02.晃の事情
晃が電話を切ると、遼が話しかけてくる。
(今度は『神隠し』か。つまり、誰か失踪しちまったってことだな。でも、わざわざお前に話を持ってくるっていうのは、特別な何かがあったか……。ただの家出人捜索とかいう仕事なら、お前に声はかけないはずだしな)
(そうだよね。それに、小田切さん自身が『ちょうどよかった』なんて言っているんだから、依頼人に詳しい事情を聞かなければならない、何かがあるのかも)
(だな。まあ、メールを確認すれば、何があったかわかるだろう)
晃はガラケーをジャケットの胸ポケットにしまうと、階段へと歩き出した。
晃は現在、橘花大学法学部一年で、法科大学院進学コース。遼は本来、二十年前に亡くなった男の幽霊だった。偶然にも、遼が息を引き取ったのと同じ病院の同じ建物の中で、亡くなったのと同じ時刻に産声をあげた晃に縁を感じ、彼に付き添ってきたのだ。
三年前に、晃が交通事故に遭って命を落としかけたとき、遼はそれを救うために晃と同化し、今では無二の親友であり、晃を心身ともに支えるパートナーとなっている。
“二人”は、互いの力を合わせると、人外ともいえるほどの霊能力を使うことが出来、その能力を買われて、結城探偵事務所にいわば助っ人として顔を出すようになったのだ。
そして晃は、階段を登って改札を抜け、そのまま駅前に出ると、いつもの道を通って自宅へと帰り着く。
チャイムを押してドアを開け、ただいまと声を掛けながら玄関に上がり、靴を脱いで自分の部屋へと向かう。カレーの匂いが、廊下に満ちていた。
「お帰り晃。今日はカレーライスよ」
「わかった。今、バッグを置いてくるから」
カレーライスは、香辛料を入れて本格的に作る、母智子の自慢料理だった。
智子は、こと料理に関しては凝り性で、カレーを作るのでも市販のルーは使わず、自分なりに工夫した香辛料や、果物を摩り下ろしたものなどを隠し味にし、半日かけて煮込んで作る。
母に関しては、内心言いたいことは山のようにあったが、料理だけは絶品だと思う。ただ、手料理に関して自意識が強すぎるきらいがあって、アルバイトや用事などで夕食を食べなかったりすると、途端に機嫌が悪くなった。そのことが、晃の気持ちを重くする。
晃はワンショルダーを二階の自分の部屋に置くと、降りてきてダイニングに入った。
母の姿が見えなかったので、さっさと食事を終わらせてメールを確認するため、晃は自分で食事の準備に掛かった。
食器棚から自分でカレーを食べるときに使う深皿を取り出すと、炊飯ジャーのところへやってくる。そして、ジャーのすぐ隣に置いてある手作りの台の上に皿を載せて、ジャーのふたを開け、ご飯をよそうと、カレーの入ったなべの脇に皿を移し、こぼさないようにカレーをかける。
よそい終わったカレーライスをテーブルのいつもの席に置き、スプーンと愛用のグラスを出して、冷蔵庫に入れてあるミネラルウォーターを右脇に挟んでキャップを開け、そこに注ぎ、食卓に着いた。母はいつも、言ってくれれば自分がやってあげるというが、こういうことぐらい自分で出来なければ仕方がない。
晃が食卓に着いた直後、智子がダイニングに入ってきた。
「まあ、晃。もう少し待っていれば、お母さんがよそってあげたのに」
「母さん、僕は子供じゃないんだから、これくらい自分でやるよ。というか、自分で出来るようにしないと、将来どうしようもないじゃないか」
母にそれだけ言うと、いただきますと頭を下げ、カレーを食べ始めた。その脇で、智子が慌ててレタスをちぎったりきゅうりを切ったりして、サラダを作っている。
程なく、小さなフォークを添えたグリーンサラダがカレー皿の脇に置かれた。
ありがとうと一言いい、晃はカレーを食べ続けた。
一通り食べ終え、ご馳走様といって席を立とうとすると、智子が間髪いれず横から手を出して食べ終わった食器を手にし、流しに持っていく。
「母さん、下げるのくらい簡単なんだから、母さんがやらなくてもいいよ」
晃はそう言ったが、母が聞く耳を持たないことも、わかっていた。何度言っても、自分が手を出したがる。洗い物など、絶対に手出しをさせない。
交通事故で左眼と左腕と左肺を失ったひとり息子を案じてのことなのだろうが、明らかな過保護で、かえって自立しようとする晃の妨げになっているとしか思えない、今回のような行動に出るときが多々あった。
(過保護だよなあ。事故の前は、これほどじゃなかったはずだが。隻椀だって、やりようによっては十分いろいろ出来るんだがなあ……)
(母さんのあの態度は、僕が自立するのを邪魔してるとしか思えないんだよね。時々腹が立つんだけど……)
内心溜め息をつきながら、晃は自分の部屋に戻った。
さっそくパソコンを起動させ、メールソフトを立ち上げる。物のはずみで登録したネットショップのメールマガジンなどに混じって、和海のハンドルネームである『Kirikage(霧影)』の名前でメールが来ていた。
他のメールは無視し、和海からのメールを開いてみる。メールそのものは事務的に『事件の概要を記したファイルを送ります』とあるだけで、添付ファイルがついていた。
それを開き、内容を読んでみる。
今回の依頼人は『深山春奈』という二十四歳のOLで、突然消えた友人の行方を捜してほしいというものだった。
消えた友人の名は『持田裕恵』といい、同期入社の同い年。二人で裕恵の自宅アパートへ向かう途中、彼女が忽然と姿を消したというのだ。
姿を消したときの状況が通常では考えられない不可解なものであったため、思い迷った挙句に、偶然インターネット上の掲示板の書き込みで超常現象の調査も行う結城探偵事務所の存在を知り、連絡してきたのだという。
姿を消したときの状況も記されていたが、それは確かに不可解だった。
突然走り出したかと思うと、本来曲がる必要のない路地を、誰かに腕を取られたかのようによろめきながら曲がり、直後に依頼人が路地を曲がったときには姿が見えなくなっていた。それ以来、持田裕恵は姿を消してしまったというのだ。
家族が警察に捜索願を出してはいるが、自分の目撃談は誰にも信じてもらえないため、警察はおろか友人の家族にも胡散臭く思われ、依頼人は孤立してしまっているというのだった。
(そりゃ、孤立するわな。いきなり消えたなんていう証言じゃあ)
(でも、依頼人は実際にその瞬間現場にいたわけだよね。他の誰も信じなくても、僕らは依頼人の証言を信じるところから始めなくてはね)
(そういうことだ。なるほど、『神隠し』だな)
依頼人によると、持田裕恵が姿を消してから十日ほどが経つという。
彼女の身が案じられるので、一刻も早く見つけ出してほしいというのが、依頼人の希望であると結ばれていた。
状況を考えると、時間的な猶予はない事件のようだ。当分、母の夕食は食べないで動き回ることになりそうだ、と思ったとき、晃はなんともいえない気分になった。
母の手料理自体は、食べなくても特にどうということはないのだが、夕食は食べないと断ったときの母の機嫌を思うと、それがなんともうっとうしい。絶対ぐずぐずと文句を言われるに違いない。放っておいてほしいと思う。
とにかく、なんといわれようと、断固とした行動を取るしかないだろう。晃は腹をくくった。