06.一員
すると、シャツの胸ポケットに入れてあった携帯が着信した。見ると、自宅からだった。
晃はとりあえず電話に出る。
「はい、晃です」
「晃か。今、どこにいる?」
焦りを含んだ父の声。晃は冷静に答える。
「知り合いのところ。ちゃんとした一軒家だし、許可も取った。お互い、しばらく直接顔を合わせないほうがいいと思う。落ち着いてくるまで、僕はこっちにいる。ここから、大学にも通うつもり」
「何を言ってるんだ! 早く帰って来なさい! そんなわがままが通用すると思うのか!? 学費は誰が出してると思っている! お前がそういう態度なら、こちらも考えがあるぞ!」
父の声に、明らかに怒りが混ざる。しかし晃は、冷静なままさらに答えを返した。
「『こちらにも考えがある』か。ならどうするつもり? 学費を出すのをやめて、大学を中退させるつもり? 本当にやりたければ、別に構わないよ。その代わり、そこまで踏み込んだなら、こちらも二度と家には帰らない。勝手にやらせてもらう。今の大学を卒業しなくても、司法試験を受けるチャンスは作れるから」
「そこまでは言っていない。とにかく、お前の顔を見ていないと、母さんがだめなんだ」
「それって、『自分じゃ手の出しようがない』と言ってるようなもんだよね。本当に出しようがないなら、そこまで母さんを僕に“依存”させた自分が悪い、とは思わないの?」
晃は、冷徹とも思えるほど、淡々と話している。
傍で聞いている結城や和海のほうが、ハラハラしながら成り行きを見守っている状態だ。
「晃、最近急にどうしたんだ? 確かに、母さんのことは悪かったと思うが、だからといって突然こんな態度に出るなんて……」
電話の向こうの父が、困惑している。“視る”とはなしに“視て”しまった父は、日頃の冷静さを完全に失っていた。
「……本当に突然だと思ってる? あの事故の後、自分自身リハビリがまだ続いてる状態で、不安定だった母さんを受け止めなければならなかった僕が、どれだけ自分を抑えていたか、父さんは気づいてなかったんだね」
元々、霊感の強さゆえにいろいろなものを“視て”いたにもかかわらず、それを全否定され続けて両親へのぬぐえぬ不信感が根底にあった状態で、それである。
しかも、健康な心身をしていたというならともかく、事故の後遺症と戦いながら、必死にリハビリを続ける中で、精神が不安定な人間を支えるということが、どれほど神経をすり減らすものであったか……
実際、『霊感が強いだけのただの高校生』だったら、途中で爆発していたかもしれない。遼という存在が晃を支え、晃の精神の暴発を抑えた。遼がいなければ、晃のほうがおかしくなっていたはずだ。
「母さんのそれは、さっきも言ったけど『依存』だよ。僕の世話をすることで、自分の精神の安定を図っていたんだ。でも、いつかはそんなこと出来なくなる。ちょうどいい機会だったんだよ」
いつか人は独り立ちする。その一歩を踏み出したのだと、そう思えばいいと。
晃はあくまでも、家には戻らないという態度を崩さない。
しばらくやり取りが続いたが、ついに父の正男のほうが折れた。
「……わかった。だが、ちゃんと定期的に連絡は入れるんだぞ。大学にもきちんと行きなさい。それと、学費は出すが生活費は出さない。いいな。それが条件だ」
「それで構わないよ。生活費は、自分で何とかする。一週間に一度、連絡する。それでいいね?」
「ああ。お前は体が丈夫じゃない。体にだけは気を付けるんだぞ」
「わかってるよ……」
話し終えた晃が、電話を切ってガラケーをたたみ、胸ポケットにしまうと、それまで口を挟むに挟めずにいた和海が焦ったように口を開いた。
「晃くん、いいの? ほんとに、ちょっとした家出じゃなくて、当分帰らないってことでしょ? ほんとにここに居るつもりなの?」
「ええ。そのつもりなんですけど……迷惑でしたか?」
「いやいや、そんなことは全然ないんだけどね。むしろ、個人的には大歓迎なんだけど」
正直なことを言えば、晃がここに滞在するなら連絡も取りやすくなるし、色々都合がよくなることは確かなのだ。ついでに、晃と顔を合わせる時間が長くなるのも内心嬉しく思えた。
片や結城は、苦笑しっぱなしだった。まず、緊急でやるべきことがいろいろ出来たとわかったからだ。まずそれのひとつをするためには、和海に声をかける必要がある。
「小田切くん、事務所の鍵は手元にあるか?」
いきなり尋ねられ、和海は一瞬面食らったが、気を取り直して答える。
「え、ええ。ありますけど」
「それなら、合鍵を一つ作っておこうか。早見くんに渡す分を」
一瞬キョトンとした和海だが、自分たちが出勤する前に晃が大学へ行くようなことも度々あるだろうことにすぐに気づき、ああ、とうなずいた。
「それじゃ、さっそく合鍵を作ってきますね」
妙にいそいそと出かける和海を見送った後、結城は改めて晃に話しかける。
