03.アカネ飛ぶ
能力的に、晃にいてもらわないと、いざという時に対処出来なくなるかもしれないのだが、トレッキングで体力を使ってしまった場合、晃の体力がいざという時に持つかがわからない。
そのことを自覚している晃は、申し訳なさそうに頭を下げた。
「すみません。僕が体力がないばかりに、こういう時に思い切った行動が出来なくなるんですよね」
「そんなことないわよ。誰だって得手不得手はあるんだもの。晃くんは、不可抗力で肺の機能が落ちてるんでしょ? だったら仕方ないじゃない」
「そういうことだ。本当の意味で足を使った調査は、私たちに任せなさい」
口々にそう言って笑いかけてくる和海や結城に、晃もつられたようにわずかに笑みを浮かべた。
すると、笹丸がこんなことを言い出した。
(晃殿、アカネに任せたらどうかの。アカネはその気になれば、異界にも踏み込める技量の持ち主。我は、適任であると思うのだが)
(まあ、アカネなら出来るでしょうけど、行ってくれますかね?)
アカネは、家の中にいる間は片時も晃から離れようとしなくなった。そして、事あるごとに『自分が守る』と言い続けていた。
そのアカネが、晃の元を離れて偵察を引き受けてくれるだろうか。
(アカネ、どうする? お前が行きたくなければ、無理に行かなくてもいいよ)
(……わたい、あるじ様守りたい。ほんとは離れたくない。でも……わたいが行かないで、あるじ様が無理して、危ないことになったらいや。だから、あるじ様の代わりにわたいが行く)
(……ありがとう。嫌な思いをさせて、ごめんね、アカネ)
(あるじ様、気にしないで。でも、必ず待ってて)
(ああ。必ず待っているよ。だから、アカネも無理しないで、危ないと思ったらすぐ逃げてくるんだよ)
(わかった)
(まあ、お前が行くよりアカネが行った方が、安全っちゃ安全なんだよな。アカネは、ひとりでも鬼に負けない力の持ち主だ。いざとなりゃ、振り切って逃げることも割と簡単に出来るんじゃないか? 少なくとも目の前のこの二人より、よっぽど逃げ切れる公算は大きいぞ)
(……そうなんだよねえ……)
晃は、今アカネや遼と話した内容を、二人に話してみた。
「実は今、アカネが『自分が行く』と言ってくれて、任せてみようかと思っているんですが、どうでしょうか?」
それを聞き、二人は思わず晃の顔を凝視した。
「アカネって、あの化け猫よね。確かに力はあると思うけど、化け猫だけ行かせて、現地の様子なんかわかるの?」
「あーそれに関しては、大丈夫です。僕が、アカネと感覚を繋げることが出来るので。ただ、あまり長時間繋げていると相当消耗すると思うので、要所要所で繋げるという感じになると思いますけど」
本気になれば、耐えられないほどの負担にはならないのだが、普段のままで行うと、やはり相当の消耗を招くだろう。長時間繋いでいるわけにもいかない。
「そんなことが出来るのか。さすがというかなんというか……。だが、消耗が激しそうなら、無理はするなよ、早見くん」
「あ、それはもちろんです。また倒れたくはありませんから」
晃は、今すぐ行かせることは可能だが、どうするかと問いかけた。
結城も和海もしばらく考え、やがてどちらからともなくうなずき、結城が代表して答える。
「こういうことは、早め早めに動いた方がいい。今から行けるなら、それに越したことはないだろうな」
晃はそれを聞き、紅玉髄に指を添え、念じる。
すると、石と同じような橙色の光が飛び出したかと思うと、それは大型の洋犬ほどの大きさの毛足の長い猫の姿となった。独特の三毛の毛並みは、間違いなくあのアカネのものだ。
二人とも、石にそれぞれ笹丸とアカネが封じられていると聞かされていたものの、実際にアカネの姿を目の前で見ると、さすがに思わず呆気にとられたような表情になる。
「相変わらず、迫力あるわねえ……」
アカネはのっそりと晃に近づくと、晃の体に頭をこすりつける。その姿は、大きさが規格外なだけで、普通の猫と変わらない。
晃もまた、アカネの頭から背中を、ゆっくりと梳るようになでる。その姿には、『あるじと従属妖怪』というにはずっと緊密な絆が感じられた。
「それじゃあ、行ってくれるね、アカネ」
晃の言葉にうなずくと、アカネは晃の顔をじっと見た。晃は右手の人差し指を伸ばすと、アカネの額にそっと押し当てる。
しばらくそうしていたが、やがて晃が指を離したところで、アカネは晃から離れ、窓辺に向かう。晃もそのあとを追い、二十センチほど開いていた窓を全開した。
すると、アカネの体がぼやけたと思った途端、かすかな光の塊となって開け放たれた窓から音もなく飛び出していく。
それを見届けると、晃は窓を元通りにした。
「……行ったの?」
和海が、恐る恐るという感じで問いかけてくる。
「ええ。現地に近づいたら、アカネのほうから知らせてくるはずです。そんなに時間はかからないと思いますよ」
晃の言葉に、和海は一瞬キョトンとした顔になる。
「……そんなに時間はかからないって、どういうこと? あそこまで、高速に乗って三時間くらいかかるわよ、渋滞なしで」
「幽体が飛翔する速さを、知りませんか? 秒速千メートルは下りませんよ」
「ええーっ!? そんなに速いの?」
秒速千メートルなら、例の場所まで確かに分単位で着く。
「……そう言われればそうかもな。古典の名作『雨月物語』の中にも、“幽霊が遠い距離を一晩のうちに飛んで義兄弟に会いにやってきた”という話が載っていたな。やはり、そういう認識でいいのかな」
「ええ、そういうことです」
「でも、場所わかってるの?」
和海の問いに、晃はうなずく。
「さっき、場所は教えました。行き方も、大体こう行けばいいという指示は出してあります」
先程、アカネの額に触っていたのは、場所と行き方の指示ということだった。もちろん、口では表しきれない想いも、そこには込められている。
いくらアカネが、妖としてはかなり強力な方だとしても、もし複数の鬼に同時にかかってこられたらやはり危険だ。
だから、自分の身を大事に、決して無理するなと繰り返し伝えた。
ほどなく、アカネが呼びかける“声”が聴こえる。晃は、二人に合図をすると、本格的にアカネの意識と自分の意識を繋いだ。本気を出していないこの状態でそれをするのは、相当に負担がかかるのだが、それでも出来る限り繋ぎ続けるつもりだ。
アカネの視界を通して、獣道のような荒れた道が見える。そして、荒れた道のその先に、朽ちかけて斜めに傾いた鳥居と、崩れた祠のようなものが見えた。
晃の直感が告げる。禍神のかつての封印場所はここだ、と。
そして、直感はまた、警鐘を鳴らす。ここに長居するべきではないと。
(戻りなさい、アカネ。そこにずっと居ちゃいけない!)
晃の言葉に、アカネは直ちにそこを離れる。
直後、その辺りに存在感のある気配が降った。去り行くアカネを追いかけようとして、途中で引き返すその姿は、黄髪赤肌の一本角で、碧の衣を纏う鬼。アカネが全速で離れていなければ、おそらくは追いつかれていたはずだ。それほど相手は、素早かった。
アカネがどうやら安全圏にまで離れたと確信出来て初めて、晃は意識を切り離した。
気づくと、滴るほどの汗をかいている。呼吸が乱れ、テーブルに右手を付き、肩で息をしていた。
「ちょっと、晃くん大丈夫!? すごい汗よ」
晃はすぐに答えられず、しばらく息を整えてから、体を起こした。その途端、一瞬めまいがし、よろける。
「おい、大丈夫か!? 今ふらついただろう」
晃を受け止めながら、慌てた声で結城が晃の顔を覗き込んだ。
「……すみません。今の状態だと、この程度しか意識を繋いでいられない……。ちょっと座ります」
「ああ、その方がいいだろう。顔色もよくないぞ」
念のために結城にちょっと支えてもらいながら、晃はテーブルのすぐそばにある来客用のソファーに腰を下ろした。
繋いでいたのは、ほんの数分。それでも、“視えた”。
あの場所は、生半可な人間が近づいてはいけない場所だった。
晃は、二人のどちらでもいいから、窓を開けてくれるように頼んだ。
結城のほうが窓に近かったため、結城が窓を全開にすると、直後に淡い光の玉が窓から飛び込み、それは再び大型犬ほどの大きさの毛足の長い三毛猫の姿となり、慌てたように晃の元に近づく。
「お疲れ様、アカネ。よく頑張ったね」
ポケットからハンカチを出して、びっしょりの汗を拭きながら、晃がアカネに向かって微笑む。
アカネは一瞬にして普通の猫と変わらない大きさになると、晃の膝の上に飛び乗って、心配そうにその顔を見上げた。
「そんな顔しなくても、大丈夫だよ。少し休めば、落ち着くからさ」
アカネをしばらく撫でてやると、晃はアカネを再び紅玉髄の中に戻した。