01.プロローグ
ここから第二話となります。
時系列的にはつながっていますが、内容は一話完結なので、直接にはつながっていません。
その日深山春奈は、友人の持田裕恵と、洋風居酒屋で飲んでいた。二人とも、同期入社のOLで、所属部署は違うが、新人研修のときに仲良くなり、会社帰りによく居酒屋に寄っては、おしゃべりに花を咲かせて日頃の憂さを晴らしていた。二人とも入社二年目、そろそろそれなりの仕事を任されるようになり、仕事が面白くなってきたところだ。
けれどその日は、持田裕恵がいつになく不安そうな顔をしていた。ムードを出すために、わざと間接照明を多用した影の多い店内で、絶えず背後を気にし、視線が左右に走っていて落ち着かない。
不審に思った春奈は、彼女に尋ねた。
「どうしたのよ、裕恵。何かあったの?」
実際、彼女と飲みに来たのは二週間ぶりだ。クリスマスを約一ヵ月半後に控え、クリスマス商戦にあわせた営業戦略の真っ只中で、互いの仕事上のスケジュールが合わず、帰りがけに居酒屋に寄る時間が作れなかった。
「……それが……」
裕恵は一瞬口ごもり、春奈を上目遣いに見た。
「……ねえ、春奈。あたしが何言っても笑わないでいてくれる?」
彼女の問いかけに、春奈は怪訝な表情で首をかしげる。
「笑うも笑わないも、話してみなきゃわからないじゃないの。何があったのよ」
「……それが……」
裕恵は、重い口を開いた。
「……あたしね、誰かにずっと見られてる感じがするの。振り返っても誰もいないし、それ以外に変なことがあったわけじゃないんだけど」
「それって、ストーカーか何かじゃないの?」
「違う。一昨日、気味が悪くて学生時代の友達何人かに連絡して、周囲を見張ってもらったの。フリーターやってたりして、時間に融通の利く人が結構いたから。でも、会社を出て家に帰り着くまでの間、それらしい人影は一切見なかったって全員に言われた。いくら素人の尾行でも、数がいれば誰かしらおかしな人影見るはずでしょ、本当にストーカーがいれば。でも、誰もいなかったって言うのよ」
裕恵は、真顔だった。確かに視線は感じるのだが、本当に誰もいなかったのだ、と。
しかし、春奈は首をひねるだけだった。彼女のただの勘違いなのではないか。
だが、裕恵はいつになく真剣な表情で言った。
「……本当のことを言うと、今だってその視線は感じてるの。どこから見てるのかはわからない。でも、確かに誰かが見ている……」
「ちょ、ちょっと、気味悪いこと言わないでよ」
春奈も、思わず周囲を見回した。ごく普通の客で賑わっている。仲間同士で騒ぐもの、ひとりでカウンターで飲むもの、皆それぞれだが、特にこちらに注意を払っているような雰囲気の客はいない。そして、揃いの制服を着た店員が、客席の間を走り回っていた。
春奈には、特に不審な気配は感じられないが、裕恵は何かを感じているようだった。
「ねえ裕恵、本当に誰かに見られてるような感じがするって言うの? あたし、何も感じないわよ」
「春奈は感じないかもしれないけど、あたしは感じるの。今だって、絶対誰かが見てる。なんだか、背筋がぞくぞくするんだもの」
裕恵は本気だった。自分を見つめる視線があるといって聞かない。春奈は仕方なく、彼女の聞き役に徹し、落ち着かせようと思った。
とにかく、すべて話して聞かせて欲しい。家にも送っていくからといって、春奈は裕恵の肩を叩いた。
そう言われても、裕恵は先程言ったことを繰り返すばかりで、それ以上のことは言わない。そして、絶えず周囲を気にし続けている。
春奈は諦めて、たとえ一時でも嫌な気分を忘れさせようと考えた。
しばらく二人で、グラスワインや小洒落た料理を口にしながら、ゆっくりと時間を過ごした。
やがて、適度に酔いが回ったところで、どちらからと言うこともなく立ち上がると、割り勘で清算し、店の外へ出た。
空は曇っていたが、街はまだ人通りが多く、あらゆるところに光が満ちて、明るく輝いていた。酔って気が大きくなっていた春奈は、威勢のいい声で裕恵に告げた。
「裕恵、どんなことがあっても、あたしはあんたの味方だよ。なんか困ったことがあっても、絶対になんとかしてあげるからね」
「……それ、ホントだね。信じてるからね」
裕恵が、酔って潤んだ目で、じっと見つめてくる。その視線に気づいた春奈は、裕恵の真剣さに言葉を失くした。
「信じてるよ。信じてるから……」
「……わかってる。とにかく、家に送ってくから」
春奈は、裕恵をせきたてるようにして、駅に向かった。
