05.困惑
春奈が勤めている会社の、正面玄関前に四人がやってきたのは、午後三時半になるころだった。
そこは五階建ての自社ビルで、建てられてからそう経っていない。会社は本来休みのはずだが、一部の社員が休日出勤しているようで、玄関は開いていた。
「当日、ここを出たのは大体何時頃でしたか」
結城の問いかけに、春奈は首をかしげながら、午後七時半頃だったと答えた。
「この場所で待ち合わせをして、二人でJRの駅近くの居酒屋へ行ったんです。今にして思えば、そのときからすでにおどおどしてました」
それを聞き、和海と晃は念のために周囲を“視て”みた。
「……戦時中の霊はいませんね。十年位前の、交通事故で亡くなった人の霊はいますが」
「わたしも、その霊ははっきり感じるわ。会社のすぐ近くのT字路にいる人でしょう?」
二人の言葉に、春奈が不安そうに尋ねる。
「あの……そういうのって、祟りとか、ないんですか」
晃が静かに向き直り、安心させるように穏やかな口調で語りかけた。
「大丈夫です。ただ、思念がそこに張り付いてしまっているだけで、何もしません。唯一案じられるのは、本人が“死んでいる”事に気づいていないということですね。それもどうやら、この会社の社員だった人のようです。自分の仕事が気になって、今でも時々会社に“出勤”しているみたいですね」
それを聞いて、春奈が真っ青になった。先輩から、いろいろ“怪談話”を聞いていたからだ。彼女自身は体験したことはないが、先輩の中には、夜、誰もいないはずの廊下を歩く足音を聞いたとか、無人のエレベーターが勝手に動いていたとか、そういう現象を体験した人が何人もいたのだ。
「その人がやっていたんですか?」
「おそらくはそうでしょう。でも、本人は自分の仕事を片付けようと思っているだけで、社員の人に悪さをするつもりはまったくないんです。気になるなら、お祓いをしてもらえばおさまるでしょうが、僕個人の判断としては、する必要はない霊ですよ」
そのとき、背後から声がした。
「深山さん、今日は休みだったはずじゃないの」
声の主は、春奈と同じ部署のひとつ上の先輩OLで、高橋基子という女性だった。基子は、春奈に声をかけたあとで、彼女の周りにいる見知らぬ男女に気がついた。
「深山さん、その人たちは……」
「あ、高橋さん。この人たち、あたしが頼んだ探偵さんなんです。持田さんを、あたしも探そうと思って……」
基子は、一瞬胡散臭そうな顔をしたものの、すぐに晃に気づいて目を丸くした。それを察した晃は、自分から口を開いた。
「突然部外者が現れて、さぞ不審に思われたでしょう。僕たちは、姿を消した持田裕恵さんの足取りを確認するために、当日どこで何をしたのか、その現場を見ようとやってきたのです。建物の中に入るようなことは決してありません。これから、JRの駅へ向かうつもりです。お騒がせしました」
晃が頭を下げると、基子もつられたように頭を下げる。
それを見て、結城が小声でつぶやいた。
「こういうとき、早見くんの容貌は最強の武器だな」
結城の言葉が聞こえていない和海が、愛想笑いを浮かべながら皆をJRの駅へと誘おうとする。
「それでは、わたしたちはこれで。さ、次の場所へ行きましょう」
晃がそれに呼応し、基子に向かってもう一度会釈をする。
「本当にお騒がせしました。では、もうこの場を離れますから」
「あ、い、いえ。こちらこそ、お役に立てませんで……」
基子は、顔を赤らめながらやはり愛想笑いをする。
「それじゃあ、失礼します。高橋さん」
最後に春奈がだめを押し、四人は玄関を離れた。基子はそれを呆然と見送っていた。おそらく彼女にとっては、夢か幻のような時間だっただろう。
JRの駅は、先程霊視をしたT字路の方向だった。T字路をまっすぐ行くと、駅にたどり着く。春奈は不安そうだったが、晃や和海は逆に落ち着いていた。その霊に、誰かに被害を及ぼしそうな気配が、一切感じられなかったためだ。
「あの、さっき霊がいるって言っていましたよね。その霊って、どこにいるんですか」
春奈が、どこか怯えたような様子で晃に問いかける。
「怖がらなくても、大丈夫ですよ。霊なら、そこの横断歩道のこちら寄りのあたりに立っていますが、何もしませんし、僕たちのことはまったく眼中にないですから、そのまま普通に通り過ぎればいいんです」
晃が、優しく言い聞かせるようにして春奈を落ち着かせた。どうも春奈は、晃が声を掛けさえすれば、不安を忘れて落ち着きを取り戻す気配が顕著になってきた。それが逆に、晃の困惑をひどくする。しかし、そうするしか晃に選択肢はない。
程なくT字路を通り過ぎ、やがて駅前に近づいたことを示す、賑やかなネオン看板が飾られた飲食店などが目に付くようになった。
「ところで、あなた方が当日立ち寄った店というのは、どの店ですか」
結城が問いかける。
「あ、はい。そこの、チェーン店の店です」
春奈が指差したのは、洋風居酒屋チェーン店だった。さすがに、入り口にはまだ準備中の札が下がっている。
「まだ閉まっているんですけど……」
春奈が困ったような顔をして結城を見たが、結城はこともなげに言った。
「店の中を見るわけではありませんから、平気ですよ。では、ここでもう一度霊視をしてみますから」
結城の言葉に、和海と晃が周囲をゆっくりと見回し始める。
「元々生前この辺の店の常連だった霊や、賑やかなところが好きな浮遊霊が、何人か集まり始めているのが見えますが、特にどうということはないですね。皆、ここ数十年のうちに亡くなった人ばかりで、戦時中まで遡れるような古い霊はいません」
あっさりとそう言った晃に、春奈がまたも不安そうに尋ねた。
「霊って集まるんですか。それ、なんだか嫌な感じなんですけど」
「心配要りませんよ。賑やかな雰囲気が好きで、飲んで騒いでいる人の傍らで、自分も一緒に騒ぎたいだけなんですから。たまに、気に入った人のところにくっついていってしまうケースはあるみたいですが」
「いわゆる“お持ち帰り”ね。たいていが、一回、二回相手を驚かせるだけで、長居する霊はあまりいないはずだけど、時に除霊しなくてはいけなくなる場合があるんですよ」
和海が、少し声色を変えて答える。その直後に、すかさずおどけた口調にしてこう付け加えるのも忘れなかった。
「そこまで行く例は、めったにないですけど」
「もう、脅かさないでくださいよ」
春奈がむくれた。
「ああ、すみません。大丈夫ですよ。それに今は昼間ですから、そんなに強い霊はいません。いたとしても、あなたには近づけさせませんから、安心してください」
晃がなだめると、春奈は相好を崩した。
「それじゃあ、あなたが守ってくれるんですね?」
瞬間、晃はしまったと思った。ここで“いいえ”と答えるわけにいかない。
「はい。必ず何事もなく切り抜けますから」
晃の言葉に、春奈はどこか甘えたような声でよかったとつぶやいた。
「あたし、裕恵のことがあって、ずっと不安だったんです。あなたみたいな人に守ってもらえるなら、安心出来ます」
春奈の反応に、和海も結城もますます当惑を深くする。
春奈は、にこやかに微笑みながら、晃のすぐ傍に寄り添うようにしていて、晃はどこか引き攣った笑みを貼り付けたまま、気をつけの姿勢になっている。しかも、視線が宙を泳いでいるのがよくわかる。双方の精神状態が、如実に現れていた。
「……引き離さなきゃいかんかな」
小声で話しかけてきた結城に、和海がうなずく。
「……そうですね。あれじゃあ、晃くんが実力を発揮しきれないかも知れないですね。だからといって、露骨にそれをやっては、クライアントとの信頼関係が崩れかねない。どうしたもんでしょうか……」
二人は自然に、眉間にしわを寄せていた。春奈はそれに気づかぬ様子で、晃を見上げて微笑んでいる。
(遼さん、どうしよう。完全にはまったよ……)
(……墓穴を掘ったな、晃。だからといって、邪険にも出来んしな、依頼人だし)
(そうなんだよ。それに、心霊的に何かあった場合、護らなくてはいけないのは間違いないし。この人が『神隠し』に遭うなんてことは、絶対に防がなくてはならないし……)
とにかく結城が当日の足取りを辿ろうと口を開き、晃はほっとしたようにそれに従った。