09.傀儡師
いつものように、生活費を稼ぐためだけの会社勤めを終え、苅部那美は帰宅した。
残業はいとわないが、休みはきっちりと取るというスタンスは、特に変わっているというわけではなく、会社ではそう目立つ存在ではなかった。
しかし、一度帰宅したのなら、彼女は禍神の狂信者だった。ひたすらかの神を崇め、神のために、自分のすべてを投げ出して奉仕しているに等しい日々を送っていた。
今日もまたバスルームで汗を流して身を清めた後、祭壇に向かい、数えきれないほど繰り返したがゆえに意識せずとも唱えられるようになった祝詞もどきを唱え、祈りの動作を繰り返す。
もっとも、本体は一時彼女の体を依り代として、力を取り戻すべく配下の鬼どもを差配している。
つい先日、以前名前の挙がった鬼すべての封印を解き、虚影様の配下として復活させることが出来た。
これからは、本格的に虚影様が力を取り戻すことになる。
それにしても……
(虚影様、どうやらやはり、ただの霊感持ちでは気づかれない程度の存在を張り付けて、結界を壊す核を作るという作戦は、あの忌々しい霊能者に見破られたようですね)
(まあ、仕方ないじゃろう。結界の内部が探れ、誰が“贄の巫女”であるかが特定出来ただけでも上等じゃ。気配を張り付けたあの若い男は、霊能者とよく連絡と取っているようじゃしの。半分は成功したとみてよい。しかし……連絡を取る方法が、今一つよくわからん。どうやっておるのじゃ……)
(おそらく、メールやSNSを使っているのでは?)
(めーる? えすえぬえす??)
さすがに、現代のネット事情を、長らく封印されてきた存在に説明するのは難しい。これは、知能が高いから理解出来るというものでもない。
知識として、隔絶してしまっているのだ。
様々な未来予想をしてきた過去のSF作家達が、唯一全く予想出来なかったのがインターネットと言われているくらいだ。
理論的にどういう理屈か説明しろと言われたら、那美でさえ説明に窮する。
虚影は昼間、彼女が仕事をしているときには、基本的に万が一のことを考え識域下まで降りて眠っているのだ。那美から話しかけない限り、その意識は外に向かない。
だからこそ、かつて神として君臨していた時代と、現代との見た目以上の変化に追いつけない。
ただ、力さえ取り戻してしまえば、矮小な人間の世界など気にする必要はないと考えているため、あまり深く考えていないというのが本当のところだった。
いざとなれば、配下の者を動かせば、いくらでもやりようはある。
(まあとにかく、離れた者同士が、誰でも簡単に連絡を取り合う手段があるのだ、とお考え下さい。確か、配下である鬼のひとりが、その場にいなかったはずのあの霊能者にひどい目に遭わされたそうですが、それもきっと携帯でつながっていたんですよ)
(けいたい……?)
(遠くの者同士が連絡を取り合うときに使う、まあカラクリだと思ってください。今の世の中、大抵の人間が持っていますからね)
現代の幽霊は、携帯電話さえ当たり前に利用するのだが、彼にはそういう発想はない。
(くだらぬものじゃの。念話を使えば、離れた者同士が話すのも自在じゃ。まあ、人間では、そのような力を持つ者もあまりおらぬから、カラクリに頼るのも、仕方がないかもしれぬが……)
(確かに、念話とかいうのを持ち出されると、どうしようもありませんが……)
もっとも、彼の意識の中の念話は、せいぜい数キロしか届かないものだった。かつて強大な力をふるう神であったときには、見渡す限りのかなたまで、神の権能で知覚出来、配下の者の念話など、数キロも届けば充分事足りた。その意識が抜けていない。
だが、虚影にとっては、そういうことは全て些末なことだった。
いかに効率的に自分がある程度力を取り戻し、神としての権能を使えるようになるか、それだけが関心事だった。
少しだけ、気がかりなことがあった。最近封印を解かれて復活した配下の一人、蒐鬼が、かつて自分が封じられていた祠のすぐ近くで化け猫を見た、という。
毛足の長い、三毛猫だったという。
そのような存在は、例の“人の力を超える霊能者”が使役するあの化け猫以外、考えられない。ということは、あ奴があの場所の存在を突き止めた、ということになる。
もっとも、並の人間が手を出せるところではない。
あの霊能者なら、あそこまでやってこられるかもしれないが、たった一人で来るのなら、逆に返り討ちにするまでだ。
“女のような顔をした男”という話だったが、体つきも男にしては華奢だった。
霊能者としての力は時に人を超えるものがあるが、純粋な肉体的なものはどうだろうか。
試してみる価値は、あるだろう。
どうせ、いつかは排除しなければならないのだ。あ奴が“贄の巫女”の周辺をうろうろしているだけで、目障りで仕方がない。
こういう時にうってつけなのが、濫鬼だ。一つ、あ奴に命じてみるか。
濫鬼の力なら、もしかしたら違った形であの忌々しい霊能者をつぶせるかもしれない。
さっそく今夜にも、と虚影は那美の中で考えを巡らせた。
* * * * *
川本家に行ってから数日後、晃はいつものように授業を終え、帰り支度を済ませると、最寄り駅に向かうため、大学の構内を歩いていた。
周囲には、同じように帰宅しようとしている学生の姿が見られ、用事でまだ残る者たちも含め、構内には結構な人通りがあった。
もしその時、何の依頼も受けておらず、まったくの無警戒だったら、おそらく気づくのが遅れただろう。
だが、禍神に関わる一件に携わってから、心のどこかで周囲を警戒していた晃は、“それ”にすぐ気づいた。
(……つけられてる……みたいだね。三人ぐらいかな)
(ああ。でも、この気配は人間だな。尾行としても、なんだか素人臭いんだが)
(わたいが、やっつける?)
