05.出奔
数日後、結城と和海がそろそろ事務作業のまとめに入ろうとしていた午後六時頃、突然晃が事務所を訪れた。それも、背中にいつものワンショルダーリュックを背負い、キャリーバッグを自転車の荷台に無理矢理くくり付けた状態で。キャリーバッグの大きさは、ちょうど飛行機の客室内持ち込みがギリギリ出来るくらいのサイズだ。
「いったいどうしたんだ、早見くん。その恰好は……」
思わず問いかけた結城に、晃は一瞬押し黙り、大きく溜め息を吐くと、意を決したように答える。
「家を飛び出してきました。いきなりで申し訳ないんですけど、ここに泊めてください」
「はぁ!?」
二人の声が、驚きのあまり見事に揃って裏返る。
「と、とにかく中に入って。所長、手伝ってください!」
「あ、ああ、わかった」
結城が荷物を自転車から降ろして中に運び入れると、和海は自転車を押して敷地内の片隅に止める。
その間晃は、どこか茫然と立ち尽くしていたが、和海が自転車の鍵を渡しがてら、手を引っ張って中に入れ、とりあえず事務所のソファーに腰を下ろさせた。
その首にかかった乳白色と橙色の石が、ゆらゆらと揺れた。
「いったい何があったんだ。『家を飛び出してきた』なんて……」
結城が再び問いかけると、晃はぽつりぽつりと話し始める。
「……母のことで、父と喧嘩になったんです。売り言葉に買い言葉で、お互いエスカレートして引くに引けなくなって、『こんな家、出ていってやる!』って思わず啖呵を切ってしまって……」
前々から、荷物の用意だけはしてあったという。何かあった時、最低限これだけは持っていこうと思って用意してあった荷物の中に、大学の教材やいつも使っているノートパソコンなどを入れ、自転車に荷物をくくり付けて、そのまま家を出てきてしまったのだ。
「……前にもお母さんと喧嘩してたし、いつかやるんじゃないかと思ってたけど、ずいぶん派手にやらかしたわねえ」
「……すみません。家を飛び出して街中に出た時、咄嗟に飛び込めそうなところって、やっぱりここしか思いつかなかったので……」
結城探偵事務所は、元々普通の一軒家の民家だ。
キッチンもあれば、当然バス・トイレも完備。
二階には、仮眠出来るように簡易ベッドや毛布などを置いた部屋もある。
洗濯機はさすがに置いてはいないが、近くにコンビニやコインランドリーもあるので、ここに長期間泊まることは、可能と言えば可能だ。
しかし、よりによって親子喧嘩の挙句に家を飛び出してくるとは……
「ご両親に、連絡しなくていいの?」
和海が尋ねると、晃は投げやりな口調で答えた。
「携帯の番号くらい、両親とも知ってますよ。そのつもりがあれば、そのうち向こうから連絡してきます。一応、最初の一回くらいは出ますけど」
結城も和海も、これはどうにもならないと思った。
前々から、出来れば一人暮らしをしたいと言っていた晃だ。ちょうどいい機会とばかり、飛び出してきたのだろう。日頃溜まっていた鬱屈が、一気に爆発しての親子喧嘩だったに違いない。
「とにかく、私の妻の実家だった建物を私が借りている形だし、使っていない部屋もあるし、君がここに泊まること自体特に問題はないんだが……」
親子喧嘩の果ての家出先というのが、何とも塩梅が悪い。
とはいえ晃は、両親の庇護が必要な未成年ではない。自分で自分の責任が取れる、二十歳を過ぎた成人なのだ。
「しかし、そのキャリーバッグ、いったい何が入ってるんだ?」
興味を引かれた結城がつい問いかけると、晃はキャリーバッグを開けて見せる。
晃が広げ始めた荷物を見るに、ノートパソコンや大学の教材、銀行の通帳とキャッシュカード、健康保険証と病院の診察券などをひとまとめにしたケースなどが入っている。
その他には、何着かの着替えが小さく丸めて押し込まれ、何に使うのかよくわからない小さめのプラスチックケースや、その他もろもろが詰め込まれていた。
よく見ると、プラスチックケースの中身は、傷薬や絆創膏などが入った薬箱らしい。
これで非常食や水などまで入っていれば、それこそこれだけで数日過ごせる非常持ち出し荷物にそっくりなるだろうが、さすがにそこまでは入っていない。
背中から降ろしたワンショルダーにも、大学の教材やノート、筆記用具に現金の入った財布、ICカード兼用の定期のほかに、ちょっとした身の回りの品などが入っていた。
こちらは、元々大学に持っていっていた荷物に、さらに部屋の中の物を付け加えたという感じか。
家出荷物としては、ちょっと完璧すぎる。さすがに、ある程度以前から用意してあったというだけのことはある。
こんなところで、用意周到さを発揮してほしくはなかったが。
結城が呆れ半分感心半分で、見るとはなしにそれを眺める。
「……結構本気の荷物だな。ここに、何日ぐらい居るつもりなんだ?」
「……特に決めていません。ただ、しばらく居ようと思ってます。所長とか小田切さんが、迷惑でなければ、ですけど」
晃が目を伏せながら、大雑把に荷物を戻した。アポも何もなしで、いきなり飛び込んできてしまって迷惑をかけている、という自覚はあるのだ。
「いや、どうせ夜なんか誰もいなくなるんだし、別にどれだけ居たって構わんと言えば、構わんのだが……大学はどうするんだ? ここから通うつもりか?」
「……そうなると思います。これでも司法試験合格を目指してる身なので、そこはきっちり学業に努めないとあとで自分が困るので」
「だろうな」
二人とも、多少の呆れは含むものの、晃を拒絶してはいない。やはり、病室での一件が頭の中に残っているのだろう。それが、晃にはありがたかった。
自分でも、まさか本当に家を飛び出すまでに、喧嘩がエスカレートするとは思わなかった。
発端は、些細なことだった。
大学から帰ってきた直後、たまたま非番で家に居た父親と、玄関を上がってすぐのところでばったり顔を合わせた。
自分の部屋に上がる前に、そこで少し当たり障りのない話をしていたら、母親が現れていつものように晃に必要以上にああだこうだと言い始めた。
内心うんざりしながらも、精神的にまだ不安定な状態が続いているのはわかっていたため、一応適当に相手をし、さっさと自分の部屋に行こうとした。
そのとき、それが相当におざなりに見えたのだろう、晃の態度に正男が怒ったのだ。『母親に向かって、その態度は何だ』と。
それに、晃もカチンときた。
「普段、ちゃんと話も出来ていないくせに、とやかく言わないでよ。母さんがどれだけ僕を束縛しようとしているか、知らないわけじゃないはずだ」
「それでもだ。お前がそういう態度だから、母さんはいつまで経っても不安定なんだ」
「何言ってるんだ! 父さんが母さんをきちんと受け止められないせいだろう! こっちは“被害者”なんだぞ!!」
「親に向かって“被害者”とは何だ!」
あとはお互い、感情のままに言い争いとなり、とうとうキレた晃が、『こんな家、出ていってやる!』と叫んですべてを振り切って二階に駆け上がると、怒りのままに前から用意してあったキャリーバッグにパソコンやらなんやらを詰め込み、再び階段を駆け下りた。
まだ階段が見えるところにいた両親は、それを見て顔色を変えたが、晃は勢いのままにスニーカーをつっかけ外に飛び出すと、自転車を出して荷台にキャリーバッグをくくり付け、そのまま走り出した。
父の正男がすぐに飛び出してくるかと思ったが、どうやら母の智子がパニックを起こしたらしく、それを押しとどめるのに手いっぱいで、追いかける余裕がなかったようだ。
実際、正男に力づくで引き止められたら、超常の力を使わない限り逃げられなかっただろう。相手は現役警察官、自分は身体障碍者だ。
そうやって飛び出したのが大体午後四時半ごろ。
それからしばらく、あてどなく自転車で走り回っていたが、うろうろするうちに無意識に探偵事務所の近くまで来てしまい、ならいっそそこで泊めてもらえるか相談しようと思いつき、今に至る。
とにかく、泊めてもらえることにはなったが、すっかり頭が冷えた今となっては、自分でもやらかしたな、とは思う。
だが、いい機会だとも思っていた。
自分はこれから、禍神に向かって本気で歯向かうつもりだ。必ず狙われることになるだろう。
その時に、いくら日頃仲がいいとは言えない両親であろうとも、巻き添えにはしたくなかった。両親から物理的に離れれば、少なくとも巻き込む危険は多少は減る。
それを考えれば、今回のこれは、ちょうどよかったのかもしれない。