07.異変
持田裕恵の失踪現場に到着したとき、時刻は四時半近くになっていた。
あの晩通りかかったときには人通りがほとんどなかった道も、今は、買い物に行く、もしくは買い物から帰る主婦らしい人が何人も歩いている。
他にも、塾や習い事に向かう子供や、それに付き添う母親といった人々も、幾人か駅へ向かっていた。
「では、ここの角を曲がった直後に、姿が見えなくなったわけですね」
結城が問いかけると、春奈はうなずいた。直後、結城が語調を改めて、静かに語りかける。
「ここまで来る途中、理解に苦しむような言動があったことをお詫びします。すべては調査の一環であり、なおかつあなたの身辺に異変がないか確認するためのものだったのですが、不信感を与えてしまったかもしれません」
結城に続いて、晃が説明をした。
ホーム上でおかしな言動をしたように見えたのは、線路上にいた自殺者の霊に、当日の夜のことを見ていないか確認したもので、実はその霊はその時の二人を見ていたこと。ホームにいたときすでに、春奈が車内で見た防空頭巾の女の子が、持田裕恵の腕にしがみついていたこと、その女の子が、持田裕恵のことを“お姉ちゃん”と呼んでいて、実の姉という感覚で使っていたこと。そして、話をしてくれた霊は、自分が責任を持って成仏させたことなどを話した。
「それで、降りたホームで『変わったことはないかと』所長が尋ねたのは、普段霊を見たこともないはずのあなたが、あのときに限って、ガラスに映ったものとはいえ、霊の姿を“視た”。それがたまたまなら問題はないのですが、女の子の霊と“波長”が合っていて、それで見えてしまったのなら、女の子の霊が、あなたのところにも来るかもしれない。それを恐れて、ああいう質問をしたのです。突然おかしな質問をすると思われたでしょうが、すべてはあなたの身を案じたためです。ですが、能力を持たない人の場合、本当に取り憑かれていても、気づかないことは多い。それで、こんな質問をするより、神社やお寺に行って、お守りやお札を手に入れたほうが余程いいと気が付きまして。本当に失礼しました」
晃が頭を下げると、春奈は戸惑いながらもはいと答え、さらに言った。
「それで今、あたしの周りに霊とか、そういうのはいるんですか」
やはり不安げな様子の彼女を安心させるため、晃は真顔できっぱりと、取り憑いている霊はいないと告げた。
「おそらく、あなたを守っている守護霊と思われる方ならいます。あなたの、母方の曾祖母に当たる方です」
それを聞いた春奈は、急に表情が変わった。心当たりがあるようだった。
「……母方の曾祖母に、あたしが生まれて一週間後に、脳溢血で急に亡くなった人がいます。その人は、ひ孫に当たるあたしが生まれてくるのを、とても楽しみにしていて、あたしの顔を見たあと、『自分が死んだら、この子を守る』と言っていたと、母から聞かされました。子供の頃に聞いた話で、今言われるまで、忘れていたことなんですが……」
「ひいお祖母様は、生前の約束どおり、あなたの傍に寄り添っています」
晃は微笑を浮かべた。
「でも、そうして守ってくれる守護霊がいるのなら、霊に取り憑かれたりはしないんじゃないですか」
春奈が、今ひとつ納得出来ないという口調で問いただす。
「神仏に匹敵するほど強力な守護霊なら、大抵の霊体を退けることが出来るでしょう。ですが、守護霊の力がそれほどでもない場合、“通りすがり”程度の霊なら退けられても、何らかの目的や縁を持ってやってくる強力な霊までは、退けることが出来ません」
晃は、春奈の瞳をじっと覗き込み、言葉を続けた。春奈が息を呑む。
「今回の場合、女の子の霊がどれほどの力を持っているかわかりませんが、彼女がこの『神隠し』を引き起こしたのなら、相当強力な存在です。ひいお祖母様の力を持ってしても、退けられる保証はありません。ですから、より強力な神仏の御力に頼ってくださいと言うことなのです」