(アカネ、お前がやるとシャレにならないからやめなさい。人間相手でも、お前相手をズタボロに出来るだろうが)
元々は、人を喰らって封じられていた“前科”があるアカネだ。相手が人間なら、なおさら出すわけにいかない。
晃は敢えていつものルートをそれ、人目に付きにくい旧講堂の裏に回り込んだ。
人目に付きにくいとは言っても、ほんの二十メートル余り先では学生たちが歩いている。周囲から完全に遮断されているというわけではない。
それでも、自分に用があるなら行動を起こすはずだ。
晃の読みは当たった。急に足音が大きくなったかと思うと、一人の男が足早に追い越してこちらを振り向き、さらに二人の男が逃げ道をふさぐように並んだ。
形としては、三人の男に取り囲まれたことになる。
もっとも、こうなることを予期していた晃は、慌てなかった。
素早く見回して、三人の素性を確認する。
三人とも体格はかなり良く、しかも相当屈強に感じられ、どうやら同じ大学のスポーツ系サークルに所属する学生、という感じだった。雰囲気としては格闘技系か、フィジカルコンタクトが激しいスポーツ系だろうと推測された。まあ、大学構内で尾行されたのだ、同じ大学の学生と考えたほうが、自然ではある。
「道を開けてもらえませんか。見ず知らずの人に、取り囲まれるような覚えはありませんので」
冷静な口調で、周囲の男たちに声をかけるが、相手は無言のまま晃の方をじっと見ている。それどころか、今にも掴みかかってきそうな素振りさえ見せる。しかもその目は、妙に生気というものが感じられない。
(……これは、精神を操られておるのであろうな。おのれの意思でないのは確実であろう)
(やはり、そうですか)
笹丸の言葉に、晃はある意味で覚悟を決めた。いくら口で説得したところで、彼らは聞く耳を持たない。何者かに操られているのだから。
ならば、実力行使しかなかった。
晃は、目の前の男を睨みつける。次の瞬間、その男がまるで見えない巨人の手に張り飛ばされでもしたかのように真横に吹っ飛び、旧講堂の外壁に激突してそのまま崩れ落ちた。
普通なら、眼前でそのようなことが起これば愕然とするなりなんなり、何らかの反応があるはずである。だが、残り二人の男は、その場に立ったまま何の反応も示さなかった。それを見ただけで、この二人が異常な状態であることは明らかだった。
晃が振り向いた途端、二人は掴みかかってきた。だが、二人の手が晃の体に触れる前に、やはり先程吹っ飛んだ男と同じように、二人同時に旧講堂の外壁に叩きつけられ、そのまま二人とものびてしまった。
三人の“気”を確認するに、多少の打撲や捻挫はしているだろうが、命に危険が及ぶような重篤な怪我をしている気配はない。これで無力化は完了だ。
しかし、まだその場にはあるモノがいた。そいつに向かって、晃は話しかける。
『ずいぶんと、派手なマネをしてくれますね。無関係な人を、巻き込まないでくれませんか?』
『……力の強そうなのを集めたつもりだったけど、まさかあんなに念の力が強いとは思わなかった。きれいな顔して、やるじゃないの、あんた』
晃の位置から十数メートル離れた位置に、ソレはいた。実体化しておらず、霊感があっても茫洋とした存在にしか“視え”ないだろう姿であっても、晃の眼ははっきりと捉えていた。
茶髪白肌で一本角。緋の衣を纏った妖艶な女の鬼。彼女が、例の三人の精神を操って晃を襲わせた張本人に違いない。
『……それにしても、華奢な体だから力で押さえ込めばいいかと思えば、ちゃんと対抗する手段を持ってるなんて、厄介な子ね。なるほど、あのお方が目障りに思うわけだわ』
『“あのお方”ですか。それはつまり、“禍神”ということですね』
『……それはどうとでも。とにかくこの場はあんたの勝ち、ってことにしておいてあげるわ。ただ、このまま終わるとは、思わないことね』
彼女はそう言うと、一瞬にしてその気配が薄れ、消えていった。
(……ああいうのは厄介だな。で、だ。この場はさっさとずらかったほうがいいと思うんだが、どうだ? 晃)
(……そうだね。きっとこの三人、操られてる間のことは、覚えてないと思うから、今のうちに……)
