16.憂鬱
万結花が、自分の異変に完全に気づき、さらには代償の真実についても、雅人から聞き出した。
彼女はどう思っただろう。どう考えても、距離を置きたいと思うのが当然だ。
それでも、自分を遠ざけることはなく、護ることは許してくれるらしい。
それだけで充分だ。
そう思うのに、泣きたくなるほど心が痛い。
今だって、今すぐ彼女の元に飛んで行って、抱きしめたいほどに愛おしい。それでも、それは絶対に許されない。
ましてや、万結花がどこまで自分を“受け入れている”かわからないのだ。
万結花本人ではなくとも、雅人にもっと詳しいことを聞けば、向こうの様子もわかるはずだった。
しかし、彼女の意思を確認するのが怖い。
本当は近くに寄ってもらいたくないけれど、身を守ってもらう必要があるから仕方なしに受け入れる、というのなら、心が崩れ落ちてしまいかねない。
だから、訊けない。
今だって、二人とも気を使ってくれたのは間違いない。疲れだって、完全に抜けているわけではない。
それでも、何かしていないと怖い考えに陥りそうで、打ち込み作業を続けている。
それでも、必ずそれにも終わりが来る。
ちょうど一区切りつくところまで、作業を終えてしまったのだ。
作業自体はまだ残っているが、それに手を付ければ下手をすれば終わるころには深夜にになりかねない。
そこまでする必要などないことは、晃自身がよくわかっていた。
ふと気づくと、傍らにはコンビニ弁当が置かれている。
手を止めて、弁当に目をやったことに気が付いたのだろう、和海が声をかけてくる。
「晃くん、わたしたちが食べる分を買ってくるついでに、一緒に買ってきたの。適当に選んじゃったけど、よかったら食べて」
「……すみません、ありがとうございます……」
時間を確認すると、午後七時になろうとしていた。
「私と小田切くんは、もう食べたんだ。あとは、帰り支度をするところだよ」
結城もそう言いながら立ち上がり、実際に帰り支度を始める。
和海もまた、パソコンの電源を落とし、片付けを始めた。
二人の様子を見ながら、晃は傍らの弁当をちらりと確認する。和海は適当に選んだと言っていたが、それは近くのコンビニで自分でもよく買う種類の弁当だった。
きっと、時々自分が買っているのを覚えていて、買ってきてくれたのだろう。
ちゃんと自分のことを見ていてくれているのだ、という嬉しさと安堵感。少なくとも、ここは自分がいてもいいところなのだ、とわかる。
やがて、支度が終わった二人が、席を立って玄関の方へと向かう。
「それじゃ、私たちはこれで帰るが、無理は禁物だ。早く休みなさい」
「体を大事にしなきゃだめよ、晃くん。それじゃ、また明日」
そう声をかけると、二人はそのまま部屋を出て、ほどなく玄関ドアが開き、閉まる音がした。
あとには、ここの二階に間借りしている晃だけが残った。
(晃、さっさと弁当食べて、シャワー浴びるなりなんなりして、休め。あした、授業中に居眠りしたくなければな)
(……いくらなんでも、この程度の疲れで、居眠りなんかしないよ。これから徹夜するわけでもないんだし)
言いながら、晃もパソコンの電源を落とし、ダイニングキッチンへ行って電子レンジで弁当を温めると、それを食べ始めた。
食べながらでも、極力万結花のことを考えないようにして、心がざわつくのを抑える。
食べ終わった空容器をごみを入れるポリ袋に入れると、一度二階に上がって着替えを用意すると、改めてバスルームに向かい、シャワーを浴びた。
ぼんやりしていると、ふと万結花のことを考えそうになるので、意識して頭を空っぽにするように努め、シャワーを浴びて着替えた後は、すぐさまベッドに潜り込む。
疲れている割にはなかなか寝付けなかったが、やがては微睡み、眠りに落ちる。
そして、明らかに悪夢とわかる夢を見て、目が覚めた。
時間を確認すると、早朝の四時だ。無論、まだ辺りは真っ暗である。
「……最悪だ……」
今回は、夢の内容を覚えていた。
万結花が、『化け物を見る目』をしながら、自分から遠ざかっていく。追いかけようとしたところで、体が硬直して足が動かない。