それを聞き、春奈の顔がわずかに青ざめた。
「今のところは大丈夫です。だから、今のうちに身を護るものを手に入れておいてください。そうすれば、ひいお祖母様の力添えもありますから、悪霊は近寄ることが出来なくなるでしょう」
「本当に大丈夫なんですか」
春奈が、心細い表情のままで再度確認する。晃は、彼女の不安を取り除こうと、もう一度優しく微笑んだ。
「大丈夫ですよ。よかったら、神社仏閣へ行くのにも、お付き合いしますから」
そこまで聞いて、春奈はやっと落ち着きを取り戻した。
「さて、当日何が起こったか、調べてみるか……」
気乗りがしない様子で、結城がゆっくりと深呼吸を始める。それを見て、春奈が不思議そうに尋ねた。
「当日のことを調べるのに、どうして深呼吸なんかをしているんですか」
「所長は、〈過去透視〉という能力の持ち主なんです。ある場所、あるいはある品物の持ち主が、過去にどういうことに遭遇したか、見ることが出来る能力です。時に、そのものずばりが映像として見えてしまうことが往々にしてあって、注意を要するんですが」
和海の答えに、春奈はにわかには信じられないらしく、首をかしげている。和海は、いたずらっぽく微笑みながら、さらに付け加える。
「結城探偵事務所の霊能者は晃くんだけじゃなくて、わたしも所長も能力を持っているんです。晃くんの能力は図抜けてますけれど。それだから、超常現象の調査も出来るんですよ」
和海の言葉に、春奈はやっと腑に落ちたという顔をする。
そうしている間に、結城は精神統一を終え、ちょうど曲がり角のところに立ち、目を閉じた。そのすぐ傍らには、緊急事態に備えた晃が付き添う。
結城は目を閉じたまま、小声でつぶやき始めた。それは、近くにいる晃にしか聞こえない。晃は、つぶやきを一言も聞き逃すまいと、耳を澄ませた。
「……人が走ってきた。ひとりは小さな女の子。すぐ後ろの女性の腕にしがみついている。いや、女の子が腕を引っ張っている……。……角に来た……無理に腕を……」
ここまでつぶやいたとき、いきなり呻いたかと思うと、結城はうずくまった。
晃が素早く右腕を伸ばして肩に置くと、短いが鋭い気合の声を発する。周囲の人が一瞬こちらを振り向くが、晃は意に介さない。自らの気を込めて、結城を立ち直らせるほうに全力を注いだ。
晃の声には、和海はもちろん春奈も反応したが、二人が見つめているのも気にしない。
結城はしばらくうずくまっていたが、やがてもう大丈夫だとばかりに手で合図をし、立ち上がった。そして、小声で晃に言った。
「すまんな。見てはならんものが一瞬目に入ってしまった……」
「それのせいで、引き込まれかけたでしょう。咄嗟に引き戻せてよかったですけど」
「ああ、感謝するよ。早見くんには、何度助けられたかわからんな」
「おかげで、僕にまでダメージが来ました」
そう言って小さく笑う晃の顔は、やはり心なしか青ざめている。結城のほうは、もっと真っ青だ。二人の元に、和海が駆け寄る。
「大丈夫ですか。二人とも顔色が悪いけど……」
すると結城は声を潜め、クライアントに聞かせたくないので、詳しいことは戻ってから話す、と告げた。そして、わざと明るい声を出した。
「何、ちょっとくらっときただけだ。ここのところ忙しかったからな。早見くんに気合を入れてもらって、どうにかなったよ」
結城がそっと目配せすると、和海は素早く話をあわせる。
「だから、最近スケジュールを入れ過ぎだと言ったでしょう。所長に倒れられると、困るのはこっちなんですからね」
それを聞き、今度は春奈が心配そうな顔になった。
「本当に大丈夫ですか。あなた方に見放されたら、あたし、どうしていいか……」
「それは大丈夫です。あなたのケースが、一番緊急性が高いですから」
和海はそう言って春奈をなだめると、今度は結城に向かって厳しい表情をした。
「所長、緊急性のないスケジュールはカットしますよ。いいですね」
