02.結城探偵事務所
そこは、表通りを一本奥に入ったごく普通の住宅地にある、建て売りと思しき二階建ての住宅だった。そこの、本来表札がかかっている場所に、『結城探偵事務所』という看板が掛けられている。
玄関の扉を入り、上がってすぐ右側の扉がわざと開け放してあり、そこに『Welcome』という文字と矢印が貼り付けてある手作りプレートが掲げられていた。
その部屋の中から、まるで喧嘩をしているかのような男女の派手なやり取りの声が聞こえる。
「所長、もう少し待ってくださいよ。予定では、そろそろ晃くんが来るはずなんですから」
「予定は未定だろう。我々だけ先に現場に行って、調査を始めていても特に構わんはずだろう」
「晃くんは、現場がどこか知らないんですよ。いくら住所のメモがあるからといって、ちょっと無理して来てもらうのに、置いてけぼりは失礼でしょうが」
「大学に入ったばかりの一年生で、そんなにカツカツの単位取得予定は、組んではいないだろうに」
「所長、晃くんは法科大学院進学コースですよ。ツブシが利くから法学部を選んだなんていう連中とは、始めから心構えが違うはずです」
「それじゃ、目標は司法試験合格か。はれて弁護士にでもなった暁には、ぜひウチの事務所の顧問弁護士になってもらいたいな」
「虫が良すぎます」
所長と呼ばれた男は、大柄で肩幅の広い男性だった。一応スーツは着ているが、どちらかといえば格闘家の雰囲気に近い。
顔も頬骨が張った四角い顔で、ぎょろりとした目と太い眉、角刈りが印象的な四十代前半の男だ。
入り口を背にしてそれに相対する女性は二十代半ば。すらりと細身で、パンツスーツを着こなし、肩にかかるくらいの長さの髪を自然な茶色に染め、頭の後ろでひとまとめにしてバレッタで留めている。やや面長の顔は、美人の範疇に入るだろう。
部屋の広さは六畳あまり。元は畳敷きだった床を、樹脂製のフロアタイルに変え、事務所として使っているのだが、パソコンを置いた幾つかのスチールデスクやら、資料を入れたロッカーやら、来客用の黒い合皮の長椅子やらが置いてあるので、この二人が部屋の真ん中で言い争いをしていると、通り抜けも出来ないのではと思わせるほど狭く感じられる。
「今回の事件、どう考えても普通じゃ考えられない事件じゃないですか。どういう“モノ”が出てくるか、わからないんですよ。それを考えたら、晃くんの到着を待って出発したほうが、絶対安全です」
女性の剣幕に、所長と呼ばれた男は必死に言い返す。
「しかし小田切くん、それじゃ我々二人が、いざというときの対処能力のない、無能者みたいに聞こえるじゃないか」
言いながら男は、不満そうに鼻を膨らませた。
「無能とはいいませんけど、能力という意味では、晃くんは図抜けていますよ。それこそ“大人と子供”です」
「確かに、早見くんの能力がわれわれと比べてずば抜けて高いのは認めるが……」
「それに所長の能力は完全な調査向きで、実戦向きじゃないでしょう。晃くんがそちらの能力に長けているんだということは、所長も把握済みのはずです」
それでも男は、部屋を出たがっている様子を隠さない。
「それは重々わかっているが、やはり『善は急げ』といってだなあ……」
何とか目の前の女性をかわして外に出ようとするが、女性のほうが両手を広げてそれを阻止にかかる。
その時、入り口から声がした。
「何やってるんですか、二人して。クライアントが来たら、どう説明するつもりですか?」
慌ててそちらを見ると、そこにはダンガリーシャツをジャケット代わりにして長袖Tシャツ、チノパンを穿き、ワンショルダーのリュックを肩からタスキにかけた晃が立っていた。
先程のやり取りは、おそらく傍から見ると相当変な動きだったのだろう。二人はほぼ同時に気まずそうに咳払いをした。
(……相変わらず漫才やっているっていうか、見事な迷コンビというか……)
(それは言いすぎだよ、遼さん。まあ、この二人が、妙に息が合い過ぎることがあるのは、僕も否定しないけど……)
(それを“漫才”というんだよ)
その時、女性のほうがデスクの上にあった資料を手にしたので、晃は心の中の会話を中断した。
所長の結城の秘書であり、事務所の経理を任されているその女性、小田切和海は、資料を手に説明を始めた。