彼女は、顔をこわばらせたままで、逃げるように去っていく。その姿を見ながら、どうすることも出来ずにもがいているうちに、目が覚めたのだ。
あとから考えれば、盲目の万結花が自分をはっきり視認するような行動などしないはずなのだが、夢の中ではそれに気づかなかった。
だから、あれは夢なのだ。そう思っても、現実に起こりそうで気分が落ちる。
額にうっすらと噴き出している、冷や汗とも脂汗ともつかない汗を手で拭うと、晃はのそのそと起き上がった。
普通はすぐに明かりをつけるものだが、暗闇を苦にしない晃は、明かりもつけずにいつも持ち歩いているワンショルダーリュックの中からコンパクトサイズの六法全書を取り出すと、近くに置いてあったフリースジャケットを羽織り、そのまま内容を確認し始める。
今日は、この六法全書を中心に行われる授業のコマを取っている。
その予習と言えば聞こえはいいが、悪夢を忘れたい一心で読みふけっているという側面もあった。
しばらくそうしていると、何とか気持ちは落ち着いてきた。
それから改めて部屋の明かりをつけ、六法全書を再びワンショルダーにしまうと、顔を洗うために下に降りていく。
まだ朝は早いが、二度寝をする心境ではなかったのは間違いなく、六法全書に目を通していたので、完全に目は覚めている。
一通り身支度をして着替えると、再度ワンショルダーの中を確認して忘れ物がないことを見定め、今度は本棚代わりのカラーボックスに並べてある本の中から必修の英語の参考書を取り出し、これも目を通す。
そんなことをしながらも、なんとなく落ち着かない。
それでも一区切りつくところまでは確認し、再度元あった場所に戻すと、晃は立ち上がった。
その気配に気づいた笹丸も、晃の元にやってくる。
ワンショルダーを持って下に降り、朝食の用意を始める。笹丸も、続いて降りてくる。
精神的に余裕があるときには、今日みたいに時間がある朝はベーコンエッグにサラダぐらいは作るのだが、今日はそんな心境になかった。
グラノーラに少し温めた牛乳をかけ、それで朝食とした。
しかし、なんでこんなに落ち着かないのだろう。
笹丸用に、蜂蜜を少し垂らしたホットミルクを用意しながら、晃は自分の調子がおかしいことに戸惑っていた。
(笹丸さん、今日はどうも気持ちがざわざわして落ち着かないんです。まさか、万結花さんに何かあるんじゃ……)
(ひとまず深呼吸でもして、冷静になるのだ。彼女のこととなると、ほんにやるべきことが手につかなくなることがあるの)
(すまん、笹丸さん。こいつ、こういうことに関してはポンコツなんで。とにかく落ち着け!)
遼にポンコツ呼ばわりされ、一瞬むっとした晃だが、すぐにそう言われても仕方がないと気が付き、さらに落ち込んだ。
今日のところは大学へ行き、ちゃんと授業を受ける。それが第一のはずだ。
万結花のことを案じるのはある意味当然ではあるが、だからと言って、授業を放り出してまで駆けつける必要があるほど、切羽詰まった事情があるわけではない。
それどころか、最悪でも今日中には例の水晶玉は万結花の元に届くはずだ。ならば、多少は安心材料になる。
そして、アカネもまたすでに万結花の元にいるのだ。
現時点でやれることはやっている。
それに、今、万結花とまともに顔を合わせられるかと言えば、晃は自信がなかった。
彼女の表情や態度が少しでもおかしければ、いたたまれずにその場を逃げ出してしまうかもしれない。それをやりそうで、自分のことが信じられない状態だった。
やはり、少し冷却期間を置いた方がいいのではないか、と思う。
そして晃は、探偵事務所の面子が出社してくる前に、笹丸を石に封じて事務所になっている建物を出た。
昨日あれだけ気を遣われて、顔を合わせるのがなんとなく気恥ずかしかったのだ。
きちんと鍵をかけ、最寄り駅へと向かう晃だったが、なんだか落ち着かない。何かが起こるような、そんな予感がした。
念のため雅人にメールを送り、注意喚起をすると、ほどなくして『了解』という返信が届いた。
もしかしたら、完全な“嫌な予感”に変わるかもしれない。そんな思いがあったからだ。
しかし晃は忘れていた。“嫌な予感”の対象が、万結花たちだけではないのだということを……