「ああ、わかった。今度のことで懲りた。疲れが溜まっていたせいで、よく見えなかったよ。明日にも、もう一度確認しに来よう。これから休めば、明日には見えるようになるだろう」
結城は、これで現場の位置関係が完全に把握出来たので、今日はこれでひとまず事務所に戻り、明日の朝早くにまた調査をするといった。
「深山さん、あなたは僕が責任を持ってお送りします。途中に、格式の高い神社仏閣があれば、そこで護符などを買い求めたほうがいいでしょう」
晃にそう言われ、春奈はふと思い出したようにこんなことを言い出した。
「……格式が高いかどうかはわからないんですけど、ここから電車で一時間くらい行ったところにあたしの実家があって、その近くにあたしが七五三のお祝いをした神社があるんです。子供の頃、初詣といったらそこでした。そういう神社でもいいんですか」
「構いません。それどころか、産土神であるなら、かえって都合がいいですよ」
産土神といわれ、その言葉の意味がわからない春奈は首をかしげた。晃が説明する。
「産土神とは、その人が生まれた土地の土地神です。縁もゆかりもないところより、そういうところのほうが余程あなたとの縁が深く、立派な守護神となってくださいます」
晃はそのまま春奈に付き添い、結城と和海はひとまず事務所に戻ることになった。
四人は駅まで戻ると、二組に分かれてそれぞれ逆方向の切符を買い、ホームに上がる。
ホームに上がった直後に、下り電車が来た。まず春奈が乗り、晃は乗る直前で振り返ってホームに残る二人に言った。
「それでは、あとで事務所で詳しいことを」
結城がうなずくと、晃は素早く電車に乗り込み、間髪いれずドアがしまる。晃は車内で振り向くと、ホームで見送る二人に微笑みかけ、二人の姿が見えなくなると、近くで吊り革につかまっている春奈の隣に立った。
「そういえば、産土神になる神社は、どういう神社ですか」
晃が尋ねると、春奈は視線を宙に向け、何年もお参りしていないけど、と前置きしながら答えた。
「確か、『月船神社』という名前だったと思いますけど。とてもこじんまりとしていて、地元の人しかお参りに来ないような、小さな神社です」
「それは、本当に、土地の氏神ですね。小さい頃から馴染んでいるのなら、きっと祀られている神様も、覚えていてくださると思います」
春奈は何度もうなずいていたが、不意に尋ね返してきた。
「……ところで、早見さんは本当に、いろいろな霊が見えるんですか」
「“視え”ますよ。普段は、わざと意識を集中しないようにしているんですけど、意識をあわせれば、大抵の場所に霊はいます。大半は、ただそこにいるだけで、害のない存在なのですが、時々性質の悪い霊がいる。たとえば、特に日差しが差し込んで気温が上がるわけではないのに、いやに食べ物が傷みやすい部屋があるとか、普通考えられない出来事が起こっているなら、やはりおかしいと考えるべきでしょうね」
春奈は、不思議そうな顔をしていた。にわかには、ぴんと来ない話だったのだろう。
「すみませんね。こればかりは感覚的なもので、こうだと説明するのが難しいものなのです。この“視え方”にも個人差があって、気配を感じるだけの人から、本当に“視える”人まで、いろいろです。僕は、はっきり“視える”タイプです」
「へえ」
一度異様な有様を見ているだけに、完全に納得しないまでも、何とはなしにそういうものなのだと思ってくれているようだ。
「さっき、『大抵の場所に霊はいる』と言っていたけど、今現在何か見えるんですか」
晃は、軽く周囲に視線を走らせ、ことさら淡々と言った。
「“視え”ますよ。生前の習慣をそのまま続けているサラリーマンの霊とか、偶然入り込んできてしまって、そのまま車内で走り回って遊んでいる子供の霊とか」
春奈の顔が、心なしか引き攣った。晃は緊張をほぐそうと、優しく話しかけた。