時間は午後九時近く、帰宅ラッシュのピークは過ぎていても、混雑はだらだらと続いている。裕恵は、春奈の手を幼子のように握ったまま放そうとしない。電車の中でも、誰か見ているとつぶやき続けた。そのうちに、誰かが腕を触ったと言い出し始める。
いくら混んでいるとはいっても、周囲を見回せば腕に触ってきそうな人物がいるかどうかわかる。そんな人物は、一切見当たらなかった。
「しっかりしてよ。酔っ払ったせいで、錯覚してるんじゃないの?」
「違う。本当に誰かが触ったのよ。軽くだけど、引っ張られたの。本当よ。信じて」
裕恵が、怯えを隠さない表情で訴える。春奈は、戸惑った。
裕恵は、急に春奈にしがみついてくる。春奈は、恥ずかしさのほうが先に立った。酔ったはずみで抱きついてきたのだ、と周囲が見てくれることを祈った。
程なく、春奈が普段乗り降りする駅に着いたが、送っていくと約束しているため、そのまま閉まるドアを見送った。
ふと、視線を真ん前の窓に移したその瞬間、外の闇を背景に、鏡と化した窓ガラスに、女の子の姿が映った。綿を入れたようなつぎはぎだらけの頭巾を被り、やはりつぎはぎの服を着た、四、五歳くらいの女の子。座席に座っている乗客の影が邪魔をして、肩から上しか見えない。そんな少女が、裕恵の腕にしがみついている。
だが、春奈が思わず瞬きをして見直したときには、女の子の姿は消えていた。
心の中で、嘘だとつぶやいていた。こんなことが、あるわけがない。目の錯覚に決まっている……
酔いは完全に醒めていた。気がつけば、掌が汗でじっとりと濡れていた。まだ自分に抱きついている裕恵を見る。その腕にしがみついている女の子など、いない。いるはずがない。座席の乗客と、吊り革につかまっている自分たちとの間に、人が立てる空間はないのだ。それがたとえ子供であろうと。
春奈は、勇気を出してもう一度真正面を見た。女の子の姿はなかった。
やはり、目の錯覚か、あるいは悪酔いしておかしな幻を見たのだ。そうに違いない。春奈が、無理矢理自分を納得させたところで、裕恵の家の最寄り駅のホームに、電車が滑り込んだ。
「ほら、降りるよ」
裕恵に声をかけ、春奈は彼女を半ば引きずるようにしてホームに降り立つと、ひとまず裕恵をベンチに座らせた。
各駅停車だけが止まる、昔からの住宅地の中にあるこじんまりとした駅は、駅舎そのものは塗装をし直したりしてきれいだが、降りた乗客が一通りホームを離れてしまうと、いやに物寂しく感じる。
裕恵はベンチに座り込んだまま、自分で自分の体を抱きかかえるようにして全身を硬くし、震えていた。
「……誰かが腕を引っ張ったのよ。誰かがずっと、見てるのよ。怖い……」
春奈の脳裏に、一瞬だけ見た女の子の姿がよぎる。しかしそれを何とか打ち消して、春奈は再度声をかけた。
「いつまでも、ここに座っていてもどうしようもないよ。送っていくから、帰ろう」
なだめすかして裕恵を立たせると、春奈は彼女をホームの中ほどにある階段まで引っ張っていき、下り階段を何とか下まで降ろして、自動清算機で乗り越し清算を済ませて改札を抜けると、駅前へと降りていく。
駅前にある商店街は、とっくに閉店してシャッターが閉まっていた。近くのスーパーも、シャッターが閉まろうとしている。どんどん明かりが消えていく様が、心細さを増長させた。否応なしに、足が速まる。
ひとり暮らしの裕恵の部屋は、何度も訪ねたことがあるので、道順はわかっていた。
「ねえ、裕恵。もうすぐ家に着くんだから、元気出しなさいよ。ほら、ちゃんと前を向いて歩いて」
裕恵の肩を軽く叩きながら、春奈がそう言ったとき、急に裕恵が春奈の腕を振り解いた。
「いやっ! 誰かが、どこかへ引っ張っていこうとしてるっ!!」
「裕恵っ!」
彼女はいきなり駆け出した。まるで、その場にいること自体が恐怖であるとでもいうかのように。春奈は慌てて追いかけた。
人通りこそほとんどないが、街灯に照らされた歩道は割合明るく、走る裕恵を見失うことはなかった。
「裕恵、止まって! 危ないから止まって! 転ぶから!」
後ろからそう声をかけたとき、裕恵は突然路地を曲がった。帰宅方向ではない路地だ。
ほんの数瞬の間で、春奈も路地を曲がった。次の瞬間、春奈はその場に立ち尽くした。
そこには、誰の姿もなかった。路地とはいえ、街灯の光で数十メートル先まで見通せるその道で、裕恵は姿を消したのだ。
