27.親子
その時、遠くからかすかな足音が近づいてきたかと思うと、引き戸が開く音がして、数人の人間が中に入ってきたのがわかった。
一呼吸ほどの間をおいてカーテンが一部開くと、白衣を着た三十代後半くらいの男性医師と、薄いピンク色の制服を着たベテラン看護師の女性が入ってくる。その後ろには、雅人の顔も見えた。
「気が付いてよかった。今、体温と血中酸素濃度を測りますよ。あと、血圧もね」
看護師の女性が、体温計を晃の腋に入れ、手早く指先に器具を当てて測定している。
「体温は五度六分。酸素飽和度は……九十三パーセントね。まだ低いわねえ、九十六パーセントまで上がらないと、正常値の範囲に入らないからね」
何でも、病院に運ばれた時には、酸素飽和度が九十パーセントを大きく下回っており、一時はICUに収容して人工呼吸器をつけるか、という話にさえなったらしい。
「……血圧は……上が百に乗ってないわね。九十七の五十八。横になってるにしても、やはり今のところ血圧低めだわね」
結果を聞き、今度は医師の男性が晃に話しかける。
「とにかく、どうしてこんな状態になったか、心当たりはありますかね。一通り検査はしましたが、まだ原因がわからないんですよ」
それはそうだと、晃は思った。霊能力を使いすぎたのだ。四撃目までは、何とか“気力”の範囲内だったが、最後の五撃目は本来生命力であった領域にまで踏み込んでしまい、全身のあらゆる生命活動が、一時低下した状態になったのだ。検査などでは、そこまでわかるはずがない。また、回復するのにも時間がかかる。
「……僕も、よくわかりません。友人と、電話で話していて……急に体から力が抜けて、気が遠くなって……。気が付いたら、このベッドに寝ていたんです」
本当のことを言ったところで、信じてくれるはずはない。晃は、当たり障りのないことを言って、誤魔化すことにした。
それから、さらにいくつか質問をされたが、真相を隠して辻褄合わせを考えながら答える。
質問が終わると、医師は唸った。
「……本人の話を聞いても、よくわからないな。取りあえず、現時点での体の様子を診させてもらいますよ」
医師は白いカバーのかかった毛布をめくると、検査着の前をはだけ、聴診器などで診察を始める。
一通り診察が終わると、医師は検査着を元に戻し、毛布を掛け直して晃に微笑みかける。
「状態としては、悪くはありませんね。対症療法でしたが、効いてよかった。ただ、もう少し呼吸器系が機能を取り戻して、落ち着いてくるまで、入院していたほうがいいでしょうね。心臓も、少し弱っているようですし」
元々晃が肺に障碍があるということは、病院関係者に伝えられていた。だからこそ、慎重に様子を見ようということになったらしい。
診察が終わり、今のところは容体が安定しているということで、医師と看護師から母親を呼んできてもいいと言われた雅人は、病室を出ていく。
しばらくして、明らかに廊下を走っているとわかる慌ただしい足音がした。そして、血相を変えた智子が病室に飛び込んできた。
「晃! 晃っ!!」
智子は、晃の姿を見るなり駆け寄ってきて、毛布の上からその体に縋りつき、泣き出したのだ。
「……母さん、落ち着いてよ。僕はもう大丈夫だよ」
晃はそう言ったのだが、その声がか細かったのだろう、智子が金切り声を上げる。
「何言ってるの! もう少し悪くなっていたら、本当にどうなっていたかわからなかったのよ! 今だって、酸素の吸入してるじゃない! 大丈夫なんかじゃないわよ!!」
これには医師が、慌ててなだめにかかる。
「お母さん、大声を出さないで。お気持ちはわかりますが、それでも息子さんには余計な刺激になりますから」
晃がいる部屋は二人部屋だが、今のところ晃一人しかいないそうだ。だからといって、大騒ぎしていいことにはならない。
それでも智子は、晃に縋りついたまま泣きじゃくっていた。
一時的にせよ生命活動が低下し、見た目は危険な状態に見えていたのだ。ショックを受けて当然と言えた。
(これは……やっちまったな、晃)
(……うん。これは確実にトラウマになったよね。これから家に帰ったあとでどういうことになるか、なんとなく予想はつくけど……。どうしよう……)
(確かになあ。でも、忘れるなよ。また今回みたいにやり過ぎたら……)
(……わかってる。気を付けるよ)
晃は、自分に縋りついて泣き続ける母親を見て、あれ以上の言葉をかけられずにいた。何を言っても、今は聞く耳を持たないだろう。上体だけでも起こせればよかったのだが、体がだるくてとても無理だった。
今、智子の心は、高校二年生の時の事故の瞬間まで戻ってしまっているかもしれない。
その時、再び廊下に足音が聞こえたかと思うと、父の正男が病室に入ってきた。
一応着替えてはいたが、相当急いでやってきたらしく、軽く息が弾んでいる。
それを見た看護師が、すぐに体をずらして中の様子を見せた。
「ああ、お父さんですか。今ちょっと、こういう状態で……」
床に膝をつき、息子の体に縋りついた状態のまま、しゃくりあげるように泣いている智子と、手を出すに出せず困惑顔の医師の男性が見える。
晃本人も、困り果てたという顔で、目線だけで母親と父親の顔を交互に見ていた。
「ほら、立って。晃から離れるんだ。病人にいつまでもしがみついているんじゃない」
正男が、智子をなんとか立たせて晃から引きはがすと、智子は今度は夫である正男にしがみつく。
「……晃が死んじゃうところだったのよ……。また……また……」
しゃくりあげる妻の様子に、正男も真顔になって改めて晃のほうを見る。
ベッドの上の晃は、血の気の失せた白い顔で、酸素吸入のチューブを鼻のところに装着し、腕には点滴が打たれている。
案外目に力は戻っているようだったが、それでも起き上がることは出来ない状態だ。
「先生、晃はどういう状態なのですか?」
「原因不明の呼吸不全ですね。それが循環器系にも影響を及ぼしまして、やや心臓が弱っている状態です。当院に搬送されてきたときには、意識不明でした。今のところ、検査しても原因が特定出来ず、本人への問診でもはっきりしません。ただ、緊急で行った対症療法が功を奏したようで、今のところ容体は安定しています」
「……そうですか」
すると晃が、父の正男に向かって口を開く。
「……父さん、母さんを受け止めてよ。僕じゃ、何を言っても……もう聞く耳持たないだろうから。仕事が忙しいのはわかるけど……今までと同じようにしてたら……母さんは何をするかわからないよ……」
「晃……」
この場の誰もが、智子が精神的に不安定になっているのを感じていた。
「今までだって……必要以上に過保護だったんだ。今回のことで、それが暴走しかねない……。父さんしか、受け止められる人はいないんだ」
晃の眼差しは、まるで父親を射るようだった。
医師や看護師まで、気まずそうにしながらも、正男のほうを見ている。
正男はしばらく押し黙っていたが、やがて大きく息を吐く。
「そうだな。仕事に逃げていたことは認めよう。あの事故以来、逃げていたのかもな」
父子の間の緊迫した雰囲気に耐えられなくなったか、医師と看護師は『あとはご家族で』とそそくさとその場を後にする。
「……父さん、あの事故の後、母さんが今みたいに精神が不安定になっていた時期があったよね。その時、どうして受け止めなかったの? きちんと受け止めて、向き合っていたら……母さんのトラウマがこれほどひどくなることもなかった」
「……」
「母さんが極端に過保護なのも……トラウマの裏返しだ。最近はやっと、少し強い態度に出ても大丈夫になってきたから……ちょっと強く言えるようになったけど……これでまた逆戻りだよ。父さんが受け止めない限り、ね……」
それだけ言い切ると、晃はだるそうに目を閉じる。少し呼吸が荒くなっているのがわかった。唇の色が、先程より悪くなっているようだ。
重い沈黙の時間が流れる。いまだすすり泣く智子の泣き声だけが、病室に響く。
「……ひとまず、母さんを休ませてくる」
正男は重い口を開いてそれだけ言うと、半ば妻を抱きかかえるようにして、病室を出ていった。
(……これも、親子喧嘩と言えるのかねえ……)
(そんなものじゃないよ。ただ、僕の気持ちを一方的にぶつけただけだ。実際、今のかあさんの状態じゃ、僕にはどうすることも出来ない。僕の顔を見るたびに、今日のことを思い出すことになるんだ。ちょっとしたことで振り切ってしまいそうで、怖いよ……)
一気にしゃべったせいで、だるさに加えて少し息苦しさもあった。息が整うまで、意識的に酸素を吸って体の力を抜く。
今日という日は、長くなりそうな予感がした。