「一つ聞きたいんだが、生活費は自分で何とかすると言ってたな。具体的にどうするつもりだ?」
「……正直、まだ全然決めてません。自分でも、家に帰った直後に、親と喧嘩してそのまま飛び出してくることになるなんて、思ってもいなくて。貯金が少しはあるので、それがなくならないうちに、何とかバイトでも見つけたいと思ってます」
ただ、体を使うバイトは無理だろう。それは晃自身よくわかっていた。
晃が少し考えこんでいる様子なのを見て、結城はひとつ大きく深呼吸すると、晃にとって思いがけないことを言い出した。
「なら、うちの事務所の手伝いをしてくれないか? うちに所属している所員たち、高橋さんや村上くんだが、彼らは調査担当で、事務仕事は最低限しかやっている暇がないんだ。事務仕事はもっぱら私と小田切くんの仕事でね、いつも結構な時間がかかってしまう。君が手伝ってくれるなら、こちらとしても、都合がいいんだが」
「えっ!?」
晃は思わず、結城の顔をまじまじと見つめた。そんな都合のいいことが、あっていいのだろうか。
「その申し出はすごくありがたいんですけど、なんだか都合がよすぎて逆に不安になってくるくらいなんですが」
晃の言葉に、結城は再び苦笑する。
「まあ……そう思われても仕方ないだろうなあ……。だが、ほんとのことなんだ。それで結構長時間残業になることも多くてな。私はともかく小田切くんは早く帰してやりたいと常々思っていたんだ。パートでもいいから、事務担当の人を一人、募集しようかと考えていたところだったんだよ」
結城は、『昔は高橋さんがある程度そうだったんだが、すっかり調査員になってしまって』と溜め息を吐きながら頭を掻いた。調査員も充分とは言えなかった台所事情もあり、積極的に動いてくれる高橋栄美子に事務をやってくれとは言えなかったらしい。
「君がここの二階に間借りする代わりに事務仕事を手伝ってくれれば、その分早く片付くはずだし、君は少しくらい遅くなってもそのままここに泊まるのだから何とかなるのではないか、と思ってね。もちろん、あまり遅くなるようなら、学業に差し支えるだろうから、適当なところで上がってもらって構わない。ちゃんと時給も払う。どうだろうか?」
最後に問いかけた結城の顔は、思いもよらないほど真剣なものだった。
「僕にとっては、さっきも言ったとおりに、都合がよすぎて信じられないくらいです。でも、本当にいいんですか?」
結城がうなずく。
「ああ。本当はちゃんと履歴書を書いてもらうところなんだろうが、君の場合、形式上でも元々アルバイトしていたという形になっているからな。あとで、必要な書類はこちらで用意するよ。すべての段取りは明日以降でいいだろう。もっとも、間借り賃取らない代わりに高い時給も出せないんだが」
「いえ、構いません。何から何まで、本当にすみません、所長」
晃が、頭を下げる。
「二階の仮眠室に、荷物を置いてきます。置いてきたら、さっそく手伝いますから」
「おいおい、そんなに慌てなくてもいいんだ。今日は、色々あって疲れてるだろう。今日のところは休みなさい。それに、さっきの話の様子じゃ、夕飯だって食べてないんだろう?」
そう言うと、結城は自分の席に置いてあったコンビニのおにぎり三個を晃のところへ持ってきた。
「さっき、小腹がすいた時用に買ってきたものだが、よかったら食べなさい。私は、もうすぐで一区切りつけられると思うから」
「で、でも、所長が食べるつもりだったんじゃ……?」
「おそらく、家に持って帰って夜食にしてたと思うよ。夜食にするものは、別にあるから、心配しなくていい」
晃は、結城の気づかいに胸がいっぱいになった。とにかく、荷物はこのままここに置いておくわけにもいかないため、二階の仮眠室へと持っていく。
仮眠室の片隅にキャリーバッグとワンショルダーを置くと、これからのことをふと考えた。
今この時、この部屋から自分の新しい一歩が始まる。勢いで飛び出してきてしまったため、本当は前の自室から持ってきたいものもあるにはあるが、ひとまず手元にあるもので何とかしなければ。
(……まったく、お前がおやじさんと大喧嘩になった時にはどうなるかとハラハラしたが、なんとなく落ち着くところに落ち着いた感じだな。それにしても、俺はここを選んでくれて正直ホッとしてる。これで、少しでも貯金があるからって、ネットカフェにでも転がり込まれた日にゃ、どうしようかと思ってた。そう考えるようだったら、本気で止めてたが)
(ああ、そうか……。それは考えなかった。無意識に、ここの近所に来てたしなあ)
(俺としては、お前がちゃんと人に頼ってくれたことがほんとに嬉しいよ)
(そうだね。自分でも意識してなかったけど……。でも遼さん、これからやらなきゃならないこと、山積みだよ)
(そうだな。でもさすがに、住所変更の手続きまでは、まだするつもりはないだろう?)
