10.過去夢
街中を少し歩いていくと、不意に遼が叫ぶ。
(止まってくれ!)
はっと晃が立ち止まると、目の前の道を少し奥に入ると駅に向かい、その駅前広場の一角には小さな公園があり、その公園の入り口には、パステルブルーのワンピースを着た女性が立っているのが見えた。
歳の頃なら二十代半ば。肩にかかる長さの髪は、毛先が緩く内側にカールしている。
(……あれ、俺の恋人だった女性だ。この夢がいつの夢なのか、俺、わかったわ……)
それは、恋人を“結婚を前提に付き合っている人”だと家族に紹介した日。
そして、勤めていた工務店の社長からは『実家が少し遠いんだし、無理せず実家に泊まって来い。仕事は休んでいいんだぞ』と言われたものの、やっぱり現場が気になってとんぼ返りをし、次の日に現場に出て帰宅する途中、歩道に突っ込んできた飲酒運転の車にはねられて命を落とした運命の日の前日でもあったのだ。
(まさか、その分岐を夢に持ってくるとは……。質の悪いことしやがるな)
(遼さん、表に出る? この夢は、遼さんの夢の世界だしね。いざとなったら、僕が代わるから)
(……そうだな。そうさせてもらうか。でも、見た目は白狐のままのはずなんだが……大丈夫なのか……?)
(それはおそらく関係あるまい。術をかけた結果、どんな夢が構築されるかは、それこそ相手任せという面もあるからの。今回遼殿の夢となったからには、見た目がどうあれ、この世界の中心にいる者は“遼殿”なのだよ)
(なるほどな。でも、今更あの日を夢に見させられても、俺の選択は変わらない。晃を事故に巻き込んだことを夢に見させられたら、マジで混乱しただろうけどな)
(それは……無理であろう。それは、そなたが幽霊になってのちのこと。そうなってからの記憶を夢に見させることは、あの夢魔の力量では不可能であろう)
笹丸は、さらに言葉をつづけた。
(あ奴は、我のことを実体を持つ化け狐と勘違いして術をかけたのであろうが、本当の意味できちんと実体を持ち、本当の意味で夢を見ることの出来る晃殿に術がかかったのでなければ、どちらにしろ効果は半減するであろうて)
おそらくは、姿を借りていた晃が持っていた“魂の糸が肉体につながっている存在の気配”を、笹丸のものと勘違いしたのだろう、とも。
つまり、それを見極めるだけの“眼”を持っていないということだ。
どちらにしろ、あの時の行動をなぞる必要があるのだろう。
表に出る意識が入れ替わり、遼のほうが出てくる。
死霊の気配がまとわりつくことになるが、夢に出てくる人物は、それに反応することはないはずだ。
遼は今まで四つ足で歩いていたのをやめ、後脚だけで立ち上がった。
それでもやはり二本足で歩く白狐そのものなのだが、近づいていっても、彼女は全く気にする様子はなく、その姿を見てにっこりと笑った。
「遼次さん」
彼女が、こちらに向かって少し恥ずかしげに手を振るのを見て、遼もまた内心苦い笑みを浮かべながらも、素早く近寄って声をかける。
「美里、待ったか?」
「いいえ。さっき来たばかりだから」
遼に促され、美里と呼ばれた女性は、白狐の姿の遼とともに歩き出した。
お互いにたわいない話をしながら、遼の実家へと歩みを進める。
(……彼女、江藤美里とは同郷で、高校のひとつ後輩なんだ。卒業間際に俺のほうから告って、付き合い始めて。俺が故郷から少し離れちまったせいで、ちょっと遠距離恋愛気味でな)
途中紆余曲折はあったものの、それでも細く縁を繋いで、何年もかかったがやっとお互いそういう方向で付き合おうということになり、一区切りつけようということとなったのだ。
(彼女の実家がコンビニをやっていて、実家の店をずっと手伝っていたんだけど、俺と一緒に暮らすために家を出ることに決めたってことで、双方の家に挨拶に行くことになってさ……)
先に彼女の家に挨拶を済ませ、次に自分の家に行ったのが、この日だった。
やがて、住宅地の中の一軒の家の前で、二人の足が止まる。
『佐山』という表札があるその二階家を、遼は無言で見上げた。
(ここが、遼さんの実家?)
(ああ、そうだ。“あの日”を再現しているのなら、中には親父とおふくろと、たまたま遊びに来ていた兄貴とその嫁さん、小さい甥っ子がいるはずだ。兄貴の嫁さんは、おなかが大きかったな)
まあ、実際に話をするのは両親だろうが、と遼は大きく息を吐いた。
(何言われるか、なんとなく予想がつく気がするのは、僕だけかな?)
