25.人質
どうせやってくればわかることだし、と雅人は、これから晃が来ることを妹たちに告げる。
反応はそれぞれだった。
それを聞いた途端、顔を上気させてはしゃいだ様子を見せる舞花に、訝しげに首をひねり『急にどうしたのか』と当たり前の疑問を口にする万結花。
さすがに、万結花のほうが冷静なようだ。
「あいつの“悪い予感”ってやつだ。この家で何かが起こりそうだって、そう言ってたぞ」
雅人の言葉に、万結花は顔を曇らせる。
「……それって、あたしが絡んでるんだよね、きっと……」
万結花の考えは、おそらく間違っていない。晃があんなに急いでこちらへ来ると言っていたのだ、万結花やその周辺に何か異変が起こると感じたからこそのはずだ。
「ねえお姉ちゃん、そんなに深刻そうな顔しなくても、早見さんならきっと何とかしちゃうよ。大丈夫だよ」
舞花は、万結花の不安を打ち消すように明るく話しかける。素直にそう思っているのだろうと感じられるそれは、能天気にさえ感じた。
「舞花、お前はほんとにお気楽だなあ。夢の世界に巻き込まれたことを忘れたか。ちょっとは警戒しろよ」
雅人に言われ、舞花は頬を膨らませながらも、しぶしぶうなずく。
「わかったよ、お兄ちゃん。でも、まだ昼間だよ?」
「昼間だろうとなんだろうと、力が強い奴は襲ってくる。鬼に襲われただろうが。あれだって真っ昼間だぞ」
雅人の指摘に、舞花は思いだしたように顔をしかめた。
兄妹がそんなやり取りをしたしばしのち、晃が本当に訪ねてきた。
今回は、結城探偵事務所の二人は別件で出払っており、連絡を入れたうえで一人で先行してやってきたのだという。
出迎えた雅人は、真顔で相対する晃にこちらも表情を引き締めた。
「とにかく上がれ。それで、どう“嫌な予感”がしたんだ?」
晃をひとまず二階の自室に通しながら、雅人が尋ねる。
「……はっきり何があるとか、ピンと来たわけじゃない。でも、これから明日の朝までの間に、この家で何かが起こる。それだけはわかるんだ。だから、来た」
晃の“嫌な予感”がどれほど当たるかは、結城や和海から聞いて知ってはいた。
神社めぐりなどをしたとき、何か起こった時には必ずその前に、“嫌な予感”がすると晃が言っていたことなどを。
今回も、晃としてはどうしても一人の胸の内に納めてはおけないほどの“嫌な予感”に襲われ、川本家にやってきたのだ。
あまりにも、とるものも取りあえずでやってきてしまったため、いつもなら首にかけている、笹丸やアカネを封じることが出来る石の首飾りを、身に着けることさえ忘れてきてしまった。当然、両方とも置いてけぼりを食っている。
「おそらく、お守りとして渡してある品を通じて、この家の気配を感じることが出来るようになっていたせいだと思うんだけど」
この家で何かが起こる、というのを感じたのは、おそらくそのためだろう、と晃は言う。
「しかし、だとすると結界を突き抜けて何かが入ってくるとか、そういうことが起こりうるってことか?」
雅人の問いに、晃はかすかに首を横に振りながら、妙に冷静に答えを返す。
「わからない、でも、ありえないことじゃない。結界といったって、人が張ったものだ。破られるときは破られるよ。今までだって、そういうことはあったじゃないか」
それはその通りだ。結界が破られたことは、実際にあった。
その破られた結界を、遠隔でふさいで見せたのが晃なのだが。
ここでいつまでも雁首揃えていても仕方がない、下で舞花や万結花の様子を見ていないと危険かもしれない、ということで、雅人と晃は連れ立って下に降りた。
下に降りたところで、いきなり舞花に出くわした。どうやら、降りてくるのを待ち構えていたらしい。
「あ、あの、これ、お姉ちゃんと二人で作りました。食べてみてください!」
舞花が、皿に敷かれたペーパーナプキンの上に並べられたクッキーを晃に向かって差し出す。ちょいと後ろを見ると、一歩下がったところに万結花もいて、神妙な顔でやり取りを聞いているようだった。
