布団を取りに行った。神主は、その間にも儀式の準備を進める。
部屋の片隅に布団が敷かれ、晃が寝かされる頃には、神主は春奈を連れて外に出、手水舎でまず彼女を清め、本殿で神に祈りを奉げた。
三十分ほどの時間をかけて祓いの儀式を行った後、神主は春奈に護符を渡し、春奈は初穂料を納めてそれを受け取った。
二人が社務所に戻った頃には、晃は死んだように眠りこけていた。
「……これでは当分動かせませんね。無理に起こしたところで、おそらくは動けないでしょう。この方のお知り合いを誰か、ご存じないですか?」
言われた春奈は、結城から名刺を預かっていることを思い出し、バッグを急いでかき回してそれを見つけると、神主に手渡した。
「この人は、この探偵事務所で働いている人なんです。ここに連絡すれば、大丈夫かと」
「わかりました」
神主は奥に行って、隣の部屋との間の廊下に設置してある電話を取ると、名刺に書かれた携帯電話番号を押した。
神主は、自分の身分を明かした上で、自分の神社に二人が来ていることと、そこに至るまでの経緯を説明した。
「それで、早見くんの様子はどうなんですか!?」
電話の向こうの声が、焦りを含んだ早口になっている。
「今は眠っています。深山春奈さんといいましたか、その方を護るので消耗しつくしてしまったようです。それで、申し訳ないのですが、迎えに来ていただけないかと思いまして、こうして連絡を差し上げた次第です」
「わかりました。今すぐそちらに向かいます。もう一度、住所を確認させてください」
住所確認のやり取りのあと、電話は切れた。
神主は、春奈のほうを振り返ると、静かに言った。
「電話に出た方にとっても、その方は大事な人らしいですね」
春奈はうなずきながら、晃のほうを見た。眠っている晃は、いまだ青ざめたままだった。