晃の言葉に、遼も笹丸もそんなことはないと否定する。
(あの夢魔が、何をしようとしているかを考えるのであるのなら、およその見当はつく。遼殿、選択は間違えぬように)
(さっきも言ったとおり、今更ですよ)
遼は家の玄関の前に立ち、インターホンを押した。
「はい」
「おふくろ、俺だよ。遼次だ。」
「ああ、いらっしゃい」
短いやり取りにの後、玄関のドアを遼が開ける。そこには、中年の女性が笑顔で出迎えていた。
出迎えた女性、遼の母親に促され、二人は家の中に上がり、廊下を歩いてすぐの部屋に入った。
そこには、部屋の真ん中に大きな座卓が置かれていて、その向こうに中年の男性が待ち構えるように胡坐をかいて座っていた。
男性の向かい側には、座布団が2つ、置かれている。
遼は彼女に座布団を勧め、自分も座った。
女性は、部屋の隅に置かれていたポットと急須、湯飲みのところに行き、お茶を入れると、各自の前に湯飲み茶碗を置いた。
お茶はいわゆる桜湯というやつで、独特のいい香りがした。
(いやになるくらい、当時のことをそっくり再現してやがる。これから俺が言うセリフも、やっぱり当時と同じものにならざるを得ないしな)
(おそらくは、途中まではそっくり同じだよ、きっと)
そして、当時と同じく傍らの彼女を将来を誓った女性として紹介し、美里が『ふつつかものですが』と頭を下げ、両親がうなずく。
ここまでは当時と一緒だ。その後に兄夫婦がやってきて彼女に対面し、当時三歳くらいだった甥っ子が美里に向かって不思議そうな顔をし、母親に言われてぺこりと頭を下げて挨拶をしたりした。
兄夫婦はそこで部屋を出たのが当時の記憶だったが、何故かそのままとどまっている。
そして、両親は口をそろえてこう言った。
「今日は、彼女とともに泊まっていきなさい」
両親だけではなく、兄夫婦まで、『止まっていけ』と言い出すに至って、完全に記憶との齟齬が生じ始めた。
(あの時、これほど『泊まっていけ』とは言われなかった。『泊まっていくのか?』とは聞かれたけどな)
(それじゃ、やっぱりこれは、引き止め?)
(間違いなくそうであろう。ここにとどまらせて、時間稼ぎをするつもりなのであろうて)
時間稼ぎ。その意味は……
(まずい。急がないと、万結花さんたち三人が危ない!)
(畜生! そうなるんじゃないかとは思ったけどよぉ!! 今更俺が、あの時と違う選択をするわけがねえだろ。俺はもう、幽霊なんだ! 当時の選択を後悔したところで、戻れるはずねえだろう!! 家族との最後の思い出を、穢しやがって!!)
(……遼さん、代ろうか?)
(ああ、そうしてくれ。今の俺じゃ、冷静に対処出来なさそうだ)
遼の内心の怒りを感じ、晃の意識が再び表層に浮かび出る。
晃が周囲を見た途端、先程まで人の姿をしていた者の形がすでに崩れ始め、どす黒く歪んでいく。
『泊マリナサイ』
『泊マリナサイ』
声までも無機質なものとなり、同じ言葉を繰り返し続ける。
かつて遼の家族や恋人の姿をしていたモノは、どろりと歪んだ黒い人型となり、それがゆらゆらと蠢きながら周囲を囲み、晃を取り押さえようとしてくる。
晃は右手だけを人のそれに戻し、人差し指と中指を揃えて一気に念を込め、真横に祓うように一閃させる。
その途端、周囲のすべての人型が崩れていく。それと同時に家の中だったはずの空間さえもがどす黒く色を変えていき、どろりとした粘質を持ったものとなり、人型が崩れたものをも混然と飲み込んでうねる。
(アカネ! このまま一気に突破する!)
(わかった!)
アカネが人より大きくなり、鉤爪をふるうと、粘質のモノが引き裂かれて大きな傷が出来る。
しかし、その傷はうねうねと脈打ち、塞がっていく。
晃は素早く、アカネが傷つけた後を狙って、自分の力を叩きつける。傷は吹き飛び、さらに大きく広がる。
そこをすかさず、アカネが力いっぱい鉤爪で切り裂く。
その直後、黒いどろりとしたものの向こう側が、傷口から見えだした。まるで、暗い虚無の世界に続いているようにさえ見えるが、晃もアカネもひるまない。
さらに、その傷口に向かって一気に突進する。
次の瞬間、周囲を覆っていたどす黒いものがまるで傷口からめくれて裏返るように消えていき、気づくと元の洞窟に立っていた。
周囲を見回しても、共に悪夢を抜け出したアカネ以外、誰もいない。
咄嗟に気配を探り、万結花たち三人と、例の鬼の姿をした夢魔の気配が、共に同じ方向から来ていることを感じた。
(まずい! 追いかけないと)
(そなたが力を込めたあのお守りが、いつまで持ってくれるかであるの)
(急げ! あの夢の中で、どれだけ時間食ったかわからないからな)
晃は再び完全な白狐の姿で、気配の感じられるほうへと走り出した。アカネも、大きさはそのままに後に続く。