26.一撃
一番恐れていた事態だった。家族の誰かが人質にされ、脅される。そういうことが起きないように気を付けていたというのに、自分の目の前でそれが起こってしまった。
それを聞いた万結花は、ショックで両手で顔を覆ってしまっている。たとえ目が見えなくても、気配を敏感に察する万結花は、何が起こったのかはっきり理解していた。
自分のせいで、妹が危険な目に遭っている。それを察した万結花の体は、小刻みに震えていた。
「おい、早見。なんとか出来ないのか?」
相手に聞こえないように、小声で雅人が聞いてくる。
「あの結界を破る実力があるなら、以前闘った鬼とおそらくは互角以上の力を持っているはずだ。そうなると、かなり対処が難しい」
晃もまた、小声で答える。
今の晃の実力では、本性を現しても一撃で浄化することは無理だった。残る手段は“魂喰らい”だが、それとて一撃で喰らい尽くすことは難しい。
だが、一撃で一気に勝負を決めなければ、囚われている舞花に危険が及びかねない。
相手が動けなくなるほどの打撃を与えられればいいが、純粋な力だけを見れば、消滅させたあの鬼より、こいつのほうが力がありそうだ。
そうなると、仕留めきれずにあの鎌が舞花の首筋を切り裂くという、最悪の事態を引き起こす可能性すらあるのだ。
万一頸動脈を切断されたら、救急車を呼んだところで間に合わないだろう。
ならば……
「……川本、お前、あいつの注意を引き付けていられるか?」
小声で、晃が雅人に訊ねる。
「そりゃ……やれって言われれば何とかするさ、妹を助けるためだ。けど、お前何をするつもりだ?」
「一つだけ、どうにか出来る可能性のあるものがある。それを試す」
真顔でそう告げる晃に、雅人は少し怪訝な顔になった。
それでもあの早見の頼み、妹を救うためにもやるしかない。
雅人は、わざと一歩前に出て、大声で叫んだ。
「この化け物! 妹を離せ!!」
すると、黒い妖は雅人のほうにのっぺらぼうの顔を向け、威嚇するように全身の毛を逆立てる。
その隙に、晃は素早く食器棚に張り付くように隠れ、妖の視界から見えにくい状態となる。そして遼の力を呼び込み、本性を現すと、<念動>で体を浮かせて食器棚の上に音もなく上がると、天井との間の空間を静かに移動し、妖の背後に回り込める位置でタイミングをうかがう。
その間にも、雅人は強い口調で妖に相対していた。
「早く舞花を離せ! この化け物が!!」
『愚カ者メガ。コノ女ガドウナッテモイイノダナ?』
妖は、まるで含み笑いでもしているような声を出した。
そして、さらに鎌がわずかに動き、血の筋が太くなる。
「……お兄ちゃん……」
舞花の目に涙が浮かび、体が震える。雅人は、唇を噛みしめた。だが、万結花が何かを言おうとするのを『万結花!』と短く制する。
その時だった。
晃が、妖の背後に飛び降りざま、左腕を振るう。一瞬、晃の気配が爆発的に膨れ上がり、振り下ろされた左腕は、微かに光ってさえ“視えた”。
刹那、妖は後ろを振り返りかけ、そのまま姿が薄れていき、掻き消すように見えなくなった。否、晃に喰らい尽くされた。
舞花がその場にへたり込むのと、ぐらりと揺れた晃の体が食器棚にぶつかって、中の食器が甲高い音を立てるのが同時だった。
「早見!!」
雅人が慌てて駆け寄る。舞花も驚いて振り向いた。
食器棚に寄り掛かるようにしてぐったりしている晃を抱き起した雅人は、息を飲んだ。
(……お前、またやったのか!?)
血の気の感じられない蒼白の顔、呼吸さえも弱々しく、仮死状態なのではないかと思われるほど、生気の失われた体。
雅人が、その姿を見るのは三度目だった。
晃が、命を削って倒れたその姿を。
「……は……早見……さん……?!」
舞花が、事態に気づいて顔色を変える。その体が、またも震え出した。大きくはないが、確実についた首の傷から流れる血が、その襟元を汚していくのも気が付かないままに。
万結花もまた、晃の気配に異常を感じ、何があったか悟ったらしい。テーブル伝いに雅人のほうに歩み寄ると、震える声で話しかける。
「兄さん、晃さん……もしかして、また命を削ったの……?」
雅人は、答えられなかった。事実が重すぎる。それでも、万結花は全てを悟った顔で目を閉じ、うつむきながらつぶやいた。
「……ごめんなさい……」
空気が重苦しくさえ感じたが、このままにはしておけなかった。
「とにかく、連絡しないと。松枝先生に、探偵事務所に、和尚さん……」
雅人はスマホを取り出すと、次々に連絡をした。
松枝医師からは、すぐに迎えに行くという返事が来た。探偵事務所の所長は秘書とともに、今の仕事が一区切りつき次第、松枝クリニックのほうに直行すると言う。
法引はと言うと、結界を修復するためにこちらに来ると告げてきた。
一通り必要なところに連絡をし、最後にまだパートに行っている母の彩弓に一報を入れて、雅人は気が抜けたように天井を仰いだ。
どうして、どうしてまたやったのだ。
今度は、一気に四年分の寿命が削れるというのに。今までと合わせて、削れた寿命は八年分にもなるというのに……
確かに、舞花を助けて欲しかった。だからといって、これでは……
その時雅人は、いつかの遼の言葉を思い出した。
『あれは、どうしようもなくなった時の最後の切り札。超常の力と同時に使うことも出来る』と。
妹を助けるために、一撃で終わらせるために、その切り札を使ったのか。
(ほんとに、馬鹿だろう……。どうして……どうしてここまで出来るんだよ、お前は……)
今の自分では、あちこちに連絡することは出来ても、それ以上どうすればいいのか、もうわからない。
ぐったりと意識のない晃の体を抱き起した姿勢のまま、雅人は途方に暮れていた。
* * * * *
その日、苅部那美は午後七時半ごろに帰宅したが、帰宅直後に気が遠くなった。
そして、彼女の意識が別物になった直後、部屋の中に鬼が姿を現した。
『漸鬼よ、またもあの霊能者に潰されたようじゃな』
那美の口から、壮年の男の声がこぼれる。
『はい。一時弱っていたものを、他の妖やら何やらを喰わせ、虚影様に力を注いでいただいたゆえ、相当な実力を持つに至ったと感じたのですが……。件の霊能者の力、計り知れぬところがございます』
双方が、“女のような顔立ちの若い男”の姿だという、その霊能者の存在を、疎ましく思った。
『そうじゃな。試みに、いくつかの雑霊を混ぜ合わせて創り出した妖じゃが、まだ何かが足りぬというところか』
『しかし、ひとまずどれほどのモノが創れるかということがわかっただけでも、収穫かと』
『まあ、そうかも知れぬ。今度は、もっと強力なモノを土台に、新たなモノを創ることにしようかの。漸鬼よ、他の者どもとともに、材料となるモノを集めてくるのじゃ。よいな』
『御意』
漸鬼の姿は掻き消え、後には那美の体を乗っ取る形の虚影が残った。
『さてと、多少は手ごたえもあったようじゃしな。今度は、どのようなモノを創り出してやろうかのう……』
短い含み笑いの後、不意に気配が変わる。
「……なんだろう、疲れてるのかな……」
自分が一瞬意識を飛ばしていることに気づいた那美が、ゆるく頭を振って溜め息を吐くと、とにかく何か食べようと、キッチンへと向かって歩き出した。