晃は、もう一度だけ倒れている三人に目をやると、申し訳ないとばかりにぺこりと頭を下げ、さっさとその場を後にした。
このあたりは土を固めた上に細かい砂を敷き詰めた地面で、争ったような激しく砂を掃いた跡がはっきりと残っている。万が一この現場を誰かに見られたら、面倒なことになるのは、火を見るより明らかだった。
一応、状況的には正当防衛が成立するとは思うが、どうしてこうなったのかという説明が出来ない。三十六計逃げるに如かずである。
(それにしても、そなたの<念動>は、本気にならずともあそこまでの力が出せるのであるな)
感心したような笹丸の声に、晃は軽く肩をすくめる。
(ええ。瞬間的になら、大人二、三人まとめて弾き飛ばすぐらいの荷重はかけられます。ただ、文字通り地に足を付けていないと使えないんですけど)
(あの鬼の女の前で、本性現さずに済ませられたっていうのは、まあよかったとは思うが……。これからまた、あの女に操られた奴が、お前のところにやってくるかもと思うと、めんどくさいったらないぜ)
(それは僕も危惧してる。襲われた時の状況によっては、僕に非があるように見える状況になったらどうしようかって考えてる。例えば、若い女性が勝手に『体を触られた』と言い出すとか……)
状況証拠が黒で、晃本人がきちんと説明出来ないとなれば、警察を動かすことも出来るだろう。どこの警察が、『鬼に操られた人間に絡まれた結果、こういうことになった』と説明して、まともに受け取ってくれるのか。
まあ、精神鑑定に回されることは確実だろうが。
だが、今の晃にとって、川本家から、何より万結花から長期間引き離されることは、致命的な事態を引き起こすことになりかねない緊急事態になる。
なんとしても、それは避けなければならない。
すると笹丸が、まるで緊張をほぐすようにこう言った。
(とはいえの、我はあまり深刻に考えずともよいと思うておる。あの鬼であるが、まず間違いなく、異性しか誑かせないであろう。ならば、晃殿が窮地に追い込まれることはあるまいよ)
(それはつまり……)
(先程のようなことはまた起こるやもしれぬが、あの鬼、人間の女に化けて色香で男を惑わす鬼であるな。それだけに、男しか操れぬ。しかも、まずは色香で惑わす必要があるために、年端のいかぬ子供も操れぬ。子供が操れれば、さらわれそうになったと騒ぎ立てることによって、そなたらが危惧するようなことも起こりえたのだろうがの)
そういう意味で、相手にとっての一番の誤算は、晃が細身で華奢な体であるにもかかわらず、<念動>の攻撃で、屈強な男をあっさり弾き飛ばせる力を持っていたことだろう、というのだ。
(そなたが男にしては華奢であるからこそ、力づくで影響を及ぼそうと考えたが故の、先程の一件であったのだと思うのだがの。それが通じぬとなると、さて、どう出てくるか。それこそ、不意をつくくらいしかなかろうが、晃殿は勘が働くからの……)
笹丸の言葉に、晃も歩みを止めないまま考える。
(……となると、川本の奴狙われるかも。あいつが操られたら、ものすごく厄介なことになる。あいつにも、お守りを作って、渡しておいた方がいいな)
(確かにな。“贄の巫女”の兄でもあるし、あいつに何かあると、えらいことになるな)
(この間だって、スパイカメラ代わりの質のよくない気配がへばりついてたし。あれはほぼ偵察用だったからまだよかったけど、中に入ったところで活性化して攻撃してくるようなモノだったらヤバかった。僕が四六時中“視て”いるわけにもいかないからね)
やがて、晃が大学の門を出る頃、背後でなんだか騒ぎが起きていた。何人かの学生が、旧講堂の裏手の方に走っていくのが視界の隅に映る。
(あー……あの三人が見つかったみたいだな。でも、僕としてはこのままさっさと駅に向かうしかないけど)
(大丈夫だ。お前が直接殴ったわけじゃない。大体、誰がどう見たって、お前とあの三人がやりあったら、殴り倒されるのはお前だって誰でも思うだろう。素知らぬ顔してりゃいいんだよ。そもそも正当防衛ってやつだろ)
(まあ、そうなんだけどさ……)