「電話でざっと話したけど、改めて詳しく説明するわね。今回の依頼は、『真相の究明』。今の季節、凍えるほどは寒くないのに、司法解剖の結果が凍死としか思えない所見の変死者が出たの。その御遺族からの依頼よ」
ここまで言って、和海は肩をすくめた。
「もっとも、警察の公式見解は“急性心不全”だけど」
「司法解剖で、本当に死因が“凍死”だとされたんですか」
晃の質問に、和海は首を横に振った。
「正確には、ちょっと違うわ。死因は急性心不全」
だけど、と和海はさらに続けた。
「心臓が冷気でやられていたみたいなの。心臓が急激に冷やされて、それこそ体の中で凍ったとしか思えない状態だったそうよ。あまりに異常すぎて、かえって“なかったこと”にされたみたい。上層部に報告が上がってないそうなの。もっとも、御遺族には“ここだけの話”として伝えられたって」
それで、警察はもう調べてくれそうにないし、思い余ってその筋ではすこしは名前が知られるようになった結城探偵事務所に依頼をしてきたということなのだ、という。
「……なるほど。確かに、普通じゃ考えられない出来事ですよね。警察が当てにならないというのはわかります。それで、亡くなったのはどういう方なんですか」
それを聞き、和海は資料をめくった。
「……亡くなったのは、畠田利彦さん。二十八歳。経理事務担当の人だったそうよ。一人暮らしのアパートの居間で亡くなっているのを、会社を二、三日無断欠勤したことで不審に思った同僚が訪ねてきて、発見したんですって。ここのところ、ほぼ毎日十時十一時まで残業していたということで、疲労が溜まっていたんじゃないかという話もはじめはあったんだけど……」
「司法解剖したら、そういう結果だったと」
「そういうこと。それに、週休二日できっちり二日休んでたという話だったし、終電よりずっと前になんだかんだ理由つけて帰っていたから、それほどひどく疲れるような状態ではないだろうということにはなったけど」
和海は資料から目を離し、こう付け加えた。
「でも、解剖結果の“真実”は公表出来ないはずだから、周囲は急病によるただの急逝と思ってるでしょうね」
和海の言葉に、晃はうなずく。
「超常現象絡みの事件なんて、普通公には出来ないですよ。へたしたら、それこそテレビのワイドショーネタですからね」
その時、男が口を開いた。
「おまけに、どうやら同じような事例が他にもあるらしいんだな」
男は上着のポケットから小ぶりのシステム手帳を取り出すと、中を確認して話し始める。
彼が、『結城探偵事務所』の所長である結城孝弘だ。
「実はつい最近、このあたりを管轄してる警察署にいる昔の後輩から相談を受けたんだが、他に三件、やっぱり死因が不可解な変死者が出ているそうだ。それも、全員男なんだそうだ」
「やっぱり、今回の依頼と同じような状態なんですか」
晃の表情が曇った。
「鑑識の連中が頭を抱えていたそうだ。『上に上げられん』と。それと……」
これはコピーだが、と前置きして、結城は手帳にはさんであったはがき大の一枚の紙を取り出した。
それは現場写真らしく、少し解像度は悪いものの、部屋の中が写されている。
写真の下のほうには、遺体の足らしいものも写っている。しかし、何より目を引くのが、遺体の脚の上を、霧とも靄ともつかぬぼんやりとした青白いものが、渦を巻いている様だった。
「前後に何枚も連続写真で撮っていて、こんなものが写ったのはこれ一枚だけだったそうだ。オリジナルは、内部資料ということで、もらうことは出来なかったが」
「写真はこれだけですか」
「コピーの許可が出て、もらい受けてきたものは。ただ、司法解剖の結果の異常所見は、やはり共通しているそうだ。居間や寝室で倒れていて、死因が急性心不全で、それを引き起こした原因が局所的な異常な冷気らしいということがな……」
そこへ、和海が口を挟んだ。
「ちょっと、わたし、そんな話聞いてませんよ。どこからそういう情報を仕入れてきたんですか」
それに答えて、結城はややしまったという顔をしながら、こういった。
「私にだって、昔の職場のツテはあるってことだ。そこから流れてきた話だからな。正式な依頼というわけじゃないが、相談を受けたんだよ。『こんな不可解な出来事があったのだが、どう思うか』とね。警察をやめたのはもう十年も前だが、当時から、多少なりともそういう能力はあったから、それを覚えてくれていたんだろう」
