12.術式
アカネはなお、渋っている様子がありありとわかったが、晃の肩がかすかに震えているのに気付き、はっとしたような顔になった。
(どうしたの? あるじ様)
(……ごめん、万が一のことを考えたら、恐ろしくなって……)
その時アカネは、晃の心の動きがわかった。
もし、あの万結花という人がどうにかなったなら、あるじ様は心が壊れてしまう、と。
なら、あの人を護るのも、あるじ様を護ることだ。
(……わかった。わたい、あの人を護る。それで、あるじ様、護ることになる)
(ありがとう、アカネ……)
晃はアカネの体に顔を寄せ、そっと頬ずりをする。アカネもまた、改めて晃のほうに体を寄せ、やはり頭を擦り付ける。
「……アカネが、承知してくれました。これで、万結花さんのボディーガードとして、アカネを付けることが出来ます」
つぶやくようにそういう晃に、他の面子は安堵したような表情になる。
「何とか、説得出来たのね。アカネは実力あるし、きっと勘はいいはずだし、アカネについていてもらえれば、だいぶ安心出来るわね」
和海が、わずかに笑みを浮かべる。
「そうですな。アカネなら、大抵の妖を寄せ付けないでしょうからな」
法引も肩の力を抜き、改めて、持ち込んだペットボトルのお茶を飲んだ。
確かに、アカネの力でどうにもならないとなったら、もはや晃が本気を出して立ち向かうしか手がなくなる事態のはずだ。
あの猿の化け物の実力がどの程度なのか、まだ判然としないところはあるが、アカネが全く太刀打ち出来ないなどということは、まずないだろう。
晃がアカネをテーブルの上に降ろし、いくらか空気が緩んだところで、不意に晃のガラケーが着信音を響かせる。
急いで確認すると、それは雅人からだった。
「もしもし、僕だけど、どうしたんだ?」
晃が問いかけると、電話の向こうの雅人はずいぶんと歯切れの悪い感じでこう切り出した。
「……早見、こうして普通に出たってことは、時間は大丈夫だよな。……悪い、口止めされたこと、万結花に話しちまった……」
雅人は、万結花に問い詰められるまま、“魂喰らい”の代償のことを、しゃべってしまったと謝罪した。
晃は一瞬動揺したが、万結花自身が異変に気付いていたからこそ、事情を知っていそうな兄を問い詰めたのだろうと思い、仕方がないと諦めた。
「……“左手”で触れた時点で、異変にはっきり気付かれたと思ってたから、もう、しょうがないよ」
「そう言ってもらえるとありがたいけど。一応、『誰にも言うな』って万結花には釘を刺しておいたけどな」
例え口止めされなくても、事が重大すぎておそらくは黙っているだろう、とは雅人の弁だった。
万結花は、人にあれこれと言いふらすような質ではないはずだ。まして、こんな重大事、言えはしないだろうし、言ったところで事情を知らないものが聞けば、妄想だとしか思われないだろう。
そういう意味では心配はあまりしていないが、万結花自身がどう思っているのかは、どうしても気になった。それでも、怖くてここで口に出せない。
「……まあ、そういうわけだから、万結花もお前に何が起こったかわかったから、それなりのリアクションはあると思う。おれから言えるのはそのくらいだな。何とか、代償を軽減する方法が見つかるといいな」
「うん、それを願ってる。一応、アカネをボディーガード役として万結花さんにつかせることになったから、多少は落ち着けると思う。それじゃ、また」
「いろいろ骨折ってもらって、すまないな。また、カフェテリアででも顔を合わせような」
雅人からの電話が切れると、晃は大きく溜め息を吐いた。顔色が、あまりよくない。
晃の受け答えで、大体の内容を察した結城たちも、微妙な表情になっている。
「万結花さんに気付かれたのね。まあ、あの左手で触れてるんじゃ、気付かれないほうがおかしいか……」
和海が、つぶやくように口を開く。
「……勘、良さそうだもんな……」
昭憲も、それに同調する。
そして、しばしの沈黙が辺りを支配したが、それを破るように結城が話し始めた。
「……あの状況じゃ、気付かれるのは必然だっただろう。詳細は、雅人君のほうから説明されたんだろう? なら、それはそれでもう良しとしたほうがいい。早見くん、君が気に病むことではないよ」
結城の言葉に、晃はうなずく。
そして、首にかけていた橙色の石の首飾りを外し、テーブルの上に置いた。
「……笹丸さんに、これにかけてある術を変更してもらいます。今までは、僕が念じると、アカネが万結花さんが身に着けているはずの首飾りの石に転送され、そこで外に出る、という形になっていました。でも、それじゃ咄嗟の時に間に合わないことも起こるはずです」
どうしても、晃が異変を察するか、向こうから連絡があるかという形で、ワンクッション挟まれる。
晃が異変を察するならまだ少しは早いだろうが、それでも数秒のタイムラグは生じる。
あの猿の化け物のような攻撃をされたら、間に合わない可能性がある。
だから、術を変更し、万結花が念じるか、アカネ自身が危機を察知した時には自分の判断で出られるようにするのだ、という。
「今までは、アカネがちょっとした好奇心で飛び出すのを防ぐために、こういう術にしてあったんですが、今は悠長なことを言っていられませんから」
そして晃は、自分も力を込めて多少でも万結花が護れるように計らうという。
「この石の術が変更で来たところで、今万結花さんが持っている石と交換するつもりです」
万結花が現在身に着けている物は、晃の力を込めたうえで、アカネを送り込めるように術で門を組み込んである。
それを、初めからアカネが封じられている物に変えることで、タイムラグを出来る限り減らそうというものだ。
万結花が身に着けていた石のほうも、術を変更し、晃が念じればアカネが晃の元に戻れるようにするつもりだという。
「もっとも、それはアカネの精神の安定のためで、僕自身が勝手に呼びつけるつもりはありません。僕と繋がっている、ということを感じられるようにするためです」
「もともとそういう存在であった、というのはわかっておりましたが、今でもアカネのことをそれだけ気にかけておるのですな。あなたがあるじで、アカネにとってはよかったのでしょうな」
法引が、今までのやり取りを見ながらしみじみとつぶやく。
晃は初めから自分があるじになるつもりで行動していたが、元は法引があるじになる予定でアカネを呼び寄せる作戦を立てたのだ。
今となっては、あの時晃は、最初から自分が引き受けるつもりだったのだと、この場の誰もが気が付いていた。
「ところで、その、術の変更というのはどのくらい時間がかかるんだ?」
結城の問いかけに、晃はしばし無言で笹丸と顔を突き合わせていたが、やがて答える。
「笹丸さんによると、いわゆる上書きが出来るそうで、今から始めれば、夜になるころには終わるそうです」
「意外と早いんだな」
結城が感心したようにうなずくと、和海もうなずきながらにこりとする。
「さすが笹丸さんね。いろいろな術を知っているのね」
「出来れば、直接念話で話したいんだけどな。おやじでも向こうから話しかけてもらわないとだめだそうだからなあ」
昭憲が、少し残念そうに天井を仰ぐ。
「ならば、もう少し修行を積んで、『寿栄』として力を付けなさい。そうすれば、念話が通じるようになるかもしれないから」
法引にそう言われ、昭憲は長々と溜め息を吐いた。
とはいえ、いつまたあの猿の化け物が現れるかわからない。
急いだほうがいいのは、間違いなかった。
法引と昭憲の二人は、新たなお守りの材料や儀式の準備を行うため、ひとまず帰宅の途に就き、残った結城と和海は、笹丸やアカネとともに二階に上がる晃の背を見送った。
「……晃くん、ちょっと気になるんだけど、大丈夫かしら……」
和海が、少し心配そうな表情になる。晃が、どこか思いつめたように見えたからだ。
「……まあ、一番知られたくない相手に、一番知られたくないことを知られてしまったんだ。だが、我々ではどうしようもない。何とか、折り合いをつけてくれることを祈るね」
結城はそう言いつつも、やはり案ずるような眼差しを、晃が去った二階への階段がある方向へと向けた。