「え、あ、そ、そうですか……」
晃も唐突に差し出されたクッキーに戸惑っていたが、それでも一枚手に取ると、口に運んだ。
「……うん、おいしい。よく出来てますね」
そう言って微笑む晃に、舞花はもちろん、万結花も嬉しそうに顔をほころばせた。
「よかった。分量を量るのは私で、お姉ちゃんはそれを混ぜ合わせたり、こねたりしたんです。お姉ちゃん、手に伝わる感覚だけで、生地がどうなってるかわかっちゃうんですよ」
「晃さんに、『おいしい』って言ってもらえて、本当によかった」
嬉しそうな二人に、『落ち着けるところで、ちゃんと食べてもらったほうがいいんじゃないか?』と雅人が声をかけ、とりあえずダイニングキッチンへと皆で移動した。
テーブルの上にクッキーを乗せた皿を置き、さてと向き直ったところで、晃が異変を察知した。
「……おかしい。外に大量にいたモノたちの気配が、急に感じられなくなった。何かある」
つい今しがたまで、川本家の上空には、有象無象の妖、物の怪、雑霊のような存在が大量に張り付き、異様な気配に包まれていた。
それが、急に感じられなくなったというのだ。
「おい、何があったんだ!?」
雅人が顔をこわばらせて問いかけるが、晃も真顔になったまま首を横に振る。
「わからない。でも、確実に何かが起こった。いいか悪いかで言えば、おそらく悪い方だろうね」
普通なら、大量にいた異様な存在が姿を消したのなら、ほっとしてもいいものだが、何の理由もなく消えるはずがないと思えば、事態が悪い方へ進行していると思ったほうがいい。
その時だった。
突然、まるで地震のように家が揺れた。
全員が、一瞬足を取られそうになるほどの揺れ。だが、物が落ちてくるわけでもなく、いすやテーブルが動くこともない。
「……これは、物理的な揺れじゃない。霊的な空間振動みたいなものだ。ばらけないで、集まって!」
晃の言葉に、晃の近くに他の三人が近寄ろうとした、その刹那。
晃は感じた。結界が破られたと。そして、結界を破ったモノが、こちらに向かっていると。
次の瞬間、テーブルを回り込む形になって一歩遅れた舞花の背後に、黒いものが出現したかと思うと、それが彼女に絡みつく。
「いやぁ!」
黒いモノはたちまち人型となり、毛むくじゃらの姿に実体化し、背後から舞花を羽交い絞めするような形になった。
顔に当たる部分は妙に青白く、なんとなく目鼻立ちのようなものが浮かび上がってはいたが、はっきりと形が現れているわけではなく、のっぺらぼうにさえ見えた。
頭部から背中にかけて、太く黒々とした長い毛が生え、まるでたてがみのようだった。全身は、黒く短い毛におおわれ、手に当たる部分は指がなく、まるで刃渡りニ十センチほどの鎌のように見える形になっており、その鋭くとがった右の鎌の部分が、舞花の首筋に押し当てられている。左の鎌の先は、舞花の鳩 尾の辺りに突き付けられていた。
その様を見て、その場の誰もが息を飲み、動きを止める。
舞花自身は、ほんの一瞬だけ抵抗しようとする動きを見せたが、鎌の先端が当たっている舞花の首に、赤いものが見えたかと思うと、一本の細い筋となって血が流れる。鎌が、舞花の肌にわずかに刺さっているのだ。
痛みで鎌が刺さっていることに気が付いた舞花が、泣きそうな顔で体を硬直させる。
「……助けて……。お兄ちゃん……早見さん……」
しかし、誰も迂闊に動けない。
「……しまった。外の気配が消えたのは、こいつの餌になったんだ。外にいるモノたちを吸収したことで、結界を破る力を得たんだろうな……」
晃が、微かな焦りと憤りが入り混じる表情を見せる。
と、舞花を捕らえている黒い妖のほうから、くぐもった無機質な声が聞こえる。
『“贄ノ巫女”ヨ、禍神様ニ従エ』
相手は、明らかにそう聴こえる言葉を発した。
「……やはり、そういう事か……」
晃の顔が、苦悩に歪む。