「……もしかして、それで余計に浮き足だっていた、とか……」
結城は、ちらりと視線をはずした。和海はそれを見て、不愉快そうな表情をしながらうなずいた。
「なるほど。相談された事例とそっくりな事例の真相究明依頼が来たものだから、後輩にいいところを見せられると張り切ったと。そういうわけですか……」
「……否定はせんよ」
それを聞き、和海は溜め息をつき、さらには頬を膨らませた。
「所長、どうして自分の興味を優先させるんですか。そういうことを事前に言ってくれないと、情報の一元化が出来ないじゃないですか」
晃がなだめるように間に入る。
「まあまあ。確かに、似た事例がいくつもあるのなら、そこから共通点を探り出すことが出来るかもしれませんからね」
晃は改めて、和海に問いかける。
「とにかくもう一度確認しますが、今回の依頼の対象になった方は、どういう状態で亡くなっていたんですか。居間で発見されたと聞きましたが」
晃の言葉に、和海は再び資料に目を落とした。
「依頼された畠田さんの事例では、発見されたとき、居間に倒れていたそうよ。もっとも、居間といっても部屋の隅にベッドが置いてある寝室兼用の部屋で、他にはキッチンとユニットバスがあるくらいのごく普通のアパートの一室だけど。胃の中からは、アルコールが検出されてたのは確認されてるわ」
しかし、それは死因にはなりえないという。
「アルコール量は少量で、飲みすぎでどうこうなんて量ではなかったの」
缶酎ハイを手に持ったまま倒れており、胃の中のアルコールの量からして、一口二口飲んだくらいで倒れた模様だという。
あとは大半がこぼれていたと、報告書には書いてある。帰宅して、晩酌の途中で倒れたと推測されると、結ばれていたそうだ。
「それで、帰宅するまでの間に、何か変わった事はあったのか」
結城が口を挟む。
「そこまではわかりませんよ、所長。そういったことすべて、これからわたし達が調査するんですっ!」
和海が語気を強めると、結城は頭を掻きながら苦笑した。
「まだ怒ってるのか、他の似た事例のことを言わなかったことを」
「別にそういうわけじゃありません」
「……顔にそう書いてあるぞ。とにかく、これから問題の現場へ行って、実地調査してこよう。話はそのあとだ」
その時晃が、先程の写真のコピーをもう一度見せて欲しいといった。コピーでも、何かわかるかもしれないので、霊視したいという。
「一応確認しておきたいんです。オリジナルの写真ではないので、霊気が感知出来るかどうかわかりませんが、何か感じることが出来れば、これから現場へ行くにしても、共通点や相違点を見つけやすいんじゃないかと思うので」
「そういうことなら、ぜひ調べてくれ。君の能力なら、たとえコピーでも、何かわかるかも知れんし」
結城が、写真のコピーを晃に手渡す。右手でそれを受け取った晃は、目を閉じて静かに深呼吸し、念を凝らした。
一分ほど経った頃、晃は目を開けると、呟くようにこういった。
「……複数の霊の集合体のように思います。それ以上のことは、さすがにわかりません。オリジナルの写真なら、もっとはっきりわかるでしょうが」
「でもたいしたものよ。わたしや所長じゃ、コピー写真なんかお手上げだもの」
和海は、晃の能力の高さに感心しきりという口調だ。
「さすがだな、早見くん。私は持っていても何も感じなかったぞ。さて、その感覚を覚えているうちに、さっそく現場へ行こうじゃないか」
結城は二人を促すと、一人で足早に部屋を出た。
「ちょっと待ってくださいよ、所長。こちらの準備もあるんですから」
和海は口を尖らせると、まだ手に持ったままだった資料やメモ、電子手帳などを愛用のショルダーバッグに詰め込むと、さらにデジタルカメラやICレコーダーなどの記録媒体の準備をした。
現場で記録をする余裕があるなら、記録をとっておいたほうがいいからだ。
晃もまた、和海の準備が出来るのを待ちながら、開け放たれた部屋の扉を見るとはなしに見ていた。
そして和海の用意が整い、二人して部屋を出ようとしたところで、足音を忍ばせて戻ってきた結城と戸口で鉢合わせをしてしまった。
「戻ってくると思っていましたよ、所長。いくらひとりで飛び出していったって、車のキーは、わたしが持ってるんですものね……」
結城は、バツが悪そうに頭をかいた。