彼女との距離は、十メートル足らずだった。彼女が曲がって、わずか数秒後に、春奈が路地を曲がって道を見渡せるところに来た。左右はびっしりと民家が並んでいた。家と家の間は狭く、咄嗟に潜り込むには狭すぎた。しかも、曲がってすぐの家は、ブロック塀に囲まれており、入り口も門扉で閉じられている。
人間が身を隠せる場所など、ありはしない。
路地の広さは軽自動車がやっとすれ違えるほど。街灯の光が届かないわけではない。
しばらくの間、その場に立ち尽くしていた春奈は、不意に悪寒が走って絶叫した。
そんなはずがない。人間が、消えるはずなんてない。
理性はそういっても、現実に“見て”しまった恐怖という感情は抑えられなかった。
春奈は、その場から逃れるように、もと来た道を駆け出していた。先程通ったばかりの駅への道が、いやに遠く感じられる。
駅へたどり着き、ICカードで改札を通ってホームに上がっても、動悸が治まらなかった。春奈は何度も深呼吸を繰り返し、あれは見間違いだったのだ、と自分に言い聞かせた。そのたびに、脳裏に急に路地を曲がった裕恵の姿が浮かぶ。
そのとき、彼女はあることを思い出した。
裕恵は、自分から曲がったのではなく、誰かに腕を引っ張られたかのように、よろめきながら路地へと姿を消したということを。
愕然とした春奈の前に、当たり前のように電車がやって来る。それに乗り込んだ春奈だったが、思い出してしまった光景が頭を離れない。
自宅のアパートへ帰っても、眠ることも出来ない。体の震えが止まらない。
それでも、翌朝になると多少は冷静さが戻ってきた。とにかく、気持ちを奮い立たせて家を出、出勤した。
昨夜の出来事は、きっと何かの見間違いだ。裕恵だって、普通に出勤してきたに違いない。昼休みにでも、彼女の部署へ行って、昨夜のことを尋ねてみよう。
春奈はそう思っていたが、いざ行ってみると、彼女は無断欠勤していた。嫌な予感がしたが、たまたま休んだのだと、自分に言い聞かせた。
しかし、無断欠勤が二日になり、三日になってくると、会社の誰もが不審に思うようになった。裕恵は今まで、無断欠勤などしたことがなかっただけに、不安が募る。
三日目の夕方、普段の仲のよさから、上司から様子を見てきてくれるように頼まれた春奈は、同期で割合仲のいい男性社員とともに、裕恵のアパートを訪ねた。
だが、部屋には鍵が掛かっていた。新聞受けには、いくつもの新聞が押し込まれており、ここ何日かは不在だったことがうかがえる。
ためしに新聞を出してみると、一番古いのは、“あの日”の夕刊だった。二人で飲んで、ここに帰ってくる途中、彼女が姿を消した“あの日”……
春奈は改めて、全身が総毛立つのを感じた。消えたのだ。やはりあのとき、彼女は消えたのだ……
春奈は茫然と、“あの日”の夕刊を見つめていた……
* * * * *
晃が、自宅への最寄り駅にちょうど降り立ったとき、ガラケーのマナーモードの振動が、胸元に響いた。辺りはすっかり暗くなっている。
ホームの隅の、邪魔にならないところに移動して着信を確認すると、和海からだった。
「はい、僕です。小田切さん、どうしたんですか」
「ああ、晃くん。また、あっちのほうの依頼。今度は、人が突然消えたというの」
「消えたって、本当に消えたんですか? ただの家出とかいうんじゃなくて」
「そう、いわゆる『神隠し』ね。詳しいことはあとで話すけれど、今回は警察にも『捜索願』が出ているんですって」
晃は時刻を確認した。午後六時三十分を少し回っている。今から事務所に行けば、話を聞く時間はあるだろうが、夕食を用意して待っているであろう母をすっぽかすと、後が怖かった。
そうでなくても、以前怪我をして深夜に帰ったことで、結城探偵事務所でアルバイトをすることを本気で嫌うようになった母が、爆発しかねない。
「……今日は、これから事務所に寄るのはきついです。明日は大学が休みですから、事務所には明日顔を出しますよ」
晃がそう答えると、和海は事件のあらましをメールで送るといった。
「ちょうどよかった。実は明日、依頼人がもう一度事務所に来ることになっているの。そのときに、事件のあらましがわかっていたほうがいいでしょう。携帯に送ったほうがいいかしら。それとも、パソコンのほうがいい?」
「パソコンのほうにお願いします。パソコンなら、添付ファイルにしてもらえれば、そっくり読めますから」
「わかった。それじゃ、パソコンのほうに送っておくわ。依頼人は、明日の午後二時に来ることになっているから、それまでに事務所に来られる?」
「大丈夫です。それじゃ、明日に」