(まあ、今のところは)
そして、荷物の中からパソコンを取り出すと、それをやはり部屋の片隅の床に置き、さらにACアダプターや接続ケーブルなども引っ張りだした。
晃にとって幸運なことが、実はもう一つあった。
これは以前から知っていたことなのだが、探偵事務所で使っているプロバイダと、晃が使っているプロバイダが偶然同じだったのだ。
それを知った時には、こんな偶然があるんだな、と笑っただけだったが、今となっては重要だった。
同じ会社であれば、何とか回線に接続出来れば、最悪IDとパスワードを打ち込み直すだけでネット環境が復活出来る。
晃が持っているのはガラケーなので、そういう意味では心もとない。早く、パソコンでネットが出来る環境を復活させたい。
もっとも、今すぐやれるわけではないだろう。取りあえず引っ張り出しただけだ。
それだけ出すと、晃は再び階段を降り、一階の事務所に戻った。
晃が戻ったところで、和海が外から帰ってきた。
「合鍵を早く作ってくれるって看板出していたところで、作ってもらったの。ほんとに早かったわ。うちの事務所の近所、結構いろいろな店があるのよ」
笑いながら、和海は真新しい鍵を晃に手渡した。
「ありがとうございます」
晃は受け取った鍵をいったん近くのデスクの上に置き、ジーンズのポケットからキーホルダーを取り出しと、すでに鍵がついているそのキーホルダーに新たに取り付けた。
今までの自宅の鍵の隣に、新しい鍵が光る。
それを再びジーンズのポケットにしまい直すと、晃は勧められるままにコンビニおにぎりの封を切る。
そしてふと思い出したように手を止め、首にかかった二つの石から、次々と笹丸とアカネを呼び出した。アカネはもちろん、普通の猫のサイズだ。
「まだ笹丸さんに“お供え”をしていなかったので」
言いながら、晃は口と片手でおにぎりの包装を器用に半分外すと、それをそのままデスクの上に包装を下にして置いた。
それを“食べ”ながら、笹丸は改めて探偵事務所の中を見回していた。
(晃殿、ここはそなたにとって、決して悪いところではない。今自宅が、心穏やかに過ごせるところではなかったのであるから、思い切って出てしまった今回の選択は、むしろ良かったのではないかの)
(あるじ様、ここのほうが静か。あるじ様も、穏やかな顔してる)
アカネにまで言われた。そこまで自分は、顔つきが変わってきていたのだろうか。
晃が感慨にふけっていると、笹丸が鮭のおにぎりを、アカネがオカカのおにぎりをそれぞれ“食べ”、揃って晃の顔を見る。
晃はその視線に気づくと、少し苦笑いをしてふたりが食べた分のおにぎりを先に食べ、残った梅のおにぎりを味わって食べた。
食べ終わったところで、晃は改めて結城に向き直る。
「所長、やっぱり、今日から多少のことはやります。単純なデータの打ち込みとか、そういうことなら今からでもなんとかなると思いますから」
「そういうことなら、やってもらおうか。意外とあるんだ、そういう単純作業」
晃と結城の会話に、当惑したのは和海だった。
晃が事務所を手伝うという話は、彼女が合鍵を作りに行っている間にまとまったものだからだ。
「え? え? え? どういうこと!?」
話の展開についていけなくなっている和海に、結城が事の次第を説明すると、途端に和海のテンションが妙に上がった。
「なんだ、所長も結構気が利くじゃないですか! 晃くん、大歓迎よ! 一緒に頑張りましょうね!」
「は、はい。よろしくお願いします」
晃は、予備機としておいてあるデスクトップパソコンを立ち上げると、傍らに立つ和海にひとまず教わりながら、データの打ち込みを始めた。
片手だけにものすごく速いというわけではないが、そこそこのタイピング速度で打ち込んでいく晃に、和海はにこにこしながらうなずいた。
「さすが、普段パソコン使ってるだけあるわね。最近の子だと、スマホオンリーでキーボード打てない子がいるって話も聞くけど」
「いくらなんでも、それひどすぎでしょ」
そんな和海に、今度は結城がキーボードを不器用に叩きながら声をかける。
「早見くんにずっとつきっきりになっていないで、自分の仕事も片付けてくれないかな。また帰るのが遅くなるぞ」
「はーい。もう、所長ったら……」
和海はぶつぶつ言いながらも自席に戻り、先程中断した仕事を再開する。
こうして結城探偵事務所は、新たな(?)人員を一人加えた。