「心配しなくても大丈夫です。彼らは、生きている人間には関心を持っていません。生前の行動を繰り返しているだけですから。そこにいるだけの存在です」
それを聞き、春奈は多少は緊張が弛んだようだ。
「……そういえば早見さんは、いつ頃から見えるようになったんですか」
「僕は、物心ついたときには、すでに“視えて”いました。意思疎通が出来るようになったのは、ある程度の年齢になってからですが」
そこまで言ったとき、不意に晃の顔に緊張が走った。
「深山さん、これ以降、僕がいいというまで、僕の傍から離れないでください」
春奈の顔がこわばる。
「どうしたんですか。何か……」
言いかけた春奈を目で制して、晃は小声で耳打ちするように告げた。
「物凄い陰の気の塊が、すぐ近くに来ています。実体化していないので、取りとめもない塊に過ぎませんが、生半可な悪霊など物の数ではないほどの強さの陰の気です。そして、僕にはあの陰気の塊が、あなたに取り憑こうとしているとしか見えない。いいですか、僕から離れないでください。あれは、普通の霊じゃない……」
晃の視線は、ある一点を見つめたまま動かない。春奈もその視線を辿ってみるが、そこには何も見えない。ただ、不思議なことに、 それなりに混んできた車内で、その辺りの直径一メートル半ほどの空間だけが誰も立っていない。まるで、そこに立っていることが出来ないとでもいうかのように。
次の駅に到着し、乗客の乗り降りがあっても、その辺りに立ち止まる人はいなかった。
と、春奈は晃に、見てはいけないと注意された。
「たとえ何も見えなくても、あの辺りをあなたが見ていてはいけない。いいですか、見ていてはいけないんです」
晃は体勢をずらすと、奇妙な空間と春奈との間に割り込むように移動した。
それから、目的の駅に到着するまでの小一時間が、数十時間に思えるほど緊張した状態のまま、二人は無言で立ち尽くしていた。
その間も、どんどん乗客は増えていくのに、例の空間には人がいない。それを見るとはなしに確認して、春奈は背筋に冷たいものが走るのを感じた。
すでに外は真っ暗になり、窓ガラスが鏡となっている。春奈は思わず、窓ガラスに映った空間に目が行きそうになり、気配を察した晃に止められた。
「見てはいけない。あなたは一度、鏡に映った霊の姿を“視て”いる。ここで意識が引き込まれたら、僕でも護りきれる自信はありません」
そして、晃の表情がいっそう厳しいものになった。
「……あれは、普通の霊じゃない。さまざまな人々の怒り、悲しみといった負の感情を糧にして生まれた存在。あともう少し負の感情を吸い続けたら、小さな邪神と呼んでもおかしくないものにまで成長する。あれに取り憑かれたら、人間は破滅する……」
春奈が、体を硬くした。
そのとき、目的の駅のホームへと、電車が走り込んだ。晃が、気配とは反対の方向に春奈を促す。そちらのほうがドアから遠いのだが、陰気に近づきたくはなかった。
人波の隙間をぬうようにして、二人はホームに降り立った。だが、晃の表情からは緊張の色が消えない。一本だけのひなびたホームには、二人以外に人影はなかった。古ぼけた蛍光灯が、頼りない明かりをホームに投げかけている。
「……ついてきている。やはり、あなたを狙っている……」
晃のつぶやきに、春奈は泣きそうな顔になった。そんな彼女を背後から庇うようにしながら、晃は改札へと向かう。
「……産土神の神社まで、どのくらいですか」
「駅から歩いて、十分ほどです。ただ、途中の道が、暗くて人通りがないんです……」
それを聞いて、晃はその道が危険だと直感した。ついてきている陰気は、晃をして、鳥肌が立つほどの圧倒的な邪気を発している。
「いいですか、絶対に僕から離れないでください」
それにうなずいた春奈は、すでに顔色を失っていた。二人は、まるで恋人同士のように寄り添いながら跨線橋となっている駅舎を通り、改札を抜け、街へと足を踏み入れる。