07.間諜
その朝一番で送られてきたメールを読んだとき、川本雅人は一瞬内容が頭に入ってこなかった。
『おはよう。早見です。結城探偵事務所に間借りすることになりました。でも住所変更はしません。大まかには何も変わらないので、一応お知らせまで』
「なんだこれ?」
思わず口に出してしまったが、読んだ第一印象がそれだった。
探偵事務所に間借り? それでも、住所変更はしない? どういうことだ?
これは、今日大学に行ったら、本人をなんとか捕まえて問いたださないといかんだろう、と雅人は思った。
学部や学年こそ違え、カフェテリアでは結構顔を合わせることが多いため、昼休みにカフェテリアで探してやろうと心に誓った。
とにかく大学へ行き、午前中の授業を一通り済ませると、ほとんどダッシュするような勢いでカフェテリアに向かう。
見渡すと、人はまばらでまだ肝心の人物の姿は見えない。
雅人は日替わり定食を頼むと、入り口がよく見える席に陣取って注意深く様子をうかがいながら食べ始めた。そんな食べ方をしているものだから、味もよくわからない。
すると、それから十分ほどして晃が姿を現した。見ていると、うどんか何かを頼んでいる。
彼が注文カウンターを離れてテーブルのある方へ向いたところで、雅人は手を振って晃を呼び寄せた。
「おーい! こっち、こっち。ここ座れよ!」
「ああ、川本か」
晃は素直にやってくると、雅人の正面にトレイを置き、そこの席に腰を下ろす。トレイに載っていたのは、きつねうどんだった。それも、どう見ても並盛。
「……いつも思うけど、お前その程度で足りるのか?」
「足りる。前にも言ったと思うけど、少食なんだよ」
ほとんどお約束のような会話を交わした後、雅人は本題に入る。
「……なあ、今朝のメールは何だ?」
「なんだって言われても、あれはもう、そのまんまで」
「探偵事務所に間借りって、どういうことだ?」
じっと顔を見る雅人に、晃は大きく溜め息を吐くと、はっきりこう言った。
「家を飛び出した」
「はぁっ!?」
さすがに声が大きくなり、そうでなくても晃といることでなんとなく周囲の耳目を集める状態だった雅人は、これで完全に周りの注意を引いた。
周囲の人間がじっとこちらを見ている状態に、雅人は気まずげに首をすくめる。
周りの視線が外れるまでじっくり待ってから、声を抑えて雅人が切り出す。
「……家飛び出したって、つまり家出か?」
「まあ、そんなもん。でも、電話で父親を説き伏せて、今回の行動は認めさせた」
「すげえな、お前」
「その代わり、学費は出すけど生活費は何とかしろ、ってことになって、そのまま探偵事務所の事務のアルバイトすることになった」
「よく、そんなふうに都合よくいったな」
「それには、僕自身が逆に驚いてる。申し出てきたのは、所長のほうだったから」
晃自身が、本当に今でも都合よく行き過ぎて信じられないらしい。
「ただ、はっきり言われたよ。『間借り賃取らない代わりに、高い時給は出せない』って」
もっとも、本人としては事務所の二階の空き部屋に間借りする身なのだから、ある意味当然と思っているようだった。
「ところで川本、お前の背中に、かなり質のよくない気配がくっついてるのがうっすら“視える”んだが、祓ったほうがいいね」
「えっ!?」
自分でもそこそこ霊感がある方だと思っていた雅人だったが、言われるまで、そんなことには気づかなかった。
「それ、マジか?」
「マジ。でもお前が気づかなくても、仕方がないよ。本当にうっすらとした気配なんだ。それに気づけたら、即霊能者になれるくらいの力があると思う。で、その気配なんだが、明らかに質がよくない。これは、お前に張り付いたまま結界の中に入って、家の中の様子を探るためのものだね。いわば、スパイ用の盗撮カメラを取り付けられたようなものだ」
「げっ!!」
雅人はぎょっとすると同時に、晃に尋ねていた。
「いつごろから、そいつはおれに憑いていたと思う?」
「……そうだね、ここ二、三日といったところだとは思うけど……それだけあれば、家の間取りや家族構成なんかはバレバレだろうな」
「そ、それじゃあ……」
雅人が内心焦りながら、恐る恐る聞き返す。
「“贄の巫女”は誰なのか、知られてしまってるだろうね、禍神に……」
雅人の目をじっと見ながら、真顔で答えを返す晃に、雅人は一瞬背筋に冷たいものが走るのを感じた。
「川本、落ち着いて聞いてくれ。いつかはばれることだったんだ。相手は、いくら力を落としていようと、“神”だ。こちらのわずかな隙をついてくる。そして、“贄の巫女”の力を求めてくる。だからこそ、彼女には、心をしっかりと持ってもらわないといけないんだ」
そこまで言うと、晃は右腕を伸ばし、人差し指と中指を揃えて雅人の額に当てると、ほとんど息だけの気合の声を発すると、指を真上にはね上げた。
その時、雅人は自分の首の後ろから何かがずるりと抜け出したような感覚がした。一瞬のことだったが、それが自分に取り憑いていた“気配”が祓われた瞬間だったのだとわかった。
直後、晃は何事もなかったかのように笑みを浮かべると、万結花には、空いた時間を使って、神社をめぐるのはどうかと提案してきた。
もちろん、今すぐ仕える神を定めるのではない。将来仕える神を定め、それを心の芯、支えにして、禍神の攻撃―それはおそらく心を揺さぶり、追いつめてくるものになるだろう―に耐えられるようにしようとするものなのだという。
「実際にどの神と相性がいいかなんて、訪れてみないとわからないものだからね。もちろん僕も、付き添って全力で護る。お前にも立ち会ってもらいたい。考えてみて欲しい」
「ああ、わかった……けど……」
ただ、そんなことをすれば、付き添っている晃も明らかに狙われるのではないか?
そうでなくても、妹のために散々手を尽くしてくれていたのは間違いない。すでに、仮想敵とされていておかしくはなかった。
直接対峙したら、確実に敵だとして狙われるはずだ。
「なあ、そんなことしたら、お前が直接狙われることにならならないか?」
雅人が危惧をぶつけてみる。すると、晃はかすかに微笑んだ。
「承知の上だよ。それに、すでに直接ぶつかっていると言えば、ぶつかってるんだよ。今更だ。何度も言ってるだろ、どんなことをしても、必ず護るって」
晃の眼が、まっすぐに雅人を見つめる。それには、まったく揺らぎが感じられなかった。
雅人には、それが晃の本気度を感じさせ、なんとなく空恐ろしくさえ思った。
本気で“神”に喧嘩を売る気なのか、こいつは……
しかしさすがに雅人も、晃のその心の奥に、妹万結花に対する恋慕の情が隠されているとは、この時は気づかなかった。
「それと、今日帰りがけに家に行っていいかな? 家の中の様子を確認しておきたいんだ。お前に憑いていたあの気配が、余計なことをしていないか、〝視て“みないと」
晃の言葉に、雅人は我に返ったように慌ててうなずいた。
「ああ、それは構わない。お前、今日の終了予定っていつごろだ?」
「ええっと、確か……」
二人は、互いの午後の予定を付き合わせた。
「大体同じくらいの時間に終わりそうだな」
「そうだね。でも……男二人で一緒に帰るっていうのはどうかと……」
普通の友人同士なら、なんてことはないのだろうが、いかんせん晃が目立ちすぎる。
おまけに、ただ目立つだけではなくて、容貌が中性的であるため、うっかりすると、あらぬ噂を立てられかねない。
実際、一部の男子学生にも、晃は騒がれているらしい。
晃にとっては、ちっとも嬉しくない話ではある。
「……ほんとに、お前の目立ちすぎる顔って、いろいろ不自由なんだな……」
「……理解者が出来て嬉しいよ……」
元々雅人の家はわかっているのだから、と晃のほうが時間をずらしてあとから向かうことで話はまとまった。
そして、互いに溜め息を吐きながら、少々冷めかかった昼食を口にする。
それから、とりとめもないことを話して互いに午後の授業に向かい、それぞれきちんとすべて受けた後、打ち合わせ通りに時間をずらして川本家へと向かった。
雅人としては、先に自分が家に行って事情を説明しておかないと、家族の中にいろいろ騒ぎ立てる人間がいるというのが、頭が痛かった。
いきなり晃が行ったら、絶対母なり妹なりが大騒ぎをするに決まっている。
案の定、これから晃が来ることを告げた途端、母の彩弓とすでに帰宅していた妹の舞花のテンションが目に見えて上がるのがわかった。
「言っとくけどな、今回は遊びで来るんじゃないんだぞ」