13.反省
彩弓が、いくらか茫然としたまま、すでに通話終了しているスマホをゆっくりと耳から離して、スラックスのポケットにしまったまま立ち尽くす。
「……早見さんが、肺炎。いくら初期だからって言っても、本当に大丈夫なのかしら……」
彩弓が電話中に思わず叫んでしまった“肺炎”という単語に、部屋の空気は張り詰めたようになっていた。
「おい、雅人は正確には何と言ってたんだ。ちゃんと話してくれ」
俊之に言われ、彩弓は息子に電話口で言われたことを、ほぼオウム返しのように告げる。
それを聞き、この場にいる誰もが押し黙った。
いくら初期とはいえ、肺炎だ。しかも、どのくらいで退院出来るか、まったくわからないとなれば、晃が退院してくる前に何かあったら、晃抜きで対処しなければならないということになる。
だからこそ、アカネをこの場に残したのだろう。アカネなら、多少の存在は蹴散らせる。
「……わたくしは、後で昭憲に連絡を取ってみます。数がいれば、多少は安心感があるでしょう」
法引の申し出に、和海が頭を下げる。
「お願いします、和尚さん。昭憲さんには、いろいろ悪いけど……」
「何、場数を踏めば、自然とおのれの力も磨かれるでしょう」
あたりはすっかり暗くなっている。
夢魔との戦いは今朝がたのことだが、だからといって今夜何もないとは言い切れない。
念のために、結界を強化していくことになった。
一応、晃自身が“特にまずいところはない”と確認はしているものの、それでも結界を強化しておかないことには、どうにも落ち着かなかった。
この場にいる法引と和海で、結界の核になっている護符に力を込め直し、結界の強化を行っているうちに、結城と雅人が戻ってきた。
聞けば、結城がタクシーを拾って、二人で帰ってきたという。
しかし、二人とも表情がなんとなく暗い。
「早見くんだが、思っていた以上に悪い状態だったな。今回は、長引くかもしれない」
それを聞き、法引も和海も溜め息を吐いた。
「そうなると、いよいよわたくしたちだけで、対処しなければならない事態になる可能性が出てきたということですな」
「わたしたち、あまりにも晃くんに“おんぶにだっこ”してしまっていた。いつかは、こういうことになるんじゃないかと、内心不安だったんですけど、とうとうその時が来てしまったみたいですね……」
こうなってしまっては、もうどうしようもない。
三人は顔を突き合わせて互いの顔を見、やがて表情を引き締めてうなずいた。
その様子を見ながら、川本家のほうでも家族全員が一旦ダイニングキッチンに移動して、臨時の家族会議になった。
全員が、固い表情のままテーブルを囲んだが、最初の一言を発するものがいない。
しばらくそのままだったが、やがて俊之が口を開いた。
「……まさか、こんなことになるとはなあ……。雅人、もう一度、早見さんの様子を詳しく話してくれ」
「……うん。おれも、びっくりしたというか……」
雅人は、クリニックで松枝に言われたことを繰り返した。
晃が初期の肺炎だったこと。これ以上悪化をさせないよう、治療するための入院だったこと、いつ退院出来るかは、晃の病状次第だということなどを。
「問題は、早見自身がひどく消耗してて、体調が悪いはずなのに、熱も出ていないというか、普段より体温低いぐらいの状況だったってことだと思う」
そういう状態だということも加味して、松枝は入院を決めたのだろう。
しばらく、戦線復帰は無理だろう。
ここで無理をさせたら、本当に体を壊してしまう。
ただ、晃自身はそれを承知でさらに無理を重ねそうなのが、かえって怖かった。
「……全部、あたしのせいね。あたしが“贄の巫女”なんてものに産まれついたから……」
ひときわ暗い顔でそうつぶやいた万結花に、他の家族全員が首を横に振る。
「お前のせいなんかじゃないよ、万結花。大体、好きでそんなものに産まれたわけじゃないだろ。お前は、大事な私の娘。それ以外の何者でもないんだから」
彩弓が、決意を込めた表情で万結花を諭した。
「そうだよ。お前がどんな存在だろうと、みんなで護ると決めたんだ。自分を責めるんじゃない」
俊之も、万結花に向かってはっきりと言った。
「そうだよ、お姉ちゃん。早見さんだって、お姉ちゃんを護りたくて一生懸命だったんでしょ?」
舞花の言葉に、雅人もうなずく。
「そうだ、あいつが無茶したのも、お前が幸せに生きて欲しいからだ」
そして内心付け加える。
『好きだからこそ、あいつは命を賭けてでもお前を護ろうとする。お前の幸せを願うから……』
だが、それをストレートに言うのは躊躇われた。思いがあまりに一途で、逆に万結花にとっては重荷になりかねないと思えたからだ。
晃自身、それがわかっているから、口ではあえて何も言わないのだろう。
とにかく、結城探偵事務所とその関係者が、全力でフォローに入ってくれるはずだ。
自分たちでも、手伝えることは手伝おうと決め、居間に居残っている霊能者三人のところへ、雅人が家族代表として戻った。
三人もまた、真剣な表情で話し合いをしていた。
傍らには、普通の猫サイズのアカネと、柴犬サイズの笹丸が、おとなしく三人を見上げていた。
晃が残した、最強の手駒と言える二体は、皆を守るためにここに残るように頼まれたのだ。
ただ、問題は互いの意思の疎通に多少の難あり、というところだろうか。
笹丸から発したなら、法引であれば念話を聞くことが出来、一度繋がれば笹丸に念話を返すことも出来る。
万結花も、笹丸の念話を聞き取れる。ただし、念話で返すことは出来ず、口に出して話す必要がある。
アカネと直接やり取り出来る者はいないが、アカネのほうは人間の話すことをちゃんと理解は出来る。
アカネと笹丸は普通に念話でやり取りするが、人間側はどう頑張っても笹丸の念話しか拾えない。
それは、アカネのほうがまだ念話に慣れておらず、能力が飛び抜けて高い晃や、動物霊というより“神霊”に近い笹丸でしか、ちゃんと聞き取れないという事情もあった。
それでも、アカネの力は強力だし、笹丸は知恵袋的なところもある。
雅人が来た直後、笹丸は法引に向かって話しかけていた。
(さて、結界を強化し、誰か一人は泊まり込んでアカネとともに見張るという、それ自体はよいと思うが、それで対処出来ぬ事態になった時、遠隔で介入出来る者はおるのか?)
そう言われ、法引はそれを二人に伝えた。二人は顔を見合わせる。
「……わたくしなら、一応介入は可能です。が、他の方々が、どれほどの力で介入出来るかというのは……。ちなみに昭憲では、遠隔で介入すること自体は可能でも、ほぼ戦力になりません。目の前の相手なら、何とか対処は出来ますが」
それを聞き、結城も溜め息交じりに口を開いた。
「私も……ほぼ戦力外だと思う。そもそも私の力は、調査には向いていても、悪霊や妖との戦いには向いていない」
「わたしは……その時の調子によります。調子が良ければ、それなりに介入出来ると思うんですが、調子が悪いと面と向かった相手にしか対処出来ないです」
三人と一体のやり取りを聞き、この場にやってきた雅人にも、法引以外は遠隔ではあまり戦力にならないことを悟っていた。
「……やっぱり早見って、規格外に強いんですね。遠隔は苦手だって言ってたけど、その苦手な遠隔でも、あいつ相当な力を使ってましたから」
「早見くんの場合、『遠隔が苦手』というのは、“何らかの形で現地と繋がっていなければならない”という制約なんだ。確か遠隔で力を使ったときも、電話は繋がっていただろう? ああいう媒体的なものが、必ず必要になるというものなんだよ。だから、まったく縁もゆかりもないところを、遠隔透視したりするのは無理なんだ。余計に消耗もするようだしね」
予め、自分で念を込めた“お守り”などを持っている相手なら、その周囲を遠隔透視することは出来るという話だということも、付け加える。
結城の言葉に、雅人は納得したとばかりにうなずいた。
「でも本当に、そこにいるアカネと泊まり込みの誰かでどうにもならない事態になったら、どうしたらいいのかしら」
和海が不安げにつぶやくと、法引も結城も考えこむ。
(とはいえの、晃殿が復帰するまでの間、何事もなく済む保証などありはせぬ。何らかの、悪い意味での接触があってもおかしくはないからの)
とにかく、最悪の事態を想定しておかないと、いざそうなったときに対処の方法さえ頭に浮かばなくなるだろう。
しばらくああだこうだと話し合った結果、力不足なのはもうどうしようもない。ならば、それを補う方法を見出さなければならない、とそういう方向になってきた。
晃が事務所に来る前は、どうしていたのだろうか。いつもこうやって、話し合って何とか打開策を見つけ出していたのではなかったか。
頭抜けた力を持つ晃が加わったことで、自分たちは彼に頼り切ってしまったのではないか。
反省と悔恨が、その場を支配する。しかし、いつまでも立ち止まったままでは、それこそ情けない。
少なくとも、笹丸とアカネはここに居るのだ。
「そういえば、先日渡した霊具、まだ持っておりますな?」
法引の問いかけに、結城も和海もうなずく。
「もちろんですよ、和尚さん。今だって、鞄の中に入ってますから」
「晃くんがいないんですもの。わたしたちでなんとかしなきゃいけませんからね」
法引が作って手渡した霊具は、あの時の戦いで必死に物の怪を祓い続けていたら、それぞれが持つ霊能力の波長に馴染み、他の人が使いづらい状態に変化していた。
試しに互いにそれを交換すると、持っているときに違和感があって、どこかムズムズするようになっていたのだ。つまり、それだけ最適化が進んだということになる。
「お渡しした霊具は、使えば使うほど使用者に馴染み、その力をより引き出してくれるようになるはずです。活用してくだされば、作った甲斐があるというものです」
そして、ひとまず今日は、さすがに強力な存在が立て続けには来ないだろうという予測の元に、結城が残って様子を見ることになった。
ひとまず帰り支度を始める法引と和海だが、二人揃って何かあったらすぐに連絡するように、何度もしつこく繰り返した。
「所長、絶対に連絡してくださいよ。必ずですよ」
「わかってる。子供じゃないんだからな、私は」
「しかし、いざという時気が動転して、頭の中が真っ白になることはよくありますからな。充分注意してください。一応、今夜くらいは大丈夫だと思いますが」
「はいはい。意外と心配性ですね、和尚さんも」