15.病室
遮光カーテンの隙間から、朝の光が差し込んでくる。
やっと朝が来た。
晃は病院のベッドの上で、まともに動けぬ自分を呪っていた。
夜中に急に目が覚め、アカネを通して結界を破ろうとしているモノに気づいた。
しかし、介入出来るほどの力が今現在残っていない。
結城と、それを遠隔で支える法引の奮闘ぶりを、ただ“視て”いることしか出来なかった。
夜明け間近になって、あの異様なモノは去ってくれたが、結城は消耗してフラフラだった。おそらく法引も、似たような状態だろう。
とにかく、結界が破られなくてよかった。
一夜が明け、晃は再び微熱に悩まされる状態になっていた。逆に言えば、少しは抵抗力が出て、熱を出す余地が出来たというべきだろうか。
今回は、そろそろ腕の血管ではうまく針が刺さらなくなってきたということで、手の甲の血管に点滴針が刺さっている。
おかげで、針が刺さっているところが鈍く痛む。やはり、手は敏感なのだ。
鼻と口には、薄緑の透明プラスチックの酸素マスクがかぶせられている。一応、義眼も外され、貼り付けるタイプの眼帯が付けられていた。
今回は、処置の間中意識はあったので、自分が何をされているかわかっていた。
(向こうが、何とか切り抜けられてよかった。それにしても、手の甲の点滴、微妙に痛いな……)
(仕方ないだろ。ほかに点滴の針刺せそうなところがないんだから。しかし、向こうに出たのは、ありゃなんだ?)
(あれも一種の物の怪なんだろうけど、あれがまた来たら、厄介だね)
(お前なら、一気に吹っ飛ばして浄化出来るだろうが、他の人だと和尚さんぐらいだな、真正面から対峙して、なんとか出来そうなのは。所長さんは、よく頑張ったよ)
アカネの目を通せば、向こうの様子はわかる。“なんとなく様子が知れる”程度の繋がりで止めておけば、そんなに負担はかからない。
だが、介入出来ないのが本当にもどかしかった。力を出せないのだ。
もし、自分が介入出来るほど回復する前に、どうしようもなく強力な存在が現れたら……
その時は、幽体離脱をしてでも向こうへ行って介入するほかはない。
ただ、そのようなことをしたら、ますます回復は遅れるだろう。そうならないことを祈るしかない。
そういえば、アカネや笹丸が、結界の中と外を自由に行き来出来れば、迎撃も出来るだろうというようなことを、結城が考えていたようだ。笹丸がそれを読み取り、アカネを通じて知らせてきた。
確かに、少し危険かもしれないが、アカネなら大抵の存在を迎撃出来るだろうことは確実だった。
しかし今の自分には、あの二体が結界に影響を与えずに行き来出来るようにするだけの力が出せない。
結城や法引では、そういうことはまず無理だ。
しかも、アカネとは意思の疎通が困難だ。もちろんアカネは、言われなくても状況に応じて動くだろう。だが、連携を取るのは難しい。
阿吽の呼吸で連携が取れるほど、アカネに慣れている者などいない。
そんな時に、肝心の自分はベッドに縛り付けられている。
体調としては、微熱が出てだるさが増したが、息苦しいということはないので、今のところ重症化する気配はなさそうだ。
だからといってまともに動けるはずもなく、酸素マスクをつけてベッドに横たわることになっている。
すると、文子がドアを開けて中に入ってきた。
「おはようございます。気分はどう?」
「……おはようございます。悪くありませんけど……熱があってだるいです……」
それを聞き、文子は早速熱を測った。
「三十七度六分ね。解熱剤を使うほどじゃなさそうだけど……」
さらにてきぱきと血圧を測り、血中酸素濃度を測り、記録していく。
「血圧は、上が百十、下が七十一。酸素濃度は九十三パーセント。やっぱり正常値より低めだわね。肺炎が、悪くなってないといいけど」
溜め息交じりにそう告げると、文子は『もう少しで院長先生が来ますからね』と言い残し、部屋を出て行った。
今の時間はわからないが、外来診療が始まる前の時間だろう。
ほどなくして、松枝が部屋に入ってきた。
「おはようございます。熱が出てだるいそうだね」
「……おはようございます。……また、微熱が出てきて……」
松枝は、パジャマの前をはだけて晃の胸に聴診器を当てる。
しばらくあちこちの音を聞いていたが、晃の体に手を添えて横向きにし、背中にも聴診器をあてて音を聞いた。
そして、体勢を元に戻してパジャマのボタンを留め直すと、口を開く。
「今のところ、それほどひどい状態にはなっていないみたいだね。心音もきれいだし、呼吸音も雑音はほとんどない。ただ、油断は禁物だ。肺炎の症状がちゃんと落ち着くまで、おとなしくしているように」
松枝の言い方はまるで、晃がおとなしく寝ていないでどこかへ行きそうだと思っているようだ。
まあ、いよいよとなったら、幽体離脱も考えてはいるので、あながち間違いではない。
ただ、回復していない状態でそのようなことをしたら、再び病状が悪化しかねないというのは自覚しているので、それはもちろん本当にどうしようもなくなった時の緊急介入の場合のみだと思ってはいる。
「……君を見ているとね、なんだか危うく思えてならないんだ。普通の人なら絶対にやらないことを、平気でやりそうに思えてね。そもそも、自分の命を削るなんて真似、普通は出来ない。それをやる君が、どうにも見ていられないところがあって……」
松枝は、もう一度『おとなしくしているように』と念を押し、毛布を掛け直して病室を出て行った。
(なんとなく、あの先生には見透かされているような気がするんだよね)
(う~ん。どこまで気づいてるかはわからんけど、なんか直感的に“やらかしそうだ”と思っている節はありそうだなあ)
(僕も、それは思った。あの先生、何か感じ取ってるみたい。……いつか、先生にも本性を打ち明けるときが来るのかな……)
(さあなあ……。でもあの先生、何回も接しているうちに自力で正解にたどり着きそうな気配があるから、侮れないと思ってるんだが)
大学の同期だという法引によれば、“きちんと修行すれば自分と並ぶほどの力を持っている”と言い切るほどの、霊能者としての素質を持っているという。
自分の本性を一目で見破った法引と同格の素質なら、目覚めていなくても何かを感じている可能性はある。
それを考えると、本当におとなしくしていなければならないだろう。緊急事態が起きない限り。
晃はもう一度、アカネに意識を合わせる。
どうやら結城は、川本家の人々に呼ばれて事情を説明していたらしい。
今日は、俊之以下、雅人も万結花も舞花も、会社や学校に行かなくてはいけないはずだ。
家族を送り出した後、彩弓もパートに出かける。
本来なら、いつも通りの平日の朝のはずだ。それが、結城の報告によってそういう雰囲気ではなくなっていた。
結城もまたいったん帰宅し、改めて身支度を整え直して事務所に顔を出すことになるはずだ。
晃は意識をこちらに戻し、ゆっくりと深呼吸した。
遠隔で念を送り続けた法引も、今頃休息を取っているはずだ。そうでなければ、本人が川本家に来るにせよ、誰かのサポートを遠隔で行うにせよ、体力が追い付いていかないはずだった。
なんにせよ、今日も誰かが川本家に来るはずだ。
今日の未明に現れたあの異様なモノが、また姿を現すかもしれないからだ。
あれの正体はまだわからないが、間違いなく禍神の息がかかっているモノのはず。
結界が持ってくれればいいが……
晃は、自分が退院するまで、皆が持ちこたえてくれることを祈った。
* * * * *
それは、夜が明ける前のわずかな時だった。
辺りがうっすらと明るくなり始めたころ、すでに起きて身支度を始めていた苅部那美は、不意に気が遠くなるのを感じた。
一瞬だけよろけたその体は、すぐさま踏みとどまり、その背を真っ直ぐに伸ばす。
すでにその眼は金色に光り、額に赤く逆三角形の印が浮かぶ。
『……漸鬼はおるか』
壮年の男の声がその名を呼ぶと、漸鬼が部屋の中に姿を現し、跪く。
『ここにおりまする』
『夢の介入は失敗じゃったようだが、例の奴はまだ健在のようじゃの』
『はい、どういうわけか、件の霊能者の姿はなく、ただ結界が破られぬようにしていただけであったようでございます』
それを聞き、虚影はふむと顎に自分の右手を添えてひと時黙ったが、やがて口を開いた。
『あの夢魔の最後の悪あがきが、功を奏したのかも知れぬ。さすがにあれでやられるような存在ではないじゃろうが、いくばくかでも打撃を与えられたなら御の字というやつじゃ』
『そうでございますな。ならば、しばらくあれを張り付けておきますか?』
『そうじゃな。それでもう少し様子を見るとしよう。うまくいけば、“贄の巫女”に肉薄出来るやもしれぬからの』
『はっ。それでは、手筈通りに』
漸鬼の姿はかき消すように見えなくなり、ほどなく那美の目が普段の色に戻り、額の印もわからなくなった。
「……あれ、今何を……?」
慌てて時間を確認してみたが、意識が飛んでいた時間はわずか一、二分。立ち眩みでもしたのだろうか、と思い、あまり深く考えずに出勤の準備を進める。
生活するためにも、仕事にはいかなくてはいけないからだ。
やがてすべての支度を終えた那美は、すっかり明るくなった冬空